蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

布引谷とチョット長いお別れ

2017-05-31 13:49:08 | 神戸布引谷での出来事

10年近く前から、ワタクシを含め全てを“認知”出来なくなった叔母が、60年近く前、布引谷・山の家に遊びに来た時、幼いワタクシは、「オバチャン、こないだ下の歯ァ抜けてン」、とそれを叔母に見せた。
叔母は口うるさいもう一人のオカンだった。
叔母は、「下ノなら屋根に放り上げときィ、上のンやったら、縁の下」、と応えた。

当時叔母は、三ノ宮で婦人服を縫っていた。友人との共同経営で、店は駅の北側の銀行の裏にあった。
その頃、昭和30年代は女性事務労働者も、洋装店で通勤着をオーダーメイドしていたそうで、そんなOLさんのウェーデングドレスも縫ったことがあったらしい。しかし、やはりメインのお客さんは医者のヨメハンとか、女性校長等で、お金持ちのお上品な階級。
そんなお上品なお客さんに囲まれて仕事していた叔母からは、「ゆうた」と言うと、「いった、でしょ」、「あんなぁ」と言うと、「あのね、でしょ」、と必ずやっかいな“指導”が入った。

しかしこの日の会話では、そんなお上品な雰囲気はなく、下の歯は屋根の上、上の歯は縁の下、と言う叔母のこの知識は、神戸で働くズッと前に植えつけられたモノだったのだろうか。

ワタクシは頭痛持ちならず、歯痛持ち(?)、歯ァの具合は、いつもどこかが悪かった、という自分の印象。

20代半ばから、定期的にオヤシラズが口内を噛み腫れた。その都度、上司から紹介された三ノ宮の歯医者に行くのだが、老医師はチョコチョコと薬を塗って、「噛まン様にナ」と言うだけ。 
「イヤ、センセ、噛まンようにはしてますネン、そやけど噛んでしまいますネン、もうそれ、抜いてもらえません?」と何度も懇願したが、「イヤ、オヤシラズはむやみに抜くモンやない」と、頑固に拒否された。また、「オヤシラズ抜くのに大手術してエライ目に遭うた」、と言う友達もいた。
やはりむやみに抜いてはいけないものなのか、そう思って、10年が過ぎ、30代半ばに転職し、東京へ転勤、住まいは東急東横線日吉駅。

当然東京でも腫れて、駅前の歯医者へ行った。 日吉のセンセは三ノ宮のセンセより大分若い同世代。「抜いてェ」と頼むと、判りましたと、ポン、ポン、ポン、ポンと左右上下、簡単に抜いてくれた。ワタクシはエライ目に遭う事もなかった。

次に具合が悪くなったのは、50歳頃から。
ポロポロ抜けてきて、その都度、マンション1階にある歯医者でブリッジを入れてもらう羽目になった。
「歯槽膿漏です、磨き残しがないよう、よく磨いて下さい」と、いつもセンセは言った。酔い潰れて、磨かずに寝てしまう事もあったが、自分では上下左右裏表、きちんと磨いているつもりだったのに。 
小学生の頃、学校の講堂で、近所の歯医者(同級生の父親)の、「食後3分以内に3分間、磨いて下さい」と、言う講演を何度か聞いたことがある。食後3分以内に、と言うのはかなり無理があるが、3分は磨いているつもりでいた。
しかし「よく磨いて下さい」と言われ、自分の“つもり”が何分なのか計って見た。そして、3分とは自分の認識よりかなり長い事が判った。 

やはり磨き不足だったのか。それもあるかも知れないが、ワタクシの歯槽膿漏は、オフクロから貰った歯周病菌だと思う。
オフクロは昔、「シソオノーロになって、歯が次月と抜けていくのよ」、といった話をよくしていた。
なんやネン、シソオノーロて、痛なかったら別にエエやン、ワタクシは別にそれが恐ろしくはなかったし、オフクロもワタクシに、特別に何かをケアせよとは言わなかった。
そしてワタクシは歯周病菌を口内で飼い続け、ポロポロ歯が抜け始めた。

そんな時、昔叔母から聞いた、抜けた下の歯は屋根の上、上の歯は縁の下に放る、と言う話しを思い出し、歯医者に、抜いた歯をくれ、と頼んだ。「実家の屋根に放り上げんとネ」と言うと、センセは「そうそう、お母さんに返さんと」、と笑って応えた。
そして、何度目かに抜けた歯は、白いプラスチックの歯の形のケースに入って戻って来た。
「へぇ、こんなんありますのン」、「エエ、面白いでしょ」、抜けた歯を持って帰り、実家の屋根や縁の下に放る、そう言う習わしは案外ポピュラーなのかも知れない。

そしてそう言う歯を直ぐ布引谷・山の家へ持って行けばよかったのだが、ワタクシの悪いクセ、うっかりサボってしまい、オフクロは亡くなり、山の家もM氏に譲ってしまった。

それが洗面台に残っている。さてどうするか。
もう他人のモノになった山の家に放れない。しかし、信州・安曇野に持って行っても、オフクロとは全く無関係の地、やはりこれは布引谷に放るしかない。

と言う事で、 22日、久しぶりの布引谷、ドピーカンで暑い。

 砂子橋の下の流れは枯れておらず、そこそこの水量。

ここでデジカメのバッテリーはオネンネ、予備は持ってきておらず、これ以降、写真は撮れず。

ゆっくり登って、山の家の直ぐ下の、通称“36段”の石垣まで来て、そこから投擲することにした。

 試しにデジカメのスイッチを入れると、最後の最後の1枚が撮れた。左手の茂みの直下が布引谷、対岸の岩壁のオーバーハングには、高校生の時打ち込んだハーケンがまだ残っているハズ。

抜けて持ち帰っていた歯は20本あった。と言う事は、ワタクシの自前の歯は、もう1/3程しか残っていない事になる。

「サラバっ」、放ると、20個の小さな白い粒は、流れの中に落ちたり、砂地に落ちたり、、石に当たり更に遠くへ飛んで行っりした。

その後、山の家、つまり今はM氏宅を覗いたが、彼はいなかった。櫻茶屋へも行ったがシャッターが降りたままだった。

墓は御影にあって、お寺は北野、痴呆の叔母は本山の超豪華な施設にいるし、安曇野に移住しても神戸とは完全に切れる訳ではない。
M氏ともレイ子さんとも会えなかったが、いずれまた、必ず、という想いで布引谷とチョット長いお別れ。

翌23日、“0123”が43枚のシールを貼った荷物を引き取り、NTTが光回線をアナログ回線に戻しに来て、関電、大阪ガス、水道局へ、6月からの請求先を配偶者に変更依頼し、マンションの管理人サン、1階の食料品屋の老夫婦と、新長田の蒲鉾屋の若夫婦に挨拶、酒屋とパン屋のオバちゃんには先週までに挨拶済みだし、これで神戸ともチョット長いお別れ、では皆さま、ごきげんよう、サヨウナラ。

 

 


4月末頃、神戸で罹ったらしい風邪が、連休の安曇野でこじれ、連休明け神戸のリフォームに立ち合いながら、廃棄、廃棄、廃棄

2017-05-31 13:43:37 | 信州安曇野での出来事

4月上旬、安曇野に冷蔵庫を設置し、穂高のスーパーでの食料調達は、総菜売場から肉魚野菜売り場に移った。

しかしナンかもう一つ、炊事のノリが悪い。
それは多分、食器、炊事道具を、本格的に持って来ていなかったから、だと気が付いた。
今後垂水にいるのは、“水漏れ事故”リフォームの立ち会いをする1週間程度のみ、その間、垂水のスーパーの惣菜売り場へ行けばイイだけ。

と言う事で、4月第5週、垂水へ戻り、鍋、フライパン、ポット、皿、ドンブリ等、手当たりしだいに積んで、ついでに本棚一つ分の本雑誌も積んで、ついでに不要にモノは棄てて、更についでに“ご本尊”を大事に包んで安曇野に持ち帰る。

 本棚一つ分の本雑誌をトランクに積むと、シャコタンになってしまった。

 今後使かうかどうか判らないが、ピッケル、アイスハンマー類も積んできた。布引谷で薪割りに使っていた斧は、庭に積みあげられた切り株の解体に、使用予定。

  食器類をテキトーにセットする。

 やはり大きな中華ナベがないと、調理にはならない。

この夜、いつもの如く酔い潰れ、気が付くとヘンな寒気がする。
ストーブを点け、その前で踏み台に座ってあたっていると、ガタッ、ゴン、ドン。
いつの間にか寝込んでしまって、踏み台から滑り落ち、ストーブに激突、お湯が湧いたポットを落し、ストーブは直ぐ消火装置が働いたが、床に伏せった視線の先には倒れたポットと一面の熱湯。
慌てて飛び起き、食器を包んで来たタオルを床に敷き詰め、拭いていると、フリースと厚手シャツに浸み込んだ熱湯が素肌に到達して、アチッ、アチッ、アチッ。
急いでそれらを脱ぎすてたが、左腰の上辺りがヤケド、ヒリヒリする。
寒気がするので熱い風呂に浸かりたい。しかしヤケドになった腰の上辺りは冷やさないといけない。
なるべく腰辺りを湯に漬けない様、風呂には入ったが、出るとヤケドはそこそこ大きな水脹れになっていた。

翌日からは、上あごの奥辺りにヘンな違和感がある風邪気味状態。
この情況の風邪は、多分2年半振り。神戸に戻った時、ポーアイの家具屋もウロついたので、その時罹ったかも知れない。

 4月末日、大事に持ち帰った“ご本尊”を仏壇にセットし、念仏十念する。 

 5月になって、庭のクヌギが芽吹きだした。

 風邪状態は続いていたが、庭に積上げられている塊から、枝や根を切りだした。

 そしてそれを燃やした。

  細い枝や根は、豪快に燃え上がり、ワタクシの頭頂部も燃やして、シラガをチリチリに焦がしていった。

風邪気味で長時間屋外にいたせいか、その後は鼻炎を伴ったような感じで、風邪は益々酷くなり、食欲はなく、咳、痰は止まらず、声は枯れた。

お隣サンはワタクシのガラガラ声を聞いて、「その声、一体どおしたのォ」、「風邪、こじらせましてン」、「松の花粉、吸ったかもしれないね、舞い始める頃だから」、確かに南側の土地は松林。周りを注意して見ると、所々に薄緑色の粉がまぶされている。それを吸って鼻炎になったのか。

その夜、鼻炎の時はマスクが有効だった、と思い出した。そして、垂水から運んだ荷物の中から、ナント使い捨てマスクが見つかった。

マスクを付けたまま寝て、翌朝、風邪は終わりの始まり(?)、食欲は復活した。

4日、初めてのゴミ出しをする。 

 5日、次々と芽吹くクヌギ。 

 頻繁に姿を見せるキツツキ。

連休最後の日、渋滞を避け北陸道、舞鶴道経由で垂水に戻る。

8日、9時過ぎから“水漏れ事故”リフォーム工事が始まった。

まず工事のメイン、ユニットバスの解体、ズゴゴゴゴッ、ドゴゴゴゴッ。この音は、近年、他の部屋からもチョクチョク聞こえる音。
コンクリートの壁に穴でも開けているのか、そんな轟音だが、工事業者の親方の背中越しに覗いてみると、それは電動ノコ(レシプロソー)でFRPの湯船を切断している音だった。
切断しないと搬出できないのか、入れる時は丸こど入れているのに。
訊いてみると、当然丸ごと出せるが、切断した方が早いとの事。どうせ細断するし、ナルホド。

ユニットバスは2日がかりで切断、搬出され、3日目に新ユニットバスが組み立てられ、4日目、トイレ、洗面の壁紙張替、新ユニットバスで初シャワー、5日目、便器、洗面化粧台が新替えされ、工事終了。
6日目、朝一で工事業者が追加費用の請求書を持って来て、帰ると直ぐ、トイレのフロ側巾木辺りに水が浸み出した。
急いで工事業者に連絡。彼等は長田での工事を済まして、13時半に再登場。
漏れた個所は、便器裏側の配管接続部。ここから漏れて巾木へ伝わったとの事。フロ側から浸み出たものではなかった。
その箇所に、再度コーキングをベタベタに塗りたくって30分弱で終了。
最初の予定では工期6日だったので、これで予定通り終了となった。

ワタクシは工事をチラチラ見ながら、廃棄の日々をスタート。
まず押入に放り込んだままにしていた、パソコンやプリンターの箱を解体、段ボールと発泡スチロールに分別。
次に洋服ラック、パソコン机、椅子をゴミ袋に入るサイズに切断。これらのほとんどは金属パイプ。久しぶりに金ノコが役に立った。 

 そしてこの重箱。これは布引谷・山の家のガス台の奥に置いてあった。かなり昔、オフクロが使っているのを何度かは見た。
オフクロの話しでは、祖母から譲られたモノ。と言う事は、60年前、高槻の富田からワタクシと一緒にやって来たワケだ。

模様は職人の手書きではなくプリントだと思う。60年前、陶器にどんなプリント技術があったのか、サッパリ判らないが、明らかに印刷ミスと思われる滲みやズレがある。
要は超安物。60年前、高槻・富田から神戸・布引谷へ移り住んだビンボー家族には、相応しい家財。
一昨年、山の家を片づけている時に廃棄すべきだった。しかし祖母から譲られた、と言う話しを思い出して、垂水の流し台の奥に取りあえず移動していた。
とは言え、安曇野で使う事は、まずない。ワタクシが退去した後、この部屋に住みつく配偶者も、まず使わない。
思い切って、燃えないゴミの袋に放り込んだ。
結局、この週は一番大きな指定袋を6袋分、廃棄した。 

工事業者が漏れた個所にコーキングを塗りたくって帰った後、引っ越し業者が見積に来た。
3日前、ネットで「引っ越し業者一括見積もり」とか言うのに依頼したら、メールが返って来たのはたった3社。概算価格が書いてあったのは1社、そして直後「伺います」とのTELがあったのは、“荷作り後無用0123”、1社だけ。

“0123”の真面目でジェントルな営業マンに、引っ越し荷物の概要を説明すると、彼の見積提示は10万弱、ネゴをして1万下がり、更に7万になったが、これは15㎥/2t車の見積とか。
既に、オーディオ一式、LP、CDの全て、仏壇、衣装ケース、スキーや自転車など遊び道具は運んでいるし、冷蔵庫、洗濯機は現地調達だし、そもそも残り15㎥もあるのだろうか。

「イヤ、原付ありますし、夏タイヤ4本ありますし、2トン15㎥は要りますよ、1.5tで10㎥だと6万ですが、ギリギリで積み残し出るかもしれません」、「それでイイよ、残ったら車に積むから、それでせめて5万円台になれヘン?」、結局5万5千円で決定。
しかし日時はお任せ、要するに、“0123”の都合のよい日にお引き取り頂き、都合のよい日にお届け頂く、という条件。特に時間は朝か夕方にしかならないらしい。
そして引き取り日は10日後の23日、着日は25日となった。

連休明けの引っ越しが、結局、5月下旬にズレてしまった。 
最後に“0123”の営業マンは、段ボール箱20枚、置いて帰った。
段ボールは、近所のスーパー、ホームセンターで既に10枚以上貰っていて、そんなに要るモンか、と思っていたが、結局すべて使う事になった。

9年前、オフクロが亡くなって、ワタクシは布引谷・山の家に移住すべく、オフクロが遺して逝ったモノを整理、廃棄していた。中にはワタクシが置いて行ったモノもあったが、オフクロが遺したモノの多さに辟易とし出した頃、周りの情況、景色の変化に気付き、布引谷は諦めた。

しかし一昨年、山の家を譲らないといけなくなり、オフクロが遺したモノの廃棄を再開。
オフクロは大正生まれ、戦争でモノがない時代に青春を過ごした世代、だからモノを大事に溜めていったのか、それとも布引谷ではゴミ回収のシステムが都会並ではなく、棄てる習慣がなかったのか、生ごみは庭に埋めれるし。
いずれにせよ、モノは溜めてはいけない、モノは自ら棄てる、他人に廃棄を相続させてはいけない。つくづくそう思った。

知人の岳父の死にざまについて聞いたことがある。 知人は養子ではなかったが、ヨメさん一家と住んでいて、岳父を送った。
そのお父さんは、自分の死期を悟ったのか、大きなモノから徐々に棄てて行き、最後は写真までもキッチリ捨てて亡くなったそうだ。 「あれは立派な死にざまやった、感心したワ」、知人はよくそう言っていた。

知人はワタクシの一廻り上、その岳父だから明治生まれ(?)。
明治は棄てる(?)、大正は溜める(?)、昭和はどうするか、ワタクシは棄てることにした。
しかし、それを指定袋に入れ、ゴミ捨て場まで持って行くことをサボっていた。
そう言うモノが、“おひとり様”になるまでの20年間、独占していた玄関横の狭い部屋に残っている。
後10日、それらをノンビリ、丁寧に棄てていくことにする。

壊れたビデオデッキと大昔の扇風機を解体すると、燃えないゴミ1袋になった。

10年以上振っていないテニスのラケットは、一度整理したがまだ7本残っていて、ガットは切れていなかったが、プラスチックの部分が劣化して、アチコチ脱落していた。結局1本は残してその他は燃えるゴミ2袋にした。

皮靴も一部は10年前、特殊機械メーカーを退職した翌日、スーツ類と一緒に廃棄したが、まだ4足残していた。
1足は元町高架下の有名な輸入衣類ショップにあったモノ。そこは学校を卒業して最初に入った、船室艤装金物メーカーの近所にあった。
その靴は黒のウイングチップ、ダークスーツには欠かせないアイテム。歴代米大統領御用達メーカー製だそうで、国産メーカーの、確か2倍以上の価格だった、と思うが、巾のサイズが国産にはない“D”言うのが気に入って買ってしまった。そして嬉しがって造船所の現場まで履いて行った。
しかし雨にも打たれ、4足とも表皮にヒビが入ってボロボロ、同様にヒビが入った30年以上前のウエスタンブーツと、数年前から雪の中でも履いてパックリ割れたアプローチシューズ、計6足と一緒に、燃えないゴミ2袋にした。 

その他、テーブルや棚にあった不要物を手当たり次第ゴミ袋に放り込み、本棚を2つ、棚を1つ解体し梱包。ネジが抜けかけた壁付きの棚は破壊して廃棄。
本や雑誌も一部は廃棄したがほとんどは梱包し、結局5日でほぼケリがついた。

翌19日は配偶者が掃除に来て、20日は荷入れ。ワタクシはこの間、一旦安曇野へ荷物を運ぶことにした。“0123”からは積み残しが出るかも知れないと言われている。極力運んでおかないと。

この時期、名神は集中工事で夜間通行止め、ルートを替えないといけない。で、舞鶴道~北陸道経由で、富山から神岡、安房トンネルを晴天下のドライブ。

 棚板と支柱、本雑誌もかなり積んだので、車はまたシャコタンになった。また、冷蔵庫の中身を手当たり次第に保冷袋に放り込んだが、保冷剤を入れ忘れ、カンカン照りの車内でマーガリンは液体油になっていた。

 2週間前芽吹きだした庭の木々は、青い茂みに変わっていた。

翌21日、垂水へトンボ帰り、最後の廃棄が残っている。

それは押入の奥に放置したままの古い山道具。 

 高校の頃、元町の高架下で購入したシュラフ。結局本チャンで使ったのは数回だった。

 当時、一世を風靡したクライミングブーツ。山岳雑誌に投稿し、掲載された数回の登攀記録を含め、ほとんどはこの靴で登っていた。

 高校の頃からいつもザックに入れていたツエルト。雨の中、これを被ってビバーグしたのは、何夜あったのだろう。

 シュリンゲ、アブミ、ナッツ等。

 9ミリ × 40mのザイル、確か「ジョアニー」と言うメーカーだったと思う。

その他、ザック、クライミングシューズ、ヘルメット、手袋、衣類、食器等、燃えるゴミ袋は3袋になった。

やっと終わった、と思ったら玄関横の工具等を入れていた押入が残っていた。更に1袋、これで完全終了。

 後は“0123”が来て、荷出しするのみ。