誰が流れを変えるのか
土建国家の病根は深い
道と環境の会 砂場 徹
最近は県下自治体の行事や資料などで、「参加」や「協働」の字句は珍しくなくなった。中には「参加」と言えるのかと首を傾げたいものもあるが、総じてまちづくりや福祉分野では「住民参加」が次第に根づいてきていると言えよう。
他方、私たちが「道路ネットワーク」の活動を通じて見るとき、阪神間の道路・河川整備など公共事業は、各地で地域住民との間で軋轢を起し、長年にわたって同じことが繰り返されており、「住民参加」はどこにもない。なぜか、住民が性こりもなく不平・不満を言うからか。断じてそうではない。対立の一方の当事者(住民)は事件ごとに各地バラバラだが、もう一方の当事者は兵庫県と県下各市だけである。つまり「相手変われど主変わらず」というわけだ。そして、軋礫の原因はすべて、事業主体の住民無視に対する住民の不満の噴出である。それが常態化しているのだ。かくして当初画期的なものに見えた「道路審議会の中間答申」や「新河川法」の“道路や河川整備の計画の早い段階から住民の意見を取り入れる”精神は「絵に描いた餅」で、今や改革の理念も色あせている。残念なことに、この状況でなお行政は、住民との対立の原因が自分側にあるなどとは微塵も考えていないようである。現況を概括してみる。
道路建設では現在進行中の「山手幹線」事業が住民無視の典型である。50年間放置していた計画を、住民に対する説明も形だけ。疑問には答えない。環境アセスメントも行わず着工にもっていこうとする行政のゴリ押しに、西官市、芦屋市の地域住民は強く反撥した。西宮市では、住民の反対を無視して武庫川架橋のための測量を強行し、これに抗議して座り込んだ住民たちに対し、1回の座り込みに1組織30万円の罰金を課するという前代未聞の手段で弾圧した。
芦屋市では同じ「山手幹線」事業で、市長は「反対する会とは会わない」と、言い放つ始末。市民参加どころか、市長の好みで市民との対話を拒否するという、およそ前近代的な「支配者意識」が存在するのである。尼崎市で、約2年前調査作業を中断した「南北高速道路」では、県は「いつでも再開できる態勢で作業を中止しているのだ」と、再開を広言し今日に至るが、住民が要求する調査内容の公開には一切応じていない。ここでも尼崎市長は、6年間にわたってついに「反対する会」との面談を拒否し、一切の情報公開要求にも応じなかった。これが県の強い指導のもとでの対応であったことはいうまでもない。
阪神高速道路公団の北神戸線東伸部建設事業では、水道水源である金仙寺湖の上にルートが設定されたことに対し、水質の悪化を懸念する住民のなぜわざわざ湖の上を通すのか、との疑間に「安全である」というのみの回答である。住民側は周辺の自治会で特別委員会をつくり、道路公団、西官市、兵庫県と住民で構成する協議会に参加している。しかし、どこも責任ある態度をとらずうやむやのうちに数年を経過し、最近口実をつけて工事を進めている。
最高裁が欠陥道路と裁定した43号線の抜本的対策は今なお回避されている。
河川行政では、現在進行中の武庫川ダム事業を見る。
今年の1月上旬「武庫川下流の治水」という立派なチラシが流域各市全域で、各戸に配布された。チラシは武庫川ダムの必要を説明する県の宣伝物であるが、これは環境影響評価制度の最初の手続きである「概要書」の公表でもあった。この時点で一般の住民は、ダム事業の当否どころか計画の存在すら知らされていなかった。県は流域住民の「参加」など全く眼中にないのだ。こうして、県が決めた日程で工事着工のための不可欠な手続である「公告」「縦覧」「(住民)の意見の提出」が進み、3月現在では「意見に対する県の見解書」の発表にまでこぎつけていた。この段階での最終手続きは終了して、県は次の段階(準備書の手続き)に移れる状況にあった。
この頃、尼崎市では(5月下旬)やっと最初の説明会が行われた。尼崎での2回の説明会で、住民から出された抗議や異議や対策などに誠意ある対応をしない県側に対し、市民の不満は高まり3回めの説明会が行われることになった。県の思惑は、市民の声を適当にあしらいながら、ひたすら「手続き」の次の段階(「準備書」の提出)に向かいたかったのであろう。だが、この頃住民側は、説明会が単なる手続きであると厳しく批判していた。7月1日、3回目の説明会の冒頭、県側主将格の中村河川開発課長は、「ダム建設にむけて事業は粛々と進行している」と発言した。真意ははかりかねるが、説明会がどうあろうと事業計画は進めていると広言したもので、住民の心に冷や水を浴びせた。
この日、最初の住民側の女性の発言者が「住民の意見を取り入れるというのであれば、計画を白紙に戻すこともあり得るのですね」と追及したのに対し、県側出席者の一人が「ダムがなくても絶対安全だということを証明してもらいたい」と暴言を吐き、会場は抗議と怒声で騒然となった。その議論を避けてきたのが県ではないか! 河川課長と本人がただちに「言い過ぎでした」と謝罪し、その場はおさまったが、ここに彼らのホンネがよくあらわれている。「住民参加」は「参加させてやる」ぐらいにしか考えておらず、「住民主体」の思想などカケラも無いのだ。
この日の説明会で県側は回答に行き詰まり、遂に立ち往生。再度の(4回目)説明会を約束してやっと閉会した。この出来事は、説明会が手続きとして実績を積むだけの、県のためのセレモニーであった流れに変化をもたらした。大きな成果である。だが、大失点を負った県が、これを機に反省して「住民主体」の思考に変わるだろうか、それは全く期待できない。7年間たたかい抜いて「住民投票」で勝利した「吉野川第十堰」の可動堰化反対のたたかいですら住民はまだ「勝利」を手にしていないのだ。選挙が済み新大臣に就任した扇千景建設相は、「流域全体の一部の地域の意向である。それだけで決める気はない」と否定的発言をしている。ここにも、土建事業に群がる政・官・財の構造の根深さを見ることができる。緒戦を通過したばかりの私たちの課題は、一人でも多くの住民にこの計画を知らせることである。一人でも多く、私たちの考えを知ってもらうことである。
ところが、最近私たちの考えに真っ向から反対する学者の見解が、朝日新聞のインタビュー記事で紹介された。反論の機会を別に得たいと思うが、反面教師として勉強しておいて決して無駄ではない。要点を紹介する。
- 住民の意思が直接、政治に反映されることが民主主義の本旨ではない。国民に選ばれた政治家に決めてもらう方が安全だ。
- 大衆は世界情勢や外交など大きな問題について考える時間的余裕も判断する準備もない。
- 市民は「私」の権利や利益を政治に主張する傾向がある。高度に公共的なことについて最終判断を下すのは、エリートたる政治家の仕事だ。民主主義はエリート主義と結合しないとうまくいかない。
- 公共事業に対して、環境を守れという人がいる一方で、国のカネを導入して利益を得ようとするのも住民だ。国が国民の生命、財産を守っている。国益にかかわることを住民が決めてしまうようでは、国家体制はガタガタになってしまう。社会秩序や安保、エネルギー政策など国の将来にかかわる問題の、最終的な決定権は選挙で選ばれた人々にある。(住民投票について)
以上がその学者の論である。国から給料をもらっている学者が皆こうだとは思わないが、このご仁の思想は見事に公共事業に群がるゼネコンと利権屋どもを、「学問」の名によって励ましている。ここに日本の政・財・官癒着の汚職構造の「旧態」の根深さを見る思いがする。いま重要なことは「作業を中止する」勇気を県の当事者がもつことである。県・河川課長は、「皆さんの意見をどうやって取り入れるか、考えているところです」と答弁したが、話し合いの一方で事業計画は進行しているという状況は対等ではない。これは「住民参加」ではない。環境重視や住民参加の理念をうたった立派な法律があっても、知事や市長がいかに巧言麗句をならべようとも、実際には「工事を中止する」という選択肢が存在しない(存在させない)以上、意味がないことはすでに経験ずみである。行政が住民の信頼をとりもどすことを真剣に考えるならば、「作業を中止」して双方が対等であることを実際で示すことである。
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