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風は東楡の木通りから

クリスチャンフルート吹きパスピエの愛する音楽、猫たち、薔薇の毎日

心の中のデス・ノート

2006-11-22 00:40:35 | キリスト教(証)
今映画の「デス・ノートthe Last name」が人気だ。
私も息子と一緒に先日テレビで前編の「デス・ノート」を見た。
見た後でなぜこんなに人気になっているのかわかるような気がした。

映画では主人公が社会が法で裁けない悪者を死神が落としたデス・ノートに名前を書くことによって葬り去る。初めは正義感でやっていたことがだんだんと自分の私利私欲のためになっていく。

「こんなやついなくなればいいのに」「赦せない、なんとかしてやりたい」
誰の心の中にもそんな気持ちがあるからね。誰の心にも「デス・ノート」を持ちたいという欲望があるんじゃないだろうか。デス・ノート人気はそこらへんからきているのかな。

私の心の中にもこの世から消しさってやりたいという強い憎しみをもった人がいた。7、8歳の頃のある出来事がもとである人にひどい憎しみを30年以上も持ち続けて生きてきた。その人が私にしたことをここで明らかにする勇気は今はない。もしも、デス・ノートが私の手にあったならば真っ先にその人の名を書いただろう。それほどにその人の死を願っていたのだ。

だから、憎しみを持って生きてきたことに対して正当性は感じても罪悪感などまるで感じていなかったのだ。

その出来事を思い起こすたびひどい鬱状態におちいり、自分の中でどろどろとしたものがこみあげてくる。苦しみとか悲しみとか憎しみがうずまき、どこかで助けを求めていた。でも誰にも話す事もできず、それは当時8歳の私の心の中に巣食い30年以上も私を苦しめる事になった。

それから何年かして風の便りでその人が亡くなったことを知った。もうこの世にいないということを知って「あんなやつ死んで当然だ」と思った。しかし、その人がこの世からいなくなったことで心の中がすっきりする事はまったくなかった。

憎しみとは恐ろしいもので憎む相手がいなくなっても消え去る事はないのだ。心の中にずっと巣食っている。

そして30年経った時、私は結婚していて、2人の子供の母親となっていて、キリストを救い主として告白していた。そして信仰を持ってからおかしなことに気がついた。30年以上も憎んでいる人のことを思い出すと、憎んでいるということがとても心苦しくてしかたがない。

キリストは私達の罪を赦すために十字架にかかられた。それを信じることで私は罪を赦してもらっているのにその私は赦せずにまだ憎んでいる人がいる。

どうしたらいいだろうか。このままではいられない。赦されたのだから赦すべきだろう。でも赦す事ができない。どうにも苦しくて仕方がないので部屋に独りでいるとき泣きながらこう祈ったのだった。

「主よ、私には憎んでいる人がいます。それが罪であるとわかっています。でもどうしても赦せません。苦しくて苦しくてしかたないのです。でもあなたは私の罪を全て赦してくださった。だから言葉だけでも言います。本当はそんな気持ちないけれど言います。その人を赦します。」

言い終えたとたん、フッと、心が軽くなった気がした。
そしてしばらくたってみて気がついた。あの出来事を思い出すたびにどろどろとした嫌なあの感覚が今はまったくよみがえってこないのだ。嫌な出来事があったことは事実としておぼえている。でも憎しみがまったくなくなってしまった。消えてしまったのだ。

信じられなかった。何十年も自分を苦しめてきたその嫌な思いがいくら思い出そうとしてみてもわいてこない。今度は別の涙がこみ上げてきて後から後からあふれてくる。その気持ちをなんと表現したらいいかわからない。うれしいような、すがすがしいような、感謝にあふれたそんな気持ち。
ただ主に感謝するのみだったのだ。
私の心の中に起こった奇跡だった。

この状態をよくあらわしている聖書の御言葉がある。

「もし、私たちが、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(新約聖書ヨハネの手紙第一1章9節)

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に終われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷ゆえに、あなた方は、癒されたのです。(新約聖書ペテロの手紙第一2章24節)

こうして私は救っていただいた。神様からの一方的な愛で。友人のブログでこの「救い」という言葉について次のように書かれていた。

「旧約聖書の中で現されるこの「救い」というヘブル語は「赦し」という意味と「
担う」という意味があるそうだ。救われるということは変わったということだけじゃなくて、赦し、与え、そして、担ってくれるという意味がある。なぜならそれが、神様の姿だから。」

「赦せない」という思いは誰の心にも「自分の思い通りにしたい」という自己中心的な欲の表れではないだろうか。赦せないという気持ちは仲たがいを起こし、殺人をおこし、国と国であったなら戦争をひき起こすのではないだろうか。

人の心に必要なのは「デス・ノート」ではなく「赦す気持ち」だと思う。自分の思い通りに人を死に追いやっても心の中は暗闇のままだ。憎しみに支配されてずっと闇の中をさまようばかりなのだと思う。

それだけ「赦す」ということは「赦して下さい」というよりも難しいのではないだろうか。

私はただ主に感謝するのみだ。自分ではどうにもできない事をただ主の恵みによって闇から救われたのだから。

私の心の中からデス・ノートは消滅してしまったのだから。。。

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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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デス・ノート (らぶ)
2006-11-22 07:53:43
失礼な言い方だったら本当に申し訳ないのですが、非常に興味深く最後まで読まさせて頂きました。

と言うのはですね、私は仏教徒なんですが、涅槃経という経典の中に「抜受代苦」という言葉があって(普段、涅槃経の全ては読めないんですけれども、日本語→他言語に訳す為に原本を読まれた方から教えて貰ったんですよね。この場合は“仏様”が苦しみを抜いて代わりに受けて下さるという事ですが)以前カソリックの人からキリスト教にも同じようなtermがある、とは聞いていたんですよね。

なので、今パスピエさんの聖書からの抜粋と、ご自身の体験を読ませていただいて、なるほど…と思いました。

あんまりねぇ、宗教の話ってしない方が…って言うじゃないですか。だからコメントを残すのも良くないかな…って思ったんですけれども、なるほど・・・と思ったので、勿体無いのでコメント残させて頂きましたm(_ _)m

あっっデス・ノート、私も見ましたよ!!!
日本のテレビで放送された後、ネットでですが。あれは面白かったですねぇ( ̄ー ̄)♪
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なるほど! (パスピエ)
2006-11-22 10:58:51
>>らぶ様

面白い一致ですね~。
あ、全然失礼なんかじゃないですよ。
コメントありがとう。

実は仏教とキリスト教、にている部分がたくさんあったりします。以前読んだ本で、「日本・ユダヤ封印の古代史2(久保有政著)」という本の中で仏教と景教(ネストリウス派のキリスト教)の類似について述べているものがあり、すごく興味深かったですよ。
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ありがとう!!! (ぴーまん)
2006-11-22 21:38:53
今ね、本当に、胸がドキドキしています。
心臓から、血液が出て行くのを、感じるの。
胸が、ドキドキ、温かいの!

落ち込んでいたときだったから、なおさら♪

凄い!凄いよっ!パスピエさん♪

うわ~。ありがとう(^ー^)

神様、すごい
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Unknown (パスピエ)
2006-11-22 22:57:52
>>ぴーまん様

ありがとう。
その時のこと思い出すとね、今でも涙が出てくるの。感謝の涙ね。うん、神様はすごいね!
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