『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』中国街道ぶらり記(その弐)**<2001.7. Vol.12>

2006年01月04日 | 大橋 昭

中国街道ぶらり記(その弐)

みちと環境の会 大橋 昭

 中世から近世にかけ、京都を起点とした西国街道が都と九州・太宰府を結ぶ官道であったのと比べ、大阪を起点とし尼崎を経て西宮で西国街道と結ばれる中国街道も時代の変遷の中でその道筋も幾多の変遷をする。いずれも人や物・文化を運び歴史を刻んできた畿内を通る古の道。前回は神崎の船渡しを起点に神崎遊女塚、浄光寺、長洲の天満宮、残念さんの墓、大物の浦を訪ねた。今回は年々その姿を変える町並みを見つつ、幾千年にわたって造られた武庫平野を踏みしめながら、海岸沿いの古い町並みを南西へと進む。

尼崎城

 阪神電車の大物駅あたりが史跡の多い所。ここ大物の浦から南に向かうと国道43号線の手前に城内小学校がある。この小学校、歴史は明治初めの学校制度の制定と同時に建てられ尼崎市で一番古い。後に建てられた金楽寺・開明小学校などの先輩格。ここの校庭には名城と謳われた尼崎城の四層天守閣の模型(セメント造り)が往時の姿を偲ばせてくれる。

 1617年(元和3年)江戸幕府は大阪の西の要塞として、ここ尼崎藩に築城を計画し、譜代大名戸田氏鉄に命じ、海と川を巧みに利用し四層の天守閣をもつ尼崎城を造らせた。天下の美城と言われたが明治維新の廃城令で取り壊される。

 大阪城を中心とした藩政の中でも尼崎藩は最重要地(幕府直轄領)であり、幕府のテコ入れで海岸地帯が続々と開発され、新田による農業(綿・薬種)の拡大、商業(米・酒)などは大いに振興したという。また古くから伝統を持つ漁業はイワシ(肥料の原料)を求めて遠く房総半島まで出漁した記録も残されている。

築地町

 城内小学校をあとに更に南へ。築地町の入り口の大黒橋を渡れば古い町並みと厚い人情を誇る町に入る。ここも築城時に城下町として建設され今に残る築地町は、町なかを中国街道が通り、諸国大名の参勤交代や朝鮮通信使などが行き交った由緒ある町。

 近年では工都尼崎の重化学工業の発展は戦争ごとに加速。東の京浜・西の北九州と並び阪神の中核都市として膨張。戦後では、朝鮮戦争特需で息を吹き返し、全国から多くの労働者が南部工業地帯に集まり、町の活力化をもたらす。因に人口のピークは1970年(昭和45年)55方4千人の記録がある。主に漁業や軽工業の町として栄えたが、近年工業用水(地下水)汲み上げが原因で町全体が海抜0m地帯に。故に戦後は度重なる高潮洪水被害と、あの阪神大震災の打撃に、町に今は昔の面影なく、ただ震災復興事業の音だけが響き、その激変にただ息を呑むばかり。しかし折からの公害問題(工場からの煤煙と国道43号線車の排ガス)は多くの住民に深刻な健康被害を与えて生活を奪い、いまなお多くの公害患者が苦しい日々を送り、今日の「クルマ社会」のあり方を、問い続ける。公害の町と言われ、道路公害反対運動のさきがけの地として有名となったことは皮肉。

 ここ築地も、毎年秋祭りの「喧嘩ダンジリ」は貴布祢神社に負けぬ賑わい見せるも、近年やや下火になった。若衆の勇壮な姿に人々はわが身を重ねて血をたぎらせ、酔い、わが町の名誉を競ったのも昔の夢か。

寺町界隈ヘ

 築地本町通りを西に歩き戎橋を渡り、庄下川(戦前、毎年冬にはここに広島からの「牡蠣船」が賑わい を見せていた)を右にして開明橋から寺町へ。阪神電車の南出口からすぐ右手の方向に寺町がある。この町も築城時に散在していた寺院を城下に集め造られた町。ここに十二ヶ寺が工都には珍しく静かな佇まいを見せている。ちょっとした散策には最適の所。本興寺を筆頭に全昌寺、広徳寺、甘露寺、方園寺、大覚寺、長遠寺、如来院、専念寺、常楽寺、善通寺が戦災や震災に負けずに城下町の面影を残している。各寺院はそれぞれの由緒を持つが、太閤記にある秀吉との関係が深い広徳寺や前回ルポした神崎遊女の遺髪がここの如来院に納められているなど歴史探訪の興味は尽きない。

貴布祢神社

 寺町から再び南へ下れば中国街道筋に「尼のきぶねさん」で有名な貴布祢神社が国道43号線のすぐ側に建っている。戦前、東は辰巳橋から、西はみの神社前を通る本町通りが尼崎随一の繁華街であったが、戦災で消失。のちにこの上に現在の国道43号線・阪神高速道路が造られる。案内板には主神は海人の守護神であり、古くから雨乞いの神様として敬われ幕末には、千ばつや黒船の来航時には藩のために盛んに祈祷が行われたとされている。

 毎年8月1日・2日の例祭はつとに有名で、大勢の老若男女が名物の「喧嘩ダンジリ」に押し寄せ、真夏の一時を心ゆくまで楽しむ。

 西国街道筋に建つ昆陽寺も、行き交うおびただしい車の排ガスの中でくすんでいたのを思いだし、改めて身近にある文化財の保存の有り様にもっと力を入れなければ……と痛感。

道じるベ

 貴布祢神社を出て旧街道を一気に北に向かう。阪神電車の高架をくぐり、街道筋を建家町へ。ここの狭い交差点の一角に「左西宮・右大坂道」の道じるべに出会う。国道2号線が完成した後でも、旧国道と親しまれた道筋に今は忘れられたように佇む石碑の大坂の{坂}という文字に注目。今では大阪の阪は{阪}を使っているが、その訳は大阪人が度重なる火災で土に帰るの{坂}を嫌い{阪}にしたとか。こんなところにも先達たちのわが町の繁栄にかける気概を思わせる。

琴の浦神社

 道じるべに従って旧街道を西へ蓬川橋を渡り琴浦神社へ。平安初期の嵯峨天皇の皇子源融公を祭神として祀る。このころの景色が他所よりも勝れていたので「異浦(ことのうら)」とも呼ばれていたともいわれ、毎日30石(1斗缶300個分)の海水を京都六条の邸宅に運ばせ塩を焼かせたという。市内に潮江の地名があることからも、当時は財力のあった貴族たちは潮汲みを盛んにし、大いに稼いだ?らしい。見事な白浜で人々の潮汲み、都への運搬のことなど想像していると、すぐ近くの尼崎競艇場からのものすごいエンジンの爆音。ここでもまた騒音公害のおかげで、遥かなる音を偲ぶ夢をあえなく破られ思わず嘆息。

武庫川の堤防.. …雉が坂付近

 琴浦神社前から旧国道(国道2号線が出来るまでは幹線道路として活躍した)を西へ歩けば、武庫川の堤防に突き当たる。「地図上の中国街道はこの辺りからかなりジグザグコースになっている」

 ご存知われらが武庫川!

 その源は丹波山地。河川流路約65キロメートル、流域面積500平方キロメートル、尼崎市面積の約10倍。周辺には約140万人が住む。中流域の武田尾渓谷は兵庫県下でも有数の景勝地。今ここに「治水とレクリエーション」を目的としたコンクリートダム建設計画が進む。片方では「税金を使い自然破壊をゆるすな」をスローガンに流域住民のダム建設反対運動も進んでいる。国土の7割が山また山。この国では毎年どこかで洪水の被害は起きることは必至。ならばどのような治水が理想なのか。住民も行政も知恵の絞りどころ!問題は解決の方法、手立てに民主的な配慮(情報公開と住民参加)をいかに保障し具体化して行くのか。課題山積。

 さて、中国街道に戻ります。ここから上流約5キロメートルには西国街道の川渡しで有名な『髭の渡し』があり、この付近にも渡し場があったが、今はその面影はない。その昔、秀吉が信長の異変を知り、急ぎ光秀を討たんと上洛の際、ここで光秀の兵の待ち伏せに会うが、雉の飛び立つのを見て難を逃れたと言う言い伝えがある。

 堤防から西に目をやれば、六甲の山並みが初夏の夕暮れに映え、美しい姿を見せている。私たちはこの山や川の恩恵を受けつつ歴史を紡いできた。これらは先祖からの預かり物。しっかり守り子孫に引き継がねば……向こう岸の西宮を望みつつ次回のぶらり記のプランを練りながら河川敷を帰途についた。

 次回は西宮市内を訪ね芦屋川までのコースを予定。


参考資料 尼崎市「地域史研究」・尼崎市史(第二巻)

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