10年近く前から、ワタクシを含め全てを“認知”出来なくなった叔母が、60年近く前、布引谷・山の家に遊びに来た時、幼いワタクシは、「オバチャン、こないだ下の歯ァ抜けてン」、とそれを叔母に見せた。
叔母は口うるさいもう一人のオカンだった。
叔母は、「下ノなら屋根に放り上げときィ、上のンやったら、縁の下」、と応えた。
当時叔母は、三ノ宮で婦人服を縫っていた。友人との共同経営で、店は駅の北側の銀行の裏にあった。
その頃、昭和30年代は女性事務労働者も、洋装店で通勤着をオーダーメイドしていたそうで、そんなOLさんのウェーデングドレスも縫ったことがあったらしい。しかし、やはりメインのお客さんは医者のヨメハンとか、女性校長等で、お金持ちのお上品な階級。
そんなお上品なお客さんに囲まれて仕事していた叔母からは、「ゆうた」と言うと、「いった、でしょ」、「あんなぁ」と言うと、「あのね、でしょ」、と必ずやっかいな“指導”が入った。
しかしこの日の会話では、そんなお上品な雰囲気はなく、下の歯は屋根の上、上の歯は縁の下、と言う叔母のこの知識は、神戸で働くズッと前に植えつけられたモノだったのだろうか。
ワタクシは頭痛持ちならず、歯痛持ち(?)、歯ァの具合は、いつもどこかが悪かった、という自分の印象。
20代半ばから、定期的にオヤシラズが口内を噛み腫れた。その都度、上司から紹介された三ノ宮の歯医者に行くのだが、老医師はチョコチョコと薬を塗って、「噛まン様にナ」と言うだけ。
「イヤ、センセ、噛まンようにはしてますネン、そやけど噛んでしまいますネン、もうそれ、抜いてもらえません?」と何度も懇願したが、「イヤ、オヤシラズはむやみに抜くモンやない」と、頑固に拒否された。また、「オヤシラズ抜くのに大手術してエライ目に遭うた」、と言う友達もいた。
やはりむやみに抜いてはいけないものなのか、そう思って、10年が過ぎ、30代半ばに転職し、東京へ転勤、住まいは東急東横線日吉駅。
当然東京でも腫れて、駅前の歯医者へ行った。 日吉のセンセは三ノ宮のセンセより大分若い同世代。「抜いてェ」と頼むと、判りましたと、ポン、ポン、ポン、ポンと左右上下、簡単に抜いてくれた。ワタクシはエライ目に遭う事もなかった。
次に具合が悪くなったのは、50歳頃から。
ポロポロ抜けてきて、その都度、マンション1階にある歯医者でブリッジを入れてもらう羽目になった。
「歯槽膿漏です、磨き残しがないよう、よく磨いて下さい」と、いつもセンセは言った。酔い潰れて、磨かずに寝てしまう事もあったが、自分では上下左右裏表、きちんと磨いているつもりだったのに。
小学生の頃、学校の講堂で、近所の歯医者(同級生の父親)の、「食後3分以内に3分間、磨いて下さい」と、言う講演を何度か聞いたことがある。食後3分以内に、と言うのはかなり無理があるが、3分は磨いているつもりでいた。
しかし「よく磨いて下さい」と言われ、自分の“つもり”が何分なのか計って見た。そして、3分とは自分の認識よりかなり長い事が判った。
やはり磨き不足だったのか。それもあるかも知れないが、ワタクシの歯槽膿漏は、オフクロから貰った歯周病菌だと思う。
オフクロは昔、「シソオノーロになって、歯が次月と抜けていくのよ」、といった話をよくしていた。
なんやネン、シソオノーロて、痛なかったら別にエエやン、ワタクシは別にそれが恐ろしくはなかったし、オフクロもワタクシに、特別に何かをケアせよとは言わなかった。
そしてワタクシは歯周病菌を口内で飼い続け、ポロポロ歯が抜け始めた。
そんな時、昔叔母から聞いた、抜けた下の歯は屋根の上、上の歯は縁の下に放る、と言う話しを思い出し、歯医者に、抜いた歯をくれ、と頼んだ。「実家の屋根に放り上げんとネ」と言うと、センセは「そうそう、お母さんに返さんと」、と笑って応えた。
そして、何度目かに抜けた歯は、白いプラスチックの歯の形のケースに入って戻って来た。
「へぇ、こんなんありますのン」、「エエ、面白いでしょ」、抜けた歯を持って帰り、実家の屋根や縁の下に放る、そう言う習わしは案外ポピュラーなのかも知れない。
そしてそう言う歯を直ぐ布引谷・山の家へ持って行けばよかったのだが、ワタクシの悪いクセ、うっかりサボってしまい、オフクロは亡くなり、山の家もM氏に譲ってしまった。
それが洗面台に残っている。さてどうするか。
もう他人のモノになった山の家に放れない。しかし、信州・安曇野に持って行っても、オフクロとは全く無関係の地、やはりこれは布引谷に放るしかない。
と言う事で、 22日、久しぶりの布引谷、ドピーカンで暑い。
砂子橋の下の流れは枯れておらず、そこそこの水量。
ここでデジカメのバッテリーはオネンネ、予備は持ってきておらず、これ以降、写真は撮れず。
ゆっくり登って、山の家の直ぐ下の、通称“36段”の石垣まで来て、そこから投擲することにした。
試しにデジカメのスイッチを入れると、最後の最後の1枚が撮れた。左手の茂みの直下が布引谷、対岸の岩壁のオーバーハングには、高校生の時打ち込んだハーケンがまだ残っているハズ。
抜けて持ち帰っていた歯は20本あった。と言う事は、ワタクシの自前の歯は、もう1/3程しか残っていない事になる。
「サラバっ」、放ると、20個の小さな白い粒は、流れの中に落ちたり、砂地に落ちたり、、石に当たり更に遠くへ飛んで行っりした。
その後、山の家、つまり今はM氏宅を覗いたが、彼はいなかった。櫻茶屋へも行ったがシャッターが降りたままだった。
墓は御影にあって、お寺は北野、痴呆の叔母は本山の超豪華な施設にいるし、安曇野に移住しても神戸とは完全に切れる訳ではない。
M氏ともレイ子さんとも会えなかったが、いずれまた、必ず、という想いで布引谷とチョット長いお別れ。
翌23日、“0123”が43枚のシールを貼った荷物を引き取り、NTTが光回線をアナログ回線に戻しに来て、関電、大阪ガス、水道局へ、6月からの請求先を配偶者に変更依頼し、マンションの管理人サン、1階の食料品屋の老夫婦と、新長田の蒲鉾屋の若夫婦に挨拶、酒屋とパン屋のオバちゃんには先週までに挨拶済みだし、これで神戸ともチョット長いお別れ、では皆さま、ごきげんよう、サヨウナラ。