蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

先週末の立山のナダレ事故で色々と考えてしまう

2013-11-29 23:57:35 | 山とスキーでブラブラ

毎日が休日、盆と正月のオメデタイ生活をしているから、先週の立山ナダレ事故のニュースで、その週末が連休だったと気がついた。

山スキー用の兼用靴と貼り付けシールが世に出たしたのが、確か30年程前。
そしてその頃から山スキーを始めたワタクシ、テントを担いでまずは立山へ。5月の連休、雷鳥沢をベースにして剣沢を平蔵谷の出会いまで、剣沢滑降デビュウ。

翌年は三ノ窓雪渓を滑るべく、二俣まで降りてテントを張ったが、ズッと降雪。1/3程登った所でギブアップ。
二晩、プロック雪崩の音を聞きながら過ごし、次の日、ハシゴ谷を登り、内蔵助谷を黒部川へ滑り降り、黒四ダムへ着いたものの、扇沢側はまだ開通しておらず、関電のトンネルを延々と歩いて扇沢の駅でビバーグ。
関電のトンネルを歩いたのは三回目だったが、雪を吸ったテントがとにかく重かった。
しかし、まだ三十代、元気だった。

その後も立山通いは続いたが、行くのはいつも五月の連休。11月末の新雪シーズンは知りません。

大体、雪の締まっていない新雪は、ワタクシのレベルでは楽しく滑れないし、営業職は気持ち的にも年末間近に山スキーをする余裕などなかった。

今回のナダレ事故、新聞等の写真を見るとかなりデカイ。大走りの稜線から大走谷をズドンと落ちて、雷鳥沢のテント場近くまで雪煙が届いている。これはスゴイ。

020 この写真は08年5月。
別山のテッペンから真下に落ちる谷を滑って大走谷に降り、室堂へ登り返し、振り返って撮った写真。右手からなだらかに写真中央へ下る尾根が大走りの稜線のハズだから、今回のナダレはその稜線の裏側だと思う。

この尾根周辺は雷鳥沢でテントを張って、悪天停滞続いて、それが好天になりそうな午後、チョコッと登って滑り降りたりしたエリアだ。
しかし、それをするのはいつも尾根沿い。

今回のナダレ事故、新聞の記事によると、稜線から男性が急斜面を滑り降り、数ターンした後、ドンと亀裂が入り、ズズズッと雪崩れ、7人が巻き込まれたとのこと。

と言う事は、稜線から裏の大走谷に向かって降りたと言うコト?、もしそうだとするとこれはスゴイ。

22日までの2週間はズッと降雪で、富山側からのパスはほぼ運休していて、ナダレのあった23日、やっと晴れたそうで、いずれにせよ、ドナイ考えてもかなりヤバい状況、と全てのニンゲンは思うハズ。

それなのに谷側に下る?ホンマにその人達はそんなコワい行為をやったンだろうか。

深雪でもラクぅに上手に滑れるファットの板履いて、ビーコン持ってルから、何かあってもダイジョウブ、と信じていたンだろうか。
一体、どんな人達なんだろか。

新聞の記事では、亡くなったのは、40歳前後の東京の夫婦と、それとは別の5人のグループらしい。

5人のグループは、東京は世田谷区の女性59歳と男性72歳、国分寺の男性46歳、埼玉県の男性55歳、そして姫路市の女性58歳、となっている。
これはどんな関係?ネットなどで知り合った関係?

姫路市の女性58歳は関学のWV部のOB会常任幹事で、スキーはプロ級だとか。毎年海外へ滑りに行くそうで、親族が兵庫県議会議員らしい。所謂、お金持ちの活発なお嬢さんだったンでしょうね。

そして皆さん、この時期の立山初滑りの常連だったそうで、ワタクシなど足元にも及ばないスキー名人だと察します。

毎年来ているこの時期、降雪直後とは言え谷側に降りてもダイジョウブ、ナダレても大したコトない、埋まってもビーコンで見つけてもらえるし、ファットの板で新雪を快適に滑ってやろう、そして大走谷に突っ込んだ。と言うコトなんでしょうか。

しかし、この冬は、と言うか最近はチョット、いやかなり状況が違っている。いや、状況が違うのはその前の、秋も、夏も、春も、だったと思う。
温暖化がもたらす自然災害の凄さ、舐めてはいけない。

ワタクシはいつも単独、ビーコンは持たないので、もし雪崩で埋まっても雪解けまで見つからない、絶対に。
いや他人様があまり行かない所で埋まるかもしれないので、雪が解けてもズゥ~っと見つからないかも知れない。

まぁ扶養義務もないし、親も死んでルし、この世に未練もないのでそれでもイイけど、ただ圧死、窒息死は辛そうだし、とりあえずこれからのシーズン、より一層、気を付けることにする。

降雪時及び降雪直後は山に入らない、斜面のド真ん中を登り降りしない、そして何かあったらオシマイと覚悟する。ただそれだけ。


死を見て、死を語り、死を学ぶ、という映画だったと思う

2013-11-27 23:58:35 | 一人ブラブラ

Imgp0124 先週の神戸映画サークル協議会、11月例会は、‘11年のカナダ映画、“ぼくたちのムッシュ・ラザール”。

“ぼくたち”とは、モントリオールの11歳、12歳の、ニホンと同じ教育制度なら小学生達。
“ムッシュ・ラザール”とは彼ら(彼女ら)の先生。

雪の積もった校庭で始業前に遊ぶ子供たち、ウェアがカラフルな北国の小学校の朝の風景。

牛乳当番の少年が教室へ牛乳を運ぶと、教室の中では担任の女性教師が首を吊って死んでいて、学校は大騒ぎ。
教室へ入って来た何も知らない子供たちを、校庭へ戻そうと誘導する教師たち。
教師たちをすり抜けて教室を覗きこむ少女が1人、中には自殺体がブラ~んとぶら下がっている。

事件を新聞で見て、代わりの教師として、校長に売り込みに現れたのは、ラザールと名乗る男。
アルジェリアで19年間教えてきた、と騙るが、やっていたのはレストラン(?)の経営で、カナダに亡命を申請中の難民。
実はアルジェリアで教師をしていたのは、ラザールの妻で、当時のアルジェリア政府やイスラム社会を批判する本を書いたため、身辺ヤバくなって、まずラザールがカナダへ逃げて来て、妻子を呼ぼうとした矢先、家が放火され、妻と二人の子供はコロされた。
要するに、まだ永住権はなく、家族もなく、見慣れぬ地で一人生きようとしている男。

無事教師として雇われるが、これまでの担任が教室で死んで、その後得体の知れないアルジェリア人が新しくセンセになって、授業を受ける子供達はなにやらギクシャクしている様子。
当然、“死”について語られる事はなく、子供達のショックをケアするために、と学校側はカウンセラーを雇うが、カウンセリング中、ラザールは教室から追い出される。
同僚の男性教師は2人、この学校は校長も女性で、女性のセンス(?)でやっている、などとの愚痴を聞かされる。

とにかく学校も親も、女性教師の“死”を子供たちに触れさせないようにしようとするが、子供たちはそう言う訳にはいかない。
教室は壁は塗り替えられたが、子供たちはセンセが首を吊った場所をチャンと覚えている。

教室を覗きこみ自殺体を見た少女は、女性教師の“死”を作文にする。この少女、母子家庭で母親は旅客機のバイロット(?)らしく、一人で過ごす夜が多い様子。

また最初に発見した少年はズッと女性教師の写真を持っていて、センセの自殺が自分のせいだと周りがウワサしている(?)事に気付いている。
この学校(カナダの学校は全て?)では、教師が生徒に触れる、つまりシバいたり、ハグしたり、チュウしたりは禁止。
しかし女性教師はこの少年の悩み相談(?)を受けている時、ハグしたそうで、それを親(?)に話し、そのせいで責められた(?)センセは自殺してしまったと悔み、悩んでいた。

更に、チリから移って来た少年は、自分のジイサンが軍事政権に囚われ、釈放された直後、飛び降り自殺したことを語ったりする。

学校や親が、子供たちから“死”を遠ざけようとしてもそうはいかない。学校が行っているカウンセリングは何の役にも立たない。

しかし、ホントの教師ではなく、故国アルジェリアで妻子をコロされたラザールは、そんな子供たちと、彼ら(彼女ら)が抱える“死”に対し、極フツーに接することにより、自殺事件で傷ついた子供達を救うことになる。
自殺体を直接見た少年と少女にも笑顔が戻り、少女の母親からは感謝もされる。

ただ、それとは真逆の評価をする親もいて、そんなおバカ達のチクリでラザールの正体(=教師ではなく、ただの難民)はバレて、結局クビ。彼を雇った女性校長も更迭となる。

ラザールはフランス語教育の一環(?)として、子供たちに寓話を作って話す(?)授業をやっていたが、最後に自分の作った寓話を聞かせる。
サナギを守る大きな木が森にあったが、火事でサナギも木も焼けて、しかし、・ ・ ・ 、寓話の「オチ」はワタクシ、良く判りませんでした。
この映画、授業としてラザールが語る場面が多かったが、セリフが長くて(つまり字幕が多くて、読んでルうちに次の字幕が出て来て)、ナンセ、話しているのは妻子をコロされ、故国を離れ一人で生きているオトコが語るハナシだから、DVDか何かで何度も見直さないと、その中身、キッチリ理解出来ないと思う。

最後の授業が終わり、帰宅の準備をした少女が教室を覗く。
学校を去るラザールが机の廻りを片付けている。
そこへ近付く少女。
そしてラザールとガシっと抱き合う。
セリフも音もない、素晴らしいラストシーンだった、と思う。

しかし、この映画の学校や親だけではなく今の世の中、なぜ“死”を避けると言うか忘れようとするンだろう。
イジメや暴行でコロされる少年少女達は、後を絶たないし、ボケたジジババが、アクセルとブレーキ踏み間違えて他人をコロす事故は、平均寿命が増えた分、逆に増えている。
“死”は周りにウジャウジャ存在してルのに。

ケガレとは、気が離れると言うコトから来ているそうで、つまり死ぬこと。
動物は死ぬと腐ってグチャグチャになって、その処理は最底辺の卑しいと呼ばれる人々に押しつけられた。そして“死”を扱う人達は穢れていると差別され、フツーの人達は“死”に触れることが無くなった。そんな歴史の見方があるそうだ。

しかし、西洋には「メメント・モリ」と言う言葉が昔からあって、これは「死を思え」と訳されるらしい。
mementoとは記念物、形見、古くは警告と言う意味、moriは“死”、つまり死の警告。シアワセの絶頂(権力の頂点)にあるアンタもいずれ死ぬよ、と言う意味にもなる。
その反面、いずれ死ぬンだから、生きている間は楽しくやりましょ、食べて(マンジャーレ)、歌って(カンターレ)、恋をして(アモーレ)、と言う解釈もあるらしい。

今、このクニの多くは、正に「食べて、歌って、恋をして」で浮かれている、のではないか。
格差があって、一部のプァにブラック企業がパワハラ、セクハラ、ヤリ放題でも、多くは楽しく浮かれている、いずれ死ぬことに気がつかないまま。そんな気がする。

まぁどうでもエエけど、こんな映画を見た後は、なんかアホクサくなる。


最近フツーに身近にあった不景気なハナシ

2013-11-20 16:56:03 | 朽ちゆく草の想い

何週間か前、高級外車がドンドン売れていて、“あべのみくす”の好影響だとのニュースをネットで観た。
高級外車とはベンツやBMW、ジャガーではない、最低でもポルシェ、フツーでフェラーリやアストンマーチンのハズ、1台2~3千万(?)。それより高いノはアラブの石油成金が買うモノで、いくら好景気だとは言えドンドン売れるモノではないでしょう。

しかし、その数行下に、下町の市場などのお豆腐屋さんがドンドン廃業していると言うニュースも載っていた。
廃業だから、手形の不渡りで全てを失うとか、タチの悪いのは夜逃げ、といった倒産ではなくて、キチンと債権整理して商売たたむ訳だから、誰にも迷惑はかけていない。
ただ、これからどうして喰っていくのかが大変、彼らには“あべのみくす”のアリガタイ影響は訪れていないのか、あぁアホクサ。
しかしまぁ、ワタクシなども豆腐を市場で買った事などないし、ズッと以前から市場そのものを利用したことないので、エラそうに嘆いたり出来ませんが。

最近グンと寒くなって、4月に洗濯へ出したままにしておいたダウンジャケットを、先週引き取りに行った。

このマンションの1Fにある洗濯屋サンへは、ワタクシが営業活動をしていた頃には、パリッと糊のきいたワイシャツを着るべき、と気を利かせた家人の計らいで、毎週、最低でも数枚のワイシャツをお願いしていた。
しかし、お独り様になって自分で洗濯を始めたら、ワイシャツもキチンとシワを伸ばして干すと、糊を効かせるまでもない事が判り、毎週洗濯屋サンに行く必要はなくなった。
そう言えば昔読んだ本に、オックスフォード地のボタンダウンは洗いざらしを着るモノだ、とか書いてあった記憶がある。ワイシャツに糊は要らない。
その後、洗濯屋サンに出すのは一ヶ月に1回程のスーツ、コートだけになった。
そして仕事を辞めてしまうと洗濯屋サンには全く行くことなくなった。

しかし昨年、何年も着っぱなしのダウンジャケットの、袖や襟の汚れに気がついた。山用の羽毛服は大して汚れないのに、街用のダウンジャケットはコテコテに汚れるモノなのだ。
それを手洗いするのは大変。仕方なく、洗濯屋サンにお願いした。
5年ぶりだったが、洗濯屋のオバサンはワタクシを覚えていた。
そして今年も4月に出したのだが、その洗濯屋サンが先週は閉まっていた。エエッ!ナンデ?廃業したン?

カーテンが下ろされたガラスドアの下の方に貼り紙があって、それには「定休日:火水木金」と書いてあった。つまり「土日月しかやってませんよ」と言う事、笑ってしまった。

まぁそんなモンかも知れない。お客さんが多いのはウィークエンドだけ、それならウィークエンドだけ店を開けましょう、それはそれで合理的。
しかし、3人いたオバサン、サイの様な貫禄のオバサン、このクリーニングチェーン店の正社員と思しきオバサン、オネエサンに近いオバサンはどこへ行ったのか。
オネエサンに近いオバサンは隣の歯医者サンの受付にもいた事がある。同じ人が洗濯屋にも歯科医院にもいてビックリした。

お店からドンドン店員がいなくなる。ナント不景気なハナシ。

毎週1回、食材の買い出しに行くグルメシティとかいう名のダイエーや、時々行くホームセンター、店内をウロウロしているとしょっちゅう、ドコドコの売り場へ係員は行け、とかレジへ応援に行けとかの放送が鳴っている。
その後、ドコドコの売り場へ係員が着いた、との報告放送まであって笑ってしまう。
売り場の店員が減った代わりに、お客さんが必要とする都度呼び出す、そう言うシステムらしいが、詳細ワタクシ知りません。呼び出したコトないし。

しかし中々係員が来ない時もある。益々不景気なハナシ。

近くにホームセンターが2軒、どちらもバイクで数分の距離にある。
1軒は第二神明高丸ICそばにあり、アグロと言う店名は経営者の名前からきているらしいが、農業:アグロカルチャーをイメージしたような、緑色、茶色を配した看板、内外装は中々好感が持て、よく利用していた。
その何年後かに、もう1軒が第二神明北線長坂ICそばに出来た。全国にン百軒も店がある超大手だそうだが、倉庫の様なモノトーンの店内はアイソない。
しかし、このホームセンターではボルト、ナットがバラ買い出来る。これはアリガタイ。必要なだけ買って、レジでの支払いが数十円だったこともあった。

その内、アグロというホームセンターは、その1/3程が別の店になり、店内は狭くなった。また、しょっちゅう配置が替わる様になった。
前週と同じ売り場へ行くと、そこには目的のモノはなく、店内を探しまくることになる。
店員にモンクを言うと、「ホントにね、ワタシらも混乱することあります、“上の方”で勝手に決めハルから、スイマセン」、困っているのは客だけではなかった。大体、配置を替えて売り上げが上がるとは思えないけどね。余計なお世話ですが。
そしてヤサイや食料品も売るようになって、スーパー付きホームセンターになった。
しかし、古着寄付をするのに段ボールが必要になって、貰いに行くとサンザン文句を言われた。「段ボールは買って欲しいンですけどねぇ」、確かに売り場には段ボールが並んでいた。

翌年また段ボールが必要になった時、もう一軒の超大手の方へ行くと、「売ってルンですが、捨てるモンだし、どうぞ持って行って下さい」と、気分良く対応してくれた。
どちらも段ボールを売っているホームセンターなのに、エライ対応が違うモンだ。

その後、必要なモノは超大手の倉庫の様な店の方で買うようになった。
どっちへ行っても同じ様なモノが同じ様な価格で売っている。丁度、布引谷・山の家への移住準備を始めた頃、伸び過ぎた木々、雑草を刈るのにノコギリ、カマ、剪定バサミが必要な頃だった。

先週、アグロでしか手に入らない金具類があって久しぶりに行ってみた。
食料品売り場は更に広くなっていて、レジにはヤサイをカゴに入れたお年寄りが列を作っていた。そして、レジに応援に行けとかの放送が何度も流れていた。
しかし、ワタクシが支払いを済ませるまで、新たにレジが開くコトはなかった。

そもそもホームセンターと言うのは、売り場の面積に対しレジが少ないようだ。スーパーと違って、売りモノの種類は多いのに、売れる量は少ないから、と言うことなのだろう。
しかし、ホームセンターで食料品も売るようになると、それは半分スーパー、しかしレジの数はホームセンター並み、列が出来ても仕方ない。
どうせ並んでいるのはお年寄り、クレームも出ない、それがアグロと言うホームセンターの“上の方”のお考えなのか。まあどうでもエエですが、どうせ滅多に行くことないし。

いずれにせよ相変わらず店には店員がいない。不景気は続いている。

大体、こう言うアメリカ式の大きな店が、確かアメリカからの圧力もあって(?)それを増やすための法律(?)も出来て、全国のあちこちにドンドン開店して、昔から市場や商店街にある八百屋、魚屋、肉屋、服屋、雑貨屋、工具屋が不景気になって、ドンドン店を閉めて行って、その挙句市場や商店街自体が無くなって、と言うのが最近までの流れ、アメリカ追従の結果だったハズ。
しかし、小さな店をドンドン潰していったアメリカ式の大きな店が、今、不景気になっている。これはどう言うコト?

TPPとか言うのは、単に農産物の関税の問題ではなく、医療、保険その他多くの制度をアメリカ化する事が目的だそうで、しかしアメリカ化した大きな店が不景気になっているこの状況、TPPで多くの制度がアメリカ化したら、それらもその内不況になると言うコト?ホンマ、エライことです。

月曜日、再度ダウンジャケットを引き取りに行った。クリーニングチェーン店の正社員と思しきオバサンがいて、奥からダウンジャケットを出して来た。
「土日月だけの営業になったンですね」
「エエ、もうズッと前からお客さん減ってェ」
チェーン店で土日月だけになったのは、このマンションの店だけだそうで、リタイア族が増えてスーツ、コートの洗濯が減った、また洗濯機がよくなって毛布等も洗えるので、というノが原因とか。
「景気エエ、景気エエて、そんなンウテらには関係ありませんワ、“あべのみくす”なんて、ホンマ、アホクサ」

ハイ、そうです、オバサンのおっしゃる通り!!!


左眼が真っ赤、検査では特に心配なし、そしてまた近所で人が死んだ10月

2013-11-06 09:57:47 | 朽ちゆく草の想い

8月最後の週、9ヶ月振りに自転車を再開、近所をチョコっと走ってて帰ってきたら、左眼が真っ赤だった。しかし、翌日には治まっていた。

9月もチョコチョコ走って、10月からはほぼ毎週100km程度を走っていた。
街にも野にもキンモクセイの香りが漂い、その中を走るのは爽快だった。

そして先々週、台風の週、後半はズッと雨だと思っていたのに、木曜は終日曇りとの予報。
それなら少し走ろうと、学園都市~農業公園前~R175~大久保IC前を通って魚住まで来たら、パラッと降りだした。

台風はまだ遠くにいるらしいが、その影響で雨が降っても文句は言えない。予定では海沿いの自転車道をノンビリ走ることにしていたが、とにかく急いで帰らないと。
R2を必死で漕いだ。明石までは路側帯の狭い箇所も多く、沢山の大型車両にも追い抜かれ、久しぶりのR2はコワかった。少し大げさだが、まさに必死。

幸い“本気”に雨は降らなかったが、また左眼が真っ赤になった。

翌日は雨の中カサさして3ヶ月振りに床屋へ行って、土曜は雨が上がり、午後出かけようとすると、駐車場からマンション建屋をくぐり、表通路に出る手前の垣根の側が、何か異様な雰囲気。
A型バリケードと呼ばれる仮設のフェンスで囲まれたスペースがあって、若い警官が1人、見張っている。そのスペースは濡れていて、ちょうど人、ひとりが横たわれるほどの広さ。

1時間後帰ってくると、とある部屋の前に警官が群がっており、改めて駐車場から眺め直すと、その部屋はあの濡れたスペースの上に位置していた。

つまり、とある部屋のベランダから誰かが飛び降りた、とほぼ全ての人は推理出来る。

翌日曜日、出かけるついでにあの濡れたスペースを観察した。A型バリケードは撤去されて、当然見張りの警官もいなかった。
まだ少し濡れたアスファルトの砂礫の窪みに、赤黒いモノが残っていた。

この“低所得者救済マンション”が完成した時から30年間住んでいて(とは言え、5年程前まではただ寝に帰るだけだったけど)、飛び降り自殺が2件、落下事故が1件あったはずだ。
自殺者は近所の女性で外部階段から駐車場へ飛び降りて、落下者は子供でベランダから1Fの専用庭に誤って落ちて、若い母親は「ワタシ、夫にコロされるぅ」と、泣き叫んでいたそうだ。

入居して直ぐ、自治会だか管理組合だかの集まりに呼び出された。しかし何を自治するのか、何を管理するのか。
修繕積立金とか管理費は入居時に決まっている。修繕計画とか管理内容はこのマンションが計画された時に決まっていたはずだ。
ただ、このマンションの価値を上げる方法を考えンとアカン、と発言していたオヤジがいた。ナゼか不機嫌で不満気なオヤジだった。
このマンションの価値?、少しでも高く売ろうとしたいの?、半分は投機目的なン?、なに考えとンネン、このオッサン。マンションの価値、ウンヌン言いたかったら、三ノ宮以東へ行かンと、但しお金、倍以上いるけど。

安月給なので最長のローンを組んでいたワタクシ、転売など考える余地はない。とにかく年間100万程の返済を維持できるよう働くだけ。
このオッサンには、よく判らない“慾”の様なモノを感じた。そして、多くの同席者はその“慾”に納得した様だった。
しかし、強いて役員や理事になろうとする同席者は、一人もいなかった。
また、ナンヤカンヤ、管理組合に無理な要求をする住人が多く、管理人が続かないマンションと言う事で有名だったそうだ。“低所得者救済マンション”なのに、無理を言ってはいけません。

そして、30年で4人の死者。そう言えば昨年も、別棟だけど寝タバコで焼け死んだ痴呆老人がいた。まぁどうでもエエけど。

ワタクシの左眼は週が明けても赤いままだった。4日経っても治まらない。眼の奥が痛くなったことが何度かあったが、モノが見える、見えないの変化はなかった。しかし気味悪い。

仕方なく、歩いて10分程の、娘の同級生のお母さんがやっている眼医者に行くことにした。10年振りだった。

午前の受付が終わる30分前だったせいか、待合室にいる患者は数人だった。
視力、眼圧、眼底の検査をして、目ん玉を詳しく診てもらって、結果は角膜の内出血、原因は加齢で目ん玉表面の粘膜の張りが無くなって、ヨレヨレになり、それがマバタキ等で角膜を擦った、と言うことだった。視力は矯正すれば1.0は視えるので問題なし。
自転車に乗っていて、つまりサドルより低い位置のハンドルを握って、首を反らした姿勢で数時間運動していた影響については不明、と言うか、そんな非日常的な姿勢をご理解頂けなかった様だ。

ただ、そんな非日常的な姿勢により“圧”が上がって“奥”が出血しているかも知れないので、それを検査すべき、しかし、検査機が故障中、昼から修理するので午後の診察になるとの事。ナンカよく判りませんが、色々事情がややこしい。
いずれにせよ、午後の診察とは16時以降、ワタクシに取ってはそろそろ呑み始める時間。
「明日にします」
「薬で瞳孔を開いて検査しますので、終わっても瞳孔、しばらく開いたままで、ボヤけて見えるので、明日は車の運転とか出来ませんヨ」と、最後に看護婦サンから念を押された。

帰って来たらエレベーターで近所の奥さんと遭遇。
「また誰か飛び降りたンですか」
「あそこの部屋の人らしいです」、この奥さんには“井戸端”連絡網で、情報は常に入っている。
「男の人らしいですよ、管理人サンの話では、ナンカおとなしい感じの人やったそうです」
「しかし、よう人の死ぬマンションですねぇ」
「 ・ ・ ・ ・ ・ 」、あまり触れたくない話題、ワタクシ、余計なコト、言いました。

翌朝、9時半過ぎに行くと待合室は満員、10人以上のお年寄り、1人が呼ばれ診察室へ入ったので座ることが出来た。
他にも同じ様な検査を受けようとしているジイサンがいる様だ。瞳孔の開き具合を看護婦サンが確認していた。そして、ワタクシにも眼薬を注した。
30分程で周りがボヤけてきて、診察室へ呼ばれ、眼底写真、網膜の断面写真を撮られた。

結果は“奥”で出血はなし。
眼底写真では高血圧の状態も判るそうだが、特に高い様にも見えないとの事。
ただ白い濁りがあり、断面写真の位置をずらして撮ると、それはどうも以前のキズが治った後だそうだ。
結局、加齢でヨレヨレになった粘膜で擦られた角膜の内出血のみ。しかし、真っ赤な眼を治す薬はないそうで、時間を掛けて散らすしかないらしい。要は放ったらかしでいい訳だ。

「眼の奥が痛かったコトあったンですが」
「それは出血痛、出血するときの痛みです」
「要するに、フツーに見えとったら、問題ないちゅうコトですか」
「まぁそう言う事ですね、でも何か気になったら直ぐ検査に来て下さい」

それから1週間たったが、左眼まだ真っ赤なままだ。去年の10月、自転車のパンク修理でぶつけた左親指の爪は、完治したのが3月だった。これは内出血が散ったと言うワケではなかったが、今回の内出血が完治するのは何ヶ月後なんだろうか。