『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』私の“悪文”は我家系にあり(1)**<2002.1. Vol.15>

2006年01月05日 | 藤井新造

私の“悪文”は我家系にあり(1)

芦屋市 藤井新造

 一ヵ月前から澤山さんより「原稿」をと言われ、「それでは少しぐらいは」と返事し、今になって困っている。そして風邪を引き寝ていた時、何時も大仰に苦しい、苦しいと喘ぐので家族から呆れられている時の自分が今と重なる。正岡子規に「一時の苦しみは夜に入ってやうやう減じ、僅かに眠気さした時にその日の苦痛が終わると共にはや翌朝寝起の苦痛が思いやられる。寝起きほど苦しい時はないのである。誰かこの苦しみを助けてくれるものはあるまいか。誰かこの苦しみを助けてくれるものはあるまいか」(墨汁一滴)と病中呻吟している箇所がある。私は子規には叱られようが、時々「誰かこの苦しみを助けてくれるものはあるまいか」との状況に出会う時がある。今もそうである。それと文才がないのは若い時から承知のこと、それ故ある程度働いて、あとは好きな旅行なり、映画を観て楽しみ、好きな碁でも上達したらと思い一昨年仕事を自分から辞めた。その後2年間があっと言うまに過ぎた。

 この2年間、私の行動範囲が広がったことが二つある。一つはボランテイアー団体で主に車椅子の方の自宅から病院へ、二つはデイーサービスヘのリフト車での移送である。これは辞める前の仕事との関係があり、週1~2回程度足を運んでいる。1年と4ヶ月続いた。もう一つは「阪神間道路問題ネットワーク」とのかかわりを持ったことである。こちらに参加するのも私は自称“環境派”の一人と自認しているのと、気持ちの上で無理なく出席できるからである。そして会議のなかで教えられることが多いのがいい。そして話がそれたが、上述の件、私の文才がないのは私の両親の家系のせいと思っている。

 もともと、母の家系は私が小さいころに廻船問屋であったと聞かされていたが、私の推測では海賊に近い。母の実家は小さい河口港に接し、屋敷も広く大量の荷物が入りそうなボロ倉庫もあった。母家も頑丈な建物風に見え、実際、土間の一部から太い棟木が横たわり時々蛇がとぐろを巻いていたのを今でも思いだす。

 私の生家は分家で、私が4才の時、隣村の家財をそのまま移して建築中、父方の祖父が亡くなり、まあ周囲の家屋と比較して田舎では小さめの家であった。それと比較すると、母の実家は柱、屋根瓦など外見上立派な構えである。

 だから、家の大きな屋敷の広さから廻船問屋とある年頃まで信じていたのだが……。それを、私が知っている母の兄弟達(長男は戦死、次男は病死)はどれもこれも立派な体格で、たくましく、力仕事向きにできていた。4男の伯父は六尺以上の上背があり、戦地から帰還してから当時はやりの村相撲で毎回優勝していた。相撲部屋から勧誘に来たと聞いたが、満更嘘ではなかろうと思えた。

 5男の伯父は高校で柔道初段となり、喧嘩早く、坂出市で一番強いと噂され、本人もアマ(?)ではと自認していた。女姉妹も男性に負けず骨太の体格でいて、体力を活かし商才を発揮し、その道に進んでいる。父の家系は商売(除虫菊のブローカー)兼みかん園業で、一家の考え方は拝金主義のかたまりであるが、多少知的なところもあり、こちらも商才にたけていた。(今回長くなるので省略)

 ながながと前置きを書いたのは、残念ながら我家系に文才がありそうな人間がおらなかったこと、それが私まで続いていることである。

「塩田」を詠んだ歌集『浜曳きのうた』

 ところが20余年前、母の姪の一人が塩田の風景、労働を題材にして『浜曳きのうた』の歌集として100頁の本にまとめ、坂出市のある短歌賞に入選した。私の母親はこの本に関心を示さず沈黙、放蕩三昧の末、母の実家の財産を食いつぶした(母の言による)3男の伯父が親戚から金一封を寄せ集め一人受賞式に参加していた。後にそのことを知り、この伯父が余分に貰っていた1冊が、今私の手元にある。

 仕事を辞めた時、『浜曳きのうた』に刺激され、殊勝にも短歌か俳句でも作れたらと思い、先ず『短歌を作るこころ』(佐藤佐太郎著)他2冊、俳句についても『俳句専念』(金子兜太著)他1冊を購入、余分に『高浜虚子』(富士政晴著)など読みはじめた。短歌にいたっては、NHKのテレビ講座のテキストを買い取り組んだが、1回しか聴かなかった。短歌、俳句も結局一句も出来ず、田辺聖子の台詞をかりれば、鑑賞する側に落着くことになった。(但し、田辺聖子は歌人、俳人を小説化している)そこで短歌、俳句とも作る才能なしと判ったが、今度は『浜曳きのうた』のあとがきの文章が気に入ったので、柄にもなく「塩田」について随筆を書きたいと思いはじめた。それは私なりの理由があった。戦後田舎では誰しも小学校高学年、中学、高校生(進学する者は少なかったが)は休日、授業が終われば否応なく家業(農業、塩田)のてだすけに狩り出された。

 私も今は怠けているが、当時は人並の働きをしていた。中学3年になれば夏休みが終わっても昼から男子学生の半分近くは出席せず空席が目立った。都会からきた英語担当の若い教師は「今しか勉強できないのに」と、怒りをもろに顔に出し不愉快極まる表情で授業をしていた。欠席者は、夏場多忙な塩田で働き家計を助けていたから仕方がない一面もあったのだが、この教師には理解できなかったであろう。

 それで、私も休日、放課後はみかん畑に働きに出る。山のみかん畑への往復の時、眼下の塩田で蟻の如く動きをくりかえす人々を何時も見ていた。そして塩飽諸島の西、高見島あたりに沈む夕日の美しさにみとれ、その日の労働が終わればほっとしていた。

短歌、俳句も詠めず“悪文"に徹す

 そうだ、「塩田」について短歌で詠めないでも随筆位は書けそうに感じた。早速、手元にある『文章読本』(丸谷才―著)他4冊のページをめくりはじめた。されどどの本も読み切れず、又中途半端に終わってしまう。そうしているうちに、家族から「文章の作り方」より、それ以前の日本語の勉強したらと皮肉られたが、これにはすなおに従い、『日本語練習帳』(大野晋著)他3冊を本棚より取り出し読みはじめる。『日本語相談』(井上ひさし著)など参考になる所が多かったがまたしても完読したのは大野の本のみで終わる。つくづく自分に対して情けなくなる。この時、先輩の友人より「要は自分の能力以上の文章を書こうとすると筆がとまる。自分の言いたいことを自分の言葉で書くしかない」と諭され、私の肩の荷(いい文章を書こうとする)がおり、それ以降“悪文"を平気であっちこっちに書いている。持つべきものは友であるとつくづく彼に感謝している。それで、これを書いている途中に「繰り返すが『文章のつくり方』という一般論は成立しない。各人の主体がちがうからである。だが文章が書き手の主体を表現するといったって、主体的でありすぎると読む相手にとっては理解不能であるという情けない事態が生じる。独りよがりだとか、独断といわれる文章である」(『矛盾を生き得る文章』椎名麟三著)を読むと、その典型が私の文章であり、少しは恥しくなる。がそれでも私の尊敬する作家・佐多稲子の「スタンダールのように、ドストエフスキーのように豊富にあふれるように書けたらどんなにいいだろう、とそれは自分でもおもう。しかし、それは自分がスタンダールのように、ドストエフスキーのように豊富でない、ということで不可能なのだとおもうしかない」(『自分に取り組んで』)の文章に接して佐多稲子ほどの作家でもそんなことを考えるのかと想像すると、少し気持が楽になり、救われる。

 そうだ、自分が豊富でないといい文章は書けないということかと、妙に納得した。澤山さんこれからも“悪文"を書きますのでよろしく。

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