蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

餃子と夜と音楽と

2013-05-31 12:05:13 | マンジャーレ、マンジャーレ

今年の残雪期は歯医者へ通っていたので、山スキーへは行かなかった。次回の予約をした後は、どうしても3000m近い稜線を目指すのにチョット気が引ける。
単独で、ほとんど人のいないウィークディなので、事故で戻れなくなってもキャンセル連絡出来ないからだ。携帯持ってないし。

そして、先週初めに歯医者通いは終わった。
まだまだ2000m以上のエリアには雪が残っている。しかし行けなかった。
出しっ放しにしている装備を車に積めば、すぐ出掛けられるのだが、毎晩酔い潰れ、眼が醒めるのは出発すべき時間。ダルい、シンドい、もうエエわ、アッと言う間に1週間が過ぎ、先日、板と靴は押し入れに仕舞った。

その後は相変わらず、毎晩17時を過ぎれば呑みながらアテを作り、そしてまた呑む。
アテのメインはファーマー“昔のトモダチ”氏から貰ったヤサイ。

最近は餃子の日々。貰ったキャベツをおいしく頂かないといけません。

作り方は市販の皮のパッケージ袋に書いてある通り。材料、調味料、分量全て忠実に従う。
フードプロセッサーを使うと、キャベツは外の硬い皮も芯に近い部分も、アッと言う間にミジンになる。そして、塩はキャベツに混ぜて水を絞りやすいようにする。また砂糖の代わりに甜麺醤を使う。
一番肝心なのは豚ミンチに調味料を入れ、とにかくそれをヒタスラ混ぜる事だと思う。パッケージ袋にも「白っぽくなるまで」と書いてある。
その時ミンチの赤と白がなくなり、調味料と融合しイイ香りがしてくる。
餃子と言うのは、ミンチを美味しく食べさせる一番の方法だな、と感じる時だ。
それにキャベツを混ぜると、1時間ほど散歩に出る。ボォーっと呑んでるだけの時もあるが、要するにしばらく寝かせる必要があるそうだ。

後は皮で包んで焼くだけだが、その時の酔っぱらい具合で焦がしたり、水を入れるタイミングや量を間違ったり、まぁ色んな作品が出来ますが、どんな状態でもそこそこウマい。

Imgp5038 これは上手に焼けた時の作品。

Imgp5054 この日のアテのもう一品は、先々週もらった最後のスナップエンドウを少量のコンソメで煮た。調味料は仕上がりにマーガリンをチョコッと。これだけで充分ウマい。

この日のBGMは、ブラジル出身のピアノを弾きながら歌うオネエチャン:イリアーヌのビル・エバンスの演奏曲を集めたCD。ナント、「Waltz For Debby」を唄っている。リピートにして流していた。

アテが出来て、テーブルへ持ってきて、ウィスキーを丹波の地酒に替えた時、曲は「You And The Night And The Music」になった。

この曲、「夜と音楽が終わってもアナタはアタシの側にいるの?」とか言う内容だそうだが、ワタクシはこの日も、音楽が終わり、夜が始まった頃、またキゼツしてました。


ベアテ・シロタ・ゴードンさんと言う女性から繋がっている想い

2013-05-26 14:58:54 | 一人ブラブラ

ベアテ・シロタ・ゴードンさんの事は、今年初めまで知らなかった。

しかし、我々にとって非常に重要な人なので、今まで知らなかったのも不思議。昔、聞いたコトがあったが、忘れていただけかも知れない。

この米国人女性は昨年末に亡くなられたそうだ。

この女性は、GHQ民政局の最年少スタッフとして、この国の憲法起草作業に携わり、第9条を「戦争が生んだ真珠」と呼び、米国の憲法にない「男女平等」を日本の憲法に盛り込み、米国に押しつけられた、と自主憲法制定を叫ぶニホンジンには、「自分のモノよりいいモノを人に贈るとき、それを押しつけとは言わない」との言葉を投げかけ、(常に)「母として、祖母として」平和について語られていたそうだ。1/7の神戸新聞にそんな記事が載っていた。

享年89歳、ワタクシのオフクロや痴呆の叔母と同世代。エエおばあちゃんです、ナムアミダブツ。

この女性の家族のことをドキュメンタリーにした「シロタ家の20世紀」を、一昨日観に行った。

Imgp5047 

Imgp5051 神戸映画サークル協議会の市民映画劇場5月例会だそうです。

シロタ家はウクライナのユダヤ人居住エリアの出身。
ユダヤ迫害を受けキエフに移った後、ベアテさんのオヤジさんと兄弟達は皆さん、芸術家となりヨーロッパで大活躍。

しかし、伯父さんはワルシャワのパルチザンのアジトで捕まり行方不明、叔父さんはアウシュビッツへ家畜貨車で連行され亡くなり、従兄はノルマンディ上陸作戦にポーランド軍として参加し戦死。ナント悲惨な「シロタ家の20世紀」、戦争の時代。

そしてオヤジさんのレオ・シロタ氏は世界的に有名なピアニスト。ジャズピアニストなら知っていたかも知れないが、クラシックなのでワタクシ、お名前存じません。
’30年頃、日本にやってこられ、沢山のファンとお弟子さんを持つことになったそうだ。この映画の製作費も、お弟子さんの一人の遺産が使われているらしい。
そして、戦時中は奥さんと一緒に軽井沢で軟禁状態だったそうで、戦後ベアテさんは留学先のアメリカから両親を探しにやって来て、その情報を得るためにGHQに働き先を求め、無事再会。同時に新憲法の草案作成に関わって、第24条「家庭生活における個人の尊厳と両性の平等」の条文を書かれたそうだ。

ベアテさんはその後も度々来日し、平和と男女平等を訴える講演を続けられたそうで、9条と24条を守って欲しいと言い残して亡くなられたらしい。

映画の後半で大西洋のカナリア諸島にある9条の碑が紹介される。
カナリア諸島のテルデ市にヒロシマ・ナガサキ広場と言うのがあって、そこにスペイン語で書かれた9条の全文が掲げられているそうだ。つい最近のお話しらしい。
これを発案したのは若い女性職員、そこの市長も「9条は世界の希望だ」と言う様な事を言われていた。

スペイン人民戦線にイクサを仕掛けて内乱を起こした独裁者フランコは、カナリア諸島でその準備をした。第2次世界大戦の少し前の話し。
つまりここから戦争の時代が始まった訳で、ニホンの憲法9条にある「戦争放棄、軍隊を持たない、国の交戦権を認めない」、という想いを是非ここに掲げたい、それは正解です。若い女性職員は大したモンだ。

ベアテさんも新憲法起草作業に関わった頃は、まだ20代のオネエチャンだったハズ。伯父さんはナチに虐殺され、従兄は戦争で亡くなり、両親とは一時音信不通。戦争でヒドイ目にあった時代の人。
かたやカナリア諸島で9条の碑を建てようと発案したのは、戦争を知らないオネエチャン。

時代を越えて、戦争放棄の想いは、キチンと繋がっている。


ある歯医者さんの告白-真剣にやれば面白い仕事などない

2013-05-22 13:40:49 | 朽ちゆく草の想い

3月初めから結局2ヵ月半、歯医者に通った。10年程前から、歯ァが抜ける度、そのセンセにブリッジを入れてもらっている。

「痛くなったら、ゆっくり左手を上げて下さい」、センセはそう言って数10万回転で廻るキリでワタクシの歯ァに穴を開け出した。
キュフィィィ~ン。これはブリッジの橋脚部の歯の“基礎工事”と言える。
助手のオネエサンに時々、「カーバイト出してェ」と指示しているので、キリは何かの炭素系超硬合金なのだろう。

痛くなったら、と言う事は、いずれ痛くなる、と言う事だ。
歯の神経をコロす為の薬を入れる穴を開けているのだから、キリはいずれ神経に届く。
痛ッ、左手を上げる。

当然「ハイハイ、判りました」と直ぐヤメてくれるが、時々「もうチョット、ガマンして」と穴を開け続けられる時もある。「センセ、そらぁ約束とちゃうヤン」

神経が死ぬとそれを掻き出すらしい。極細の針の様なモノをクルクル廻しながら歯の穴に差し込んでは抜いて、それが何度か続く。
この作業はセンセの手作業、器械を使わない為か、左手を上げて、とは言われない。しかし、時々痛い時がある。
思わず「ウッ」と呻くと、「ハイハイ、もう終わります」
センセは痛いトコが判っている。

これで痛い作業はオワリ。
あとはブリッジの橋桁部を被せるため、橋脚歯の先端を超硬合金のキリで削り、“ドラキュラの歯”状態にされるのだが、この時もついつい痛い顔、ガマンの顔をしてしまう、痛くないのに。

「もう痛くないですよ」、と言われても、カラダ全体がそれまでの痛みを思い出し、ガチガチになって構えている。
「その痛たそうな顔、ヤメてェ」
「スンマセン、ツイツイ、でもセンセ、気にせんとガツンと行って下さいよぅ」
「イヤ、それはムリ、ボクら歯医者は痛そうにガチガチになってル相手に、出来ません、ナンセこんなン、人の口に入れてるンやから」
そう言って、例のキリを見せた。
ナルホド、痛いのを直しに来た患者に、より痛いコトは出来ない、当然です。

そして、痛いハズない状況でヘンな患者が痛い顔をする、想定外の。
エエッなんでぇ???痛いコトしてヘンのに、センセがそう思うのは当然だ。

「ボクらこう見えてもビクビクしながらやってるンですよ、だから、痛ッ、と言う患者の顔には、ドキッ、とする」
「しかし、そんな状態でズッと仕事するて、もの凄いストレスですねぇ」
「医者の死因のナンバーワンはガンですが、歯医者は心臓病です、他の医者よりストレスかかってて、これ国家試験に出ます」

このセンセ、どこからかワタクシの息子が某一流国立大に入ったコトを知ったらしく、どこの塾に行ったのか、どこの学校へ行ったのかを訊ねられた事があった。
二人の息子さんは無事、有名進学校に入られたそうだが、「子供には歯医者になれとは、よう薦めません、こんな仕事、ボクだけで充分ですわ」

この告白にはオドロいた。

歯医者と言うのは、なるまではそこそこお金がかかるが、なれば高収入で、しかも開業医なら、ワケの判ラン思いつきを言い出すバカ上司はいないし、営業で走り回らなくてもお客さんは来るし、自分のペースで仕事は進められるし、最低でもベンツ(?)には乗れるし、エエなぁ、そう思っていた。

しかしよく考えるとオモロない面も想像出来る。

それほど広くない空間にズッといて、毎日ほぼ同じ作業をして、中には厄介な患者も相手にしないといけないし、ワタクシの様に痛くもないのに痛そうな顔をするのもいるし、愚痴を言い合う同僚はいないし。カワイイ助手のオネエチャンはいるけど。

仕事が終わってクリニックを出る時、このままどこか遠くへ行ってしまいたい、と思う事が度々あるそうだ。

金沢の内科医で、休診日の前日は、仕事が終わると直ぐ雪山へ入って車中泊し、翌日は夜が明ける前から登り始め、午前中に登頂した後、滑り降り、昼過ぎには帰宅して、その日の内に記録をHPにUPすると言う“スーパーマン”がいらっしゃるが、その人の話しをすると、「その気持ち、よう判ります、ボクは山登りナンカ出来へんけど、とにかく仕事終わると直ぐにでもここから離れたいンですワ」
「いずれにせよ、お医者さんて楽しい仕事じゃないンですねぇ」
「大体、仕事が楽しい、面白いとか言うてル人は真剣に仕事してない、と思います、そんなン、仕事をナメてますよ、マジメにやれば、面白い仕事なんかないンちゃいますぅ」

確かにその通りだと思う。

まだバブルの残り香がまだ漂っていた頃、恥ずかしながらテニスに夢中になっていた。精神的にも肉体的にも、自分に合わない遊びだと気付き、ヤメるまで10年以上かかった。
テニスは山やスキーと違って一人では出来ない。いつもするのはダブルスなので最低でも他に3人いる。
自然と色んな人と知り合う。

銀行員、建築設計士、ゼネコンの社員、裁判所の職員、造船所の設計者、製薬会社のプロパー、大学の職員、等々。

その中にゴルフ場の会員権を売買している男がいた。
仲間の中でも若い世代で、いつも威勢が良かった。年上のシンドそうな仲間に、「仕事、面白くないンじゃないのォ」とか言っていた。

「そう言う君の仕事は面白いンか」
当時はまだ、ゴルフ場の会員権が売れて、売れて、それは、それは面白かったそうだ。
「な~ンもせんでもバンバン売れるンですよ、楽しいですよぅ」

当時、ワタクシは特殊機械メーカーの“売り子”、毎週、中・四国地方を営業し、機械の説明をし、客先のややこしい要求に対し出来る事、出来ない事を納得してもらい、納入スペックを決め、時には試運転に立ち会い、クレームがあれば飛んでいき、モメる事もあれば、礼を言われる事もあり、いずれにせよ、な~ンもせんでもバンバン売れることなど一度もなかった。
バブルの恩恵は全く受けなかった。しかし、バブル崩壊の悪影響も受けなかった。

あの男はバブルの恩恵で楽しく仕事をしたのだろうが、完全に仕事をナメていたと思う。そしてバブル崩壊後の“失われた20年”を、どう切り抜けたのだろうか。まぁエエけど。

ただ、こんなフザケた男は古今東西、必ずいる。要は、気分悪いので、お付き合いはしなければイイだけ。

しかし、このセンセとは、今後もズッと歯ァの面倒を見て頂きたい。

「とにかく力抜いて、フツーにしといて下さい」、と行ってセンセは作業を再開した。しばらく経って「チョット休憩します、ボクの手ェが攣って来た」、エエッ?!

3本の歯をドラキュラ状態に削るのは、肉体的にも相当のストレスだったのだ。センセの右手の親指の付け根は赤紫に変色していた。

ブリッジは4月初めに装着、その後部分入歯の作業となり、それも5月初めに終わり、その後調整が2回、今週月曜日、全てが終わった。
初めての入歯としては、短い調整期間で済んだそうだ。「ヒョットしたら1ヶ月後位に少し沈んで、当たるかも知れません、その時痛かったら、また来て下さい」
要は歯が無くなった歯茎との“折り合い”なのだ。

「しかし、入歯の歯茎の容量が増えた分、口の中の空間が大分減りましたねぇ」
「エエ、かなり減ってます、後は慣れてもらうしかありません」

もう沢山頬張って、ガツガツ喰えない。上品に少しずつ咀嚼するしかない。入歯ジジイだから仕方ない。

「ではまた半年後、検診のハガキ出しますので」と、カワイイ助手のオネエサンに言われた。2ヵ月半前、彼女は花粉症で苦しんでいたが、もうスッカリよくなっていた。


反・弱者の風潮の中で、強い営業をしなかった日々を思い出す

2013-05-19 23:22:58 | 朽ちゆく草の想い

働かなくなって、税金も払わなくなって、昨年から年金を貰うようになって、人が華やかに賑わう場所には行かなくなって、ホッとしている。

しかし、新聞やネットを通して見る世間は、最近ますます荒々しく、勇ましく、凶々しい。

何年か前、茶髪でサングラスのハシモト弁護士がマスコミに登場して、世間の出来事に色々コメントしているのを見て、中々オモロい奴ちゃ、と思った。その数年後、ハシモト知事とか市長になって、ヒノマルを掲げた職員の入所式でキミガヨを斉唱している姿など、想像もしなかった。
タレントの頃の荒々しい勇ましい姿は、公務員、政治家となったらショーモないフツーの保守派になっていて、少しもカッコよくない。あぁアホクサ。

そしてつい最近、とんでもないコトを言い出して、世間を騒がせ、方々から非難されると、従軍慰安婦は他の国でもやってたとか、大誤報をやられたとか、囲み取材はもうヤメとか言い出して、逆ギレ、もうムチャクチャの状態。
更に、仲間の衆議院議員はもっとムチャクチャなコト言って、このセンセはさすがに党をクビになったらしい。

政党の代表が「軍には慰安婦が必要だった」と言い、除名になったとは言え、慰安婦は韓国の売春婦で今もウヨウヨいる(?)、と言う様な暴言を吐いた党員がいたこの集団、かなり異状だと、以前からワタクシは思ってました。

この集団は昨年、これまた荒々しく、勇ましい暴走老人が都知事を辞め、たちあがれナントカを解党して新たに作った政党を、総選挙の前にまたまた解党し、大阪の「ムスコ達」と合流、大阪イシンのハシモトサンと、暴走老人のイシハラサンとが共同代表となった政党で、とにかく騒がしい。
この方たち、「わが国の歴史と伝統と文化を誇りに抱き、良き伝統を保守」とか言われているが、良き伝統とはこんなに騒がしいモンだったのでしょうか。

この市長サンが駆け出しの弁護士だった頃、事務所に雇い入れた弁護士サンは 「彼の根っこは弱肉強食。『反・弱者』と言い換えてもいい」 と批判されているそうだ。昨年11月の神戸新聞にそんな記事が載っていた。ホホゥ、ナルホド。
確かに、かつてはサラ金(?)の顧問弁護士をやって高収入を得ていた、とかで、不当な扱いを受けた弱者のために走り廻る正義、熱血のビンボー弁護士とは大違い。

しかし、「反・弱者」なのに人気があって、何かやってくれると期待され、知事にも市長にも選ばれた。
「徹底した競争政策」の信奉者を自任するこの弁護士の市長サンは、有能な実業家として評価されると同時に、暴走老人をも惚れ込ませる「天性の人たらし」とも称され、高い人気を支えている、とその記事には書いてあった。

確かに大阪の芸人、タレントも皆さん応援している。たまたま目に付いた可愛いオネエチャンタレントのブログにも「橋元さんにはガンバって欲しいですッ」とか、書いてあって、正直オドロいた。
いつもニコニコして元気ハツラツ、正に頼れるリーダー。
逆にナゼか、よく横にいる幹事長で知事サンは、いつも泣きそうな表情でウツの病人の様に見えしまう。ホンマにウツだったりして。

片や暴走老人の元都知事サンも、とても人気があるそうだ。いつもエラそうに怒り散らしているのに何故人気があるのだろう。

「ハッキリものを言うからだよ」、東京のトモダチはそう言った。そして「ボクはキライだけどね」と付け加えた。

確かに以前、アメリカにハッキリNOと言え、とかおっしゃっていて、今は中国が領海に入ってきたら追い払えとハッキリ、言われている。「シナが入ってきたら武力で追っ払え」、ナント凶々しい話し。

荒々しく、勇ましく、争いが好きな人、ハッキリNOと言う人、凶々しい人、そう言うノに人気があるこの風潮。

30年近くもの間、工業製品を売ることにより給料をもらっていたワタクシには、こんな風潮が全く理解できない。
営業がハッキリものを言えば、お客サンは去っていきます。営業が勇ましく争えばお客サンは減っていきます。(同業他社とは思いっきり競ったけど)

大学卒業して最初に入った造船関係のメーカーに、「強い営業」をやれ、と言う経営者がやってきた頃の思い出。

世は造船不況、造船所がポツポツ倒れ、そのメーカーも倒れそうになり、ワタクシが営業に移る少し前、別の資本が入って来た。

彼らは、自社の製品を買わざるを得ない様な土俵を、営業は作れ、と言った。
直接発注を受ける下請業者が色々無理を言うのなら、元請けメーカー(つまり造船所)からの指定を取れ。それでもダメならオーナーからの指定を取れ。指定を取れば弱いネゴをしなくて済む。
また、その業界のスタンダードになっていて、造船所等が採用せざるを得ない商品なら、一斉に値を上げろ。
そして、アカンものはハッキリ、アカンと言え、と言われた。

そう言う営業に対するモンクは、それまで納期や原価面で無理を言われていた製造部門からも出てきた。
「アカンと言え、強い営業をせい」、特にまだ若く、営業になったばかりのワタクシなどは、年上の製造部門の責任者からよく言われた。
傾きかけたメーカーに新入りは入ってこない。営業に後輩はなく、言われやすいのはワタクシだけ。

しかし、指定が取れなかったら声もかけてくれない。スタンダードになっていない機種では引き合いも来ない。

新しくやって来た経営陣がそう言う「強い営業」を指導して、結局はお客さんからは総スカンを喰らいだした。ワタクシが営業に移された時はそんな状況だった。

しかし、ワタクシは「強い営業」など判らない。
そもそも営業などと言う仕事はキライで、そのやり方も知らない。当時の造船業界で、営業に必要と言われた競馬、麻雀、囲碁、将棋、釣り、ゴルフはやらない。

ただ、営業が社内で椅子に座っていてはいけない、と言う事は判っていたので、とにかくセッセとお客さんの所へ行った。「毎度ォ!」「コンチワっす!」

総スカンといっても、多少のゴヒイキはさんは残っていて、彼らは時々「お話し」をくれた。そしてワタクシは直ぐ見積を出して、この後どうしたらいいのか訊いた。
「とにかく安ぅして、そんで納期守って」、ワタクシ、当然“NO”とは言わない。

そうして、セッセとお客さんの所へ行って、担当者の机の廻りをウロウロして、安くして、納期を守ると、段々「お話し」をくれる人が増えて来た。
毎晩、事務所へ帰って見積書いて、手配して、定時は21時を過ぎる様になった。

度々製造部からアカン、と言われた。「今度はアカン、断わってくれ」
ホントかなぁ。それは製造部の実力かも知れないが、会社の実力ではないかも。
ワタクシは製造部に無理をお願いした。すると何とかなることが多かった。
無理を強いれば何とかなるのだ。
少し、もう少し、イヤかなりガンバれば何とかなるのだ。ただガンバればイイだけ。

そして売り上げは増え、今までなかった仕事も新たに貰ったりした。
ズッと昔から背を向けられていたお客さんもこっちを向きだした。「アンタがしょっちゅう来て、ワシとヤリたいちゅうから、しゃあないワ」

しかし、ガンバるのはシンドイ。
シンドイことには人気がない。
給料は上げて欲しいがあまりガンバりたくない、多少ジリ貧になってもいい、シンドイ事はしたくない。

大体普段はエラッそうにしてる経営者とか言うのは、シンドイ事などしていない。
経営陣は「強い営業」を指導していただけで、自ら実践、体験したことはないハズだ。

会社全体の士気は徐々に薄れていく。

造船業界全体の衰退に伴って、会社も更に傾いて行った。
「強い営業」を指導した経営陣は、結局一度も「強い営業」を自らが証明することはなく、一時しのぎで本社の土地を売却した。

ああアホラシ、やってられン。ナンヤねん、コイツら。

そして、ワタクシはそのメーカーをヤメた。25年前の夏。
「強い営業」など一度もやらず、ハッキリ、アカンとも言わず、しかしナンバーワンの“売り子”だったと思う。

戦争で一番ひどい目に会うのは、飛び交う銃弾を受けて死ぬ兵士ではなく、女性と子供、つまり「弱者」。
そう言う話しを色んな本で読んだ。“戦争を知らない子供達”のワタクシでも、その悲惨な情景は充分想像できる。
甘言や誘惑や色んな方法で、国や軍の強制は証明できないとは言え、ヒドイ運命に陥った従軍慰安婦は代表的な「弱者」。
そして、軍は慰安婦と言う「弱者」を必要とするモノ。

「だから戦争をしてはいけない」、フツーの人はそう言う展開をするはず。
しかし、荒々しく、勇ましく、争いが好きな人にはそう言う展開がないらしい。「反・弱者」だからアタリマエ、と言えばアタリマエ。
こんな輩はイシンとか言う人達だけではなく、ABEと言う人とその仲間も同じだと思う。
そして彼らは、荒々しく、勇ましいコトを言い続け、この国の「売り上げ」を少しずつ落していく。

「強い営業」をしなかったワタクシは、そう思う。


ソラマメさんはフカフカのブランケットに包まれ、おネンネしていた

2013-05-18 19:49:39 | マンジャーレ、マンジャーレ

まずは信州のお豆さんのお話し。

信州・雪山通いでお世話になっている定宿は、普段はお百姓サンで、お米と野菜は当然自家製。ママさんは毎晩これでもかと言う量の美味い料理を出してくれる。お蔭でこの期間、ワタクシ飢え死にする心配はありません。

4月は次の冬までのチョット“長いお別れ”、その後「おひとり様」の自炊生活が再開する。そのワタクシの飢え死にを心配して頂いたワケではないでしょうが、“別れの朝”には食べ物を頂く。

昨年はコンニャク、今年はお豆さんを貰った。

129 夕食にも度々添えられていた甘く煮たお豆さん。冷凍にして一袋、栂池の余韻を一週間程楽しんだ。

148 これは緑豆(?)、土に埋めるとまだ芽が出るそうだ。H24とは昨年収穫したものらしい。

149 一晩水に付けて戻し、「麺つゆで炊いて冷ましたらイイおつまみになるヨ」と言われた。確かにそう言うのも夕食に添えられていたことがあった。

150 しかし、トマトソースで炊いてみた。

ニンニクとタマネギのみじん切りをオリーブオイルで炒め、トマトの水煮を入れて潰し、チョビっとのコンソメと乾燥オレガノ、ローリエ1枚とこのお豆さんを入れ炊いただけ。
これでも充分美味いオカズになった。

次は明石のお豆さんのお話し。

先日、またファーマー“古いトモダチ”さんに野菜を貰った。その中には青いソラマメが一袋。

実はソラマメを自分で調理するのは初めてだった。

そして、サヤから出してオドロいた。ナント、ソラマメはフカフカのブランケットに包まれ、おネンネしていた。

196 サヤの白い内側は正にフカフカの毛布。

そこから出て来た青いツヤツヤのお豆さんは、ケガレなき“お年頃”のオジョウサンのようだった。

ウウッ、うまそう。

197 こう言うのは変に調理してはいけない。オジョウサンの「青い春」を汚してしまう。シンプルに塩茹でし、少し塩を振って頂きました。

「青い春」は心地よい歯ごたえで、とてもウマかった。

しかしこんなケガレなき“お年頃”のオジョウサンを、入歯・還暦エロジジィが頂いてイイんでしょうか。