私の“悪文”は我家系にあり(2)
芦屋市 藤井新造
この間小川紳介(小川プロダクション)監督の映画を(2/9~3/23)何本か観た。昔よく観ていた三里塚闘争一連の作品以外である。そのなかで『1000年刻みの日時計』『牧野物語。養蚕編』に注目していた。それは私が田舎出身でそれも百姓に近い農産物(みかん作り、除虫菊が主)により生計を維持し、私も小さい時から(私の田舎で当時誰しもそうであったが)農作業を手伝わせられていた。
映画の宣伝文言によると『1000年刻みの日時計』については、小川プロダクションのメンバーが稲作りに挑戦し、稲の生育課程をフィルムにおさめたとあり、牧野村(現在は上山市)での13年間の出来事(縄文土器の発掘、百姓一揆の芝居、村の伝統行事の再現等)を撮ったものである。
又『牧野。養蚕編』については「蚕」が「繭」になる成育課程を、牧野の住民による手法に特徴があり撮ったものであろうかと想像していた。後者については分からないが、稲についてなど学術上の記録フィルムがいくつか存在するのであろうに、何故ドキュメンタリー映画として製作したのか、そのあたりを知りたかった。
又東北の山形は私にとっては未知の土地であり、東北旅行をすれど山形は汽車でもしくはバスで通過する一つの街でしかなかった。その山形の牧野のどこに興味を抱き撮影したのか知りたかった。
それ故私はオガワプロダクションはどのような作品を完成したのであろうかと大いに期待していた。しかし、現実には私が期待する程の内容ではなかった。映画として完成度が高いとか低いとか又はこう言う表現はどうかと思うが、優れた作品であるとかどうかと言う前にある一つの違和感を感じた。その理由の一つには「稲」とか「蚕」にも一時的であるが、労働として強制的手伝いをさせられた経験があるからである。
田植えについては2回のみ、養蚕についても桑の葉を少し集めていた位で、手伝いと言えばオーバーな表現であるが、それでも身体の小さい時の労働のしんどさは一生忘れることができない。そして、極端に言えばこれら農作業にたずさわり働くことが楽しい、と感じたことは一度もなかった。肉体労働のしんどさを、それこそ頭の先から足の裏まで肉体の成長過程と同時に成長さし続けたせいであろうか。上記の作品には子供はでてこない。時代の差を感じるが、それとも大人になれば働くこと=作る喜びを享受するのであろうか。今もって私にはわからない。
夏は泳ぎながら貝をとる
それはさておき今回夏の遊びと冬休みの労働について書いてみたい。
前回も少し触れたが私の母の実家は港に近く河口のそばにあり、小さい木造船が満潮の時は接岸できた。しかし殆ど荷の積み降ろし(主として塩)はもっと下の河口の港で行われるので、接岸する船も少なく夏には近くの子供たちにとっては格好の泳ぎ場所になっていた。小学生にもなると皆んな泳ぎを覚えたくなる。そして、高学年になると一応の泳ぎ(自己流)ができ下級生にそれとなく教える。その教え方が少し乱暴であった。
泳げない者(ある一定の年齢に達したと思われる者)を河の2m位の高さのある堤防より突き落とすのである。そうすると、一度は海水の中で沈み一生懸命に手足をばたつかせ海面に顔を出す。そして次にも沈むのであるが、海底まで沈まないうちに引揚げてやるのである。回を重ねるうちに、溺れないため本人は少しづつ泳げる時間が長くなるのが不思議であった。身体で覚えるとはこのようなことなのかも知れない。少しでも泳げるようになると岸の近くに飛び込めば、自力で返ってくることができ、段々と上達する。
但し、先程述べたように海水でも2回目に沈む時は細かい注意をして見守り海底まで行かないうちに引揚げることが大事であった。死亡するからである。今頃では考えられない大胆な泳ぎの教え方、習い方(?)であった訳である。それでも事故があったことを聞いたことがない。
逆に、都会から遊びに来た子供が池で泳ぎ溺れ死んだことを聞いた一件があったが。
誰かから口伝で教えてくれたのであろうが、私は小さい時、真水で泳ぐのは恐いが、海水は大丈夫と言うことを聞き、確信めいたものを持っていた。注意したのは、くどくなるが2回目に沈む時、海水のなかでもがきながら下降している時、引揚げる瞬間をどの時点で判断するか。それは突き落とした年上の者が判断し、引揚げる責任があったことである。
自力では2回目は浮揚しないのがわかっているから周囲も少しは注意していた。そのように全体の動向が判断できる位の人数であったろうが、相互の泳ぎをみながら自分でも泳ぎを楽しめる時間があった。
次に、引き潮、満ち潮の流れる早さをみておくことが大事であった。小さい河でも初心者が潮流にまきこまれないように目くばりが必要であった。この場所で泳ぎ疲れ、引き潮になり海底に足がつくかつかない位の深さになると立泳ぎをしながら河口を下って行く。500m位下に行くと小さい桟橋があり、まだ深さがある場所に着く。ここは主として塩を積む船、艀、小さい漁船が二、三隻堤防につながれている。ほんの小さいもので、港と言えない位の広さしかなかった。ここでは何時も1~2m位の深さがある箇所があり、少し泳ぎに自信のあるものでないと泳ぎ遊べない。潮の流れが速い箇所があり危険である。
ここで泳げる者は泳ぎに少し自信がある者が殆どで初心者はいない。しばらく桟橋のあるここで泳ぐと、引き潮で海は浅くなりもっと河口に下り潮干狩りをする。
田舎では貝殻(かいがら)取りと言っていた。遠浅なのでここでも泳ぎながら貝をとったりして遊んだ。時々、友達と泳ぎに夢中になり貝を取るのを忘れ、膝まで潮が満ちてきてびっくりしたことは何度もあった。とった貝は大底翌朝の味噌しるの中に入っていた。恐いのは、時たま襲来する夕立と雷である。岡山方面の空に雷雲が覆ってくると気をつけねばいけない。ゴロゴロと雷鳴がし、稲光がはじまると泳ぎをやめて友達と帰り支度をする。帰途雨宿りをした経験もあろうが、記憶にない。浜辺は塩田ばかりで人家が少なかったせいかもしれない。塩田の多い坂出方面へは夕立はあっても雷様は滅多にこないが用心していた。そろそろこちらの方の空が暗くなりそうだと判断するのは子供にとっては一番難しいことだった。それは岡山方面で激しい雷雨と稲光があっても、こちらまで来ない時が多かったせいであろう。ともかく、小学生の頃は夏休みはこのように過ごしていた。
泳ぎと貝とりに行かなくなったのは何歳か定かではない。言えることは、家の農作業が手伝える体格(身体)に成長した時、わたしは海からみかん畑のある山へ上がることになった。
つづく
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