親子ウオーカーの『風の色を求めて』

楽しみながら歩くと風の色が見えるらしい
それじゃあ、肩を落として歩くより
上を向いて元気よく歩いてみよう

岩城相馬街道(16) 磯原駅~足洗宿~安良川宿

2014-03-29 22:19:30 | 岩城相馬街道

岩城相馬街道ひとり歩き(原発警戒区域以南編)
水戸-枝川-沢-石神-大橋-森山-孫-助川-小木津-伊師-安良川 ← ← 足洗神岡関田植田新田-上船尾-湯本神谷 四倉-久之浜-広野



岩城相馬街道ひとり歩き プロローグ

岩城相馬街道ひとり歩き 前回のブログ
  岩城相馬街道(15) 大津港駅~神岡宿~磯原駅 


磯原駅に降り立つと。。。干物作りの真っ最中



磯原駅前商店街の石畳には磯原駅前で見たモニュメントと同じ、あんこうのキャラクター(→前回のブログ
ネットで調べても名前がわからない
ゆるキャラじゃないから、特に名前もないのかな?
磯原は平成9年に橋上駅舎になってから、土地区画整理が行われていた西口のほうが街の中心になってしまったようで、街道筋の東口はかなり寂しい感じになっている



街道(国道6号線)に出て大北橋を渡った先に東京まで165kmのキロポスト。



北茨城消防署付近の松並木は砂防林のようだが、大北橋から消防署を通り足洗宿の北まで、磯原節で「末の松並」と歌われる松並木が昭和初期まであったそうだ。



馬頭観世音や馬力神などの石塔群があるが、明治から昭和にかけてのものが多かった。



津方神社入口の信号があったので横断歩道を渡り、神社に立ち寄ってみるが、かなり荒れた感じ



国道は左へカーブしていくが、岩城相馬街道は直進し、常磐線の踏切を渡ると足洗宿に入る。



踏切を渡った先の三差路に馬頭観世音などの石碑群。
一番左にある四角い碑は、真ん中で割れてしまったのを補修されているが、昭和3年の道標。

  北 下櫻井、磯原、大津、平潟経テ平町ニ至ル 約四十粁 十里
  東 足洗海岸ニ至ル約三百五十米
  西 上櫻井(役場、小学校、駐在所)ヲ経テ石岡大塚木皿ニ至ル 約四粁 一里
  南 小野矢指、高萩、助川ヲ経テ水戸市ニ至ル 約六十粁 十三里


水戸まで60kmかぁ  



足洗宿は木賃宿や茶店が10軒余りあったといわれている。
会津の大内宿のように道路の両側に水路があるのが名残なのか、他に面影を残すようなものはなく、境内に天王塚古墳がある素鵞神社に立ち寄るも足早に通過。。。




足洗宿で一番印象に残った風景はコレかも・・・



足洗宿を抜け、常磐線沿いに南下。



岩城相馬街道は踏切を渡るが、ちょっとまっすぐ進んで塩竈神社に寄り道。



踏切を渡らず直進して進む参道は常磐線開業後にできた道。
もともとの参道は・・・線路の向こうに一の鳥居と狛犬が



崩落しそうな階段を登ると想像以上に小さな拝殿が現れた。



境内の由来によると
 応永十二年巳酉四月一日奥州塩竈神社本社の御分霊を粟野の地に奉祀し、塩竈禄所に大明神と尊称し。
 このとき、奉祀の船底の穴を【アワビ】が塞ぎ、海水の浸入を防ぎ無事に奉還したといふ。故に今日まで氏子は【アワビ】を食さない。
 元禄八年四月水戸藩主、光圀公命によって飛竜山に社地を移す。

とあった。

境内からは海も見える
気温も高く、かなり霞んでいる。



国道6号線に合流・・・
太平洋を一望できる売物件ありますよ~
海面から高さ3~4mくらいだと思うけど、この辺りは震災時の津波被害は小さかったはず。



粟野交差点から内陸に入る。
南中郷の駅付近は、震災前は古い木造の商店が数軒あったが、今はほとんどなくなった。




新しくなった南中郷の駅舎で昼食休憩。
大津港駅や勿来駅も駅舎が新しくなっているが、ここ数年、JR東日本水戸支社管内では毎年2駅くらいのペースで駅舎のリニューアルを行っているようだ。



国道6号線に合流し、高萩市に入るとすぐに旧道は左へ。
この国道からの分岐にあるのが長久保赤水旧宅。
長久保赤水は、伊能忠敬が詳細に測量して作った日本地図より42年前に、北海道を除く日本地図を作った人。
ほぼすべての宿場町を網羅し、明治に入るまで、庶民が旅で持ち歩く地図は赤水図だったそうだ。

 

赤水図(↓)・・・以前、水戸ウオーキング倶楽部主催の例会に参加したときに長久保赤水旧宅で撮影したもの。



街道沿いにはお墓や生家跡もあります。


 

赤水ストアーの隣に長久保赤水誕生地の碑。 石碑の日本地図は赤水図だ。



願成寺の境内では桜が咲きだしていた。
ここ数日の暖かさで、桜前線は一気に関東までやってきた。
いわきでは、常磐共同火力発電所の河津桜が満開になっている。  春だなぁ~




願成寺から先は、昭和40年代に造成された松久保工業団地によって岩城相馬街道は消えている。
仕方なく、一部迂回し、工業団地入口交差点付近から工業団地の中を歩く。

歩道には市の木として枝を下に伸ばす松が描かれたタイルが埋め込まれている。

 

工業団地を抜けると、バス停にもある枡形で安良川宿へと入っていくのだが、その肝心の枡形部分が常磐線で分断されており、陸橋で常磐線を越える。(ちなみに自転車・歩行者用のトンネルもある)
陸橋から北を向くと常磐線の右奥が工業団地。
常磐線を越えてから南を見ると安良川宿(安良川宿と並ぶ高萩宿か?)の北のはずれの枡形部分。


  

カーブを曲がり振り返ると、何となく旧街道の趣き。。。



高萩市役所仮庁舎前には大正5年の馬頭観世音碑。 その大きさ、県北最大だそうだ。



高萩市立第一幼稚園前には、平成22年4月に伐採された北宿並木一本松の切株が保存されている。
この松は、慶長11年(1606)に松岡藩主戸沢政盛が街道に整備させた松並木の最後の松と言われていた。
寛政元年(1789)には、三町二間(約35m)に渡って松並木があり、72本の松が残っていたという記録がある。
工業団地の歩道に埋め込まれたタイルは、この北宿並木一本松の絵だった。




今日は安良川八幡宮まで足を延ばそうかと思っていたが、ちょうど下り電車の時間(次は1時間後)だったので高萩駅でゴール



相変わらずの短距離ウオーカーで、4時間弱 11.9km


ここまでの歩行経路図(概略)






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岩城相馬街道(15) 大津港駅~神岡宿~磯原駅

2014-03-20 21:38:21 | 岩城相馬街道

岩城相馬街道ひとり歩き(原発警戒区域以南編)
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岩城相馬街道ひとり歩き プロローグ

岩城相馬街道ひとり歩き 前回のブログ
  岩城相馬街道(14) 関田宿~大津港駅 勿来切通と平潟洞門の巻 


銀行やら買い物やら、用事を済ませて前回のゴール大津港駅に降り立ったのはもうお昼前。。。
行けるときに行けるだけ進んでおこうと、大津港駅から足洗宿手前の磯原駅までの一駅分を歩くことにした。



五浦変電所の交差点から岩城相馬街道(県道155号線)へ。
歩き始めてすぐ、右手に岩塙山荘珈琲店の看板。 う~ん、自家焙煎珈琲豆かぁ~。
ちょっと行ってみたいけど歩き始めたばっかりだし、夕方から姫ウオーカーの皮膚科の予約もあって今日はパス

 

千手観世音菩薩の碑(小さく元寺子屋って書いてある)に誘われてお堂に進むも、千手観音は鍵がかけられ見ることはできず・・・
お堂右手のお地蔵様を見ると、みんな、かっ、顔がない



八幡神社も街道から近いので立ち寄る。

 

八幡神社裏手の高台では、北茨城市の新しい総合病院が建設字工事の真っ最中。
街道に沿って西側に新しい道路も建設中だ。海岸線を走る国道6号線のバイパス機能も持つのかな。



歩道が道の右側・左側、交互に現れるので、そのたびに横断しなければならずちょっと歩きづらい。

自家用の畑だろうが、竿の先から空き缶をぶら下げたものがたくさんあって、風に揺れてカランカランいってた。
黒いのはカラス除け?



関南多目的集会所の敷地内には北茨城のアメダス。
気象観測所ってちゃんと見るのは初めてかも。。。市役所の近くじゃないんだ。
周りが田んぼなので、風向・風速は正確に観測できそう

ん?いたずら?

してないっすよー



神岡下十字路交差点から道幅が狭くなり、いよいよ神岡宿



稲荷神社の神前町として栄え、室町時代後期には現在みられるような間口6間半の規則的な屋敷割がされたそうだ。
江戸時代になると、神岡上・神岡下のそれぞれに本陣、脇本陣、問屋が置かれ、旅籠も11軒あったらしい。



こちらは廃屋のようだが、雰囲気がいいのでパチリ



震災の影響か、ブロック塀が倒れて片づけたままの家も多い。



たぶん、こちらが脇本陣の菊池家(いずみや)。



神岡下の本陣は菊池家北隣の塗屋だったが面影はない。

さらに、神岡上の本陣、常徳院は跡形もないし残念ながら茨城県教育委員会の調査でも場所がわからなかったようだ。

左手に稲荷神社前バス停と消防団の詰所があるとすぐ横が参道だ。



境内のイチョウの木。 樹齢500年って書いてあったけど面白い形をしている。
真ん中までは太く、ゴツゴツしたこぶのように四方に伸び、その先から無数の枝が上に向かって伸びている。

真ん中から上は幹・枝というより銀杏が落ちて新しく生えたみたいに思える。

生命の力強さを感じる木だ。



大津港駅からここまで、民家の庭先や畑の梅の木はほぼ満開で、ここ稲荷神社の梅もだいぶ咲きそろってました。



街道と並行し南に延びる参道には鳥居がいくつも並んでいて、拝殿に向かってだんだん小さくなっていた。



稲荷神社のすぐ先に宿継問屋だった菊池家(小菊屋)がある。門には「新家大菊屋」の表札。
新家とは分家という意味で、大菊屋の分家ということで小菊屋であることを表しているのかな?

大菊屋は庄屋で小菊屋北隣りの、今は空き地になっているところで酒造業(醸造業?)を営んでいたようだ。



街並みはこんな感じ。
街道に面した建物は雰囲気の良い木造家屋が多い。
その奥に新しい2階建ての家が建っていたりするので、各家が宿場町の面影を残そうと努力されているのかもしれない。



第一神岡踏切を渡ると国道6号線に合流する。

国道に合流してすぐ、「東京まで169km」の表示の近くに神岡一里塚がある。
国道に1/3ほど削られてしまっているが、歩き始めて初めての現存する一里塚だ。

この国道は普段からよく使っているし、すぐ横を走る常磐線も海が見える東側の席を利用していたが、ここに一里塚が残っているなんて知らなかった。
一里塚の上には小さめの石碑が建っている。



ほらっ、国道のすぐ横は太平洋 



景勝地「二ツ島」は大きいほうの島が震災による崩落で島上部の木がなくなり、大きさも2/3程度のほっそりした感じになってしまった。
小さいほうの島は地盤沈下の影響で水没してしまった。。。大潮の干潮時なんかは頭を出すのかな??

島にいる黒い鳥は海鵜。 アップにすると巣の中にヒナ鳥がいるみたいですね。。

もう少し南の日立市にある鵜の岬には、長良川の鵜飼いなどに使う国内唯一の海鵜の捕獲場があるんですよ。




国道沿いに馬頭観世音や馬力神の石碑が集められている。 古そうなものはひとつだけ文久3年と読めた。



北茨城市歴史民俗資料館・野口雨情記念館があるが、電車の時間を考えてパス。



前々から気になっているんだけど、お店なのかなぁ?
お店だとしても入る勇気ないけど・・・



野口雨情生家は有料で公開されている。ここは前に入ったことがあるので、電車の時間も考えてパス。



野口雨情は「シャボン玉」や「七つの子」、「赤い靴」など、誰もが口ずさんだ童謡を作詞した人。

そういえば、神岡宿の手前で12時の時報代わりに防災無線から「シャボン玉」が流れてた。

最寄りの磯原駅の発車メロディーは七つの子。


大北川の河口にこんもりと見えるのが茨城県第2位の低山、標高21mの天妃山。
河口に広がる砂州の向こうには太平洋が見える。
この写真を撮ったところには茨城百景(磯原海岸)の碑が建っていた。



磯原駅で出迎えてくれたのは漫画チックなあんこうのモニュメント。




今回は10km弱だが、これくらいの距離のほうが疲れも残らず、今の自分の体力にあっているかも

次回は、足洗宿を通って高萩駅までかなぁ~


ここまでの歩行経路図(概略)






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岩城相馬街道(14) 関田宿~大津港駅 勿来切通と平潟洞門の巻

2014-03-11 21:33:44 | 岩城相馬街道

岩城相馬街道ひとり歩き(原発警戒区域以南編)
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岩城相馬街道ひとり歩き 前回のブログ
  岩城相馬街道(13) 植田宿~関田宿 


昼休みを取った児童公園がある関田海岸は、平成14年の台風21号で堤防に高潮の被害を受け、堤防復旧と沖合に人工リーフを設置する工事を行った。
竣工は震災のちょうど1年前。

勿来海岸から関田海岸にかけて、堤防の越流はあったがこのエリアでは家屋が流されるほどの津波被害はほぼなかった。



昼食後、トイレに行きたいがトイレがない

休憩もそこそこに、勿来駅近くのコンビニへ急ぐことにした。

関田宿に入ると右手に安島醸造元の看板。
直売所は日曜で休みだったが、味噌と醤油が売られている。
以前は市内のスーパーでも売られていたようだが・・・



関田宿は
勿来駅に近いのだが、常磐線が開業した当初、関田宿と反対の西側に駅舎を設けたために商店街などが発達しなかったそうだ。
昭和30年頃、現在の国道6号線が開業して勿来駅の駅舎も国道に面した東側に移ったが、関田宿は国道6号線のルートから外れたために何となく旧街道の面影を残している。



関田宿の中ほど、地図に秋葉神社とあったが想定外の小さな社だった。



関田宿は植田宿と違って本陣や脇本陣がなく、平・湯本・植田といった宿場町に比べてワンランク下の宿場だったと思われるが、
陸奥国に入って最初の宿場であり、棚倉路への脇道が分岐していたことから、村の主要人物には帯刀を許すなど磐城平藩も重要視していた。

関田宿の南のはずれには道路から少し離れて畑の向こうに石塔群があった。
豚供養って初めて見たぞ


温泉施設、太平洋健康センター関の湯の前で国道6号線に合流。
勿来海岸沿いに進む。
数日前に野生のキタオットセイがこの砂浜に現れて地元紙にもかわいい写真が載っていたが・・・歩いている間にはさすがに現れず



バス停を見ると、朝1本だけ。 しかも学校がある日のみ。。。



近くに勿来関跡があるがこれは観光地として整備されたもの。 本当の勿来関の場所は未だ特定されていないということなので今回はパス

その観光地「勿来関」の入口近くの国道には勿来関検問所があり、たまにシートベルトなどの取り締まりを行っているようですが、親ウオーカーはまだ遭遇したことがないです。
ちなみに、この検問所の裏手は常磐線の線路で、大みそかにお座敷列車の常磐初日の出号に乗ると、検問所付近に停車して暖かい車内から初日の出が拝めます



海を見ながらのフィットネス。。。こんなところに通ってみたいけど、会費高そうだなって思ったら
入会時に事務手数料3,150円、月6,000円で使い放題だって 安っ



勿来の関跡三差路交差点を過ぎると勿来切通入口の看板がある。
未舗装路に入るとけっこう急な登り。
でも、新田坂と違って看板があるから迷わない



息を切らして5分ほどで勿来切通に到着。
切通を見上げるとかなり高さがある。
頂上の向こう側は茨城県。



振り返ると勿来の海が見える。



勿来切通ができた経緯はこうだ。

もともと、茨城県の平潟と福島県の九面(ここづら)の間は階坂(はしごさか)と呼ばれて牛馬も通れないほどの急坂で、街道でもトップクラスの難所。
で、慶長年間(1596-1615)に粟野~九面の短絡路として標高50mの頂上付近に洞門を貫通させた。
しかし洞門が狭く、参勤交代の槍がつかえることから、承応元年(1652)に洞門を崩して切り通しとなった。

切通の頂上付近には案内板もある。



茨城県側の切通への急斜面は常磐線敷設時のトンネル工事によって切り崩されて面影はないが、この先、眼下に見える線路に沿って八坂神社に道が続いていた。



道が線路で途絶えてしまっているので仕方ない。
一度は県境を越えたものの、再び福島県側の勿来漁港入口に降りてきた。


九面簡易郵便局の向かいには大正時代に建てられた総ヒノキ造りの仲屋・渡辺家(2枚目)があったのだが、驚くことに塀を残して更地になっていた

  こんな感じでした

国道はトンネルを抜けていくが、街道は左から平潟へ向かう。



平潟港の手前には昭和初期に切り通しになった平潟洞門跡。
ここに県境標もある。
広野をスタートして以来、長い中断を経て2年かけてようやく福島県を脱出だ。
広野から北、警戒区域を通って宮城県の岩沼まで、私が生きている間に岩城相馬街道を完歩する日は来るのかなぁ~



勿来切通の開通によって平潟は街道から外れて取り残される心配があった。
平潟村は村費で階坂(はしごさか)に替わる洞門の掘削することを決めて棚倉藩の許可を取り付け、安政4年(1775)、村総がかりで長さ27m 幅3.6m 高さ3mの洞門を完成させた。

県境標の反対側には安政7年(1778)に水戸藩士で地理学者の長久保赤水が撰文した平潟洞門碑があり、碑文の終わりには平潟からの里数が記されている。
 京都1032里 大阪1068里 江戸288里 水戸96里 仙台288里 南部576里 (この頃は1里が約654m)

水戸から水戸街道、そして東海道と歩いていくと、京都まで675kmかぁ~



平潟洞門跡を抜けるとすぐ、平潟港が目に入ってくる。

まだ新しい鮟鱇像は、北茨城市の震災被害を後世に伝えるためのモニュメントだった。
平潟バス停の向かいには平潟町道路元標。


いわき以上にあんこうが郷土料理として定着し、積極的に売り出している北茨城市だが、あんこうは規制されていないようだ。
漁港目の前の砥上屋は古風な佇まい



「ソフピーなクリーニング」ってどんなん?



駐車場にオレンジ色の花がたくさん咲いてた
これ何の花??



平潟小の横で国道を横切って進むと墓地の一角に大きな馬頭観世音。
大正時代のものだが、平潟馬車組合とある。



実際はこの碑の前の道ではなく、もう1本北側の切岩地蔵尊の前を通る道が旧街道だったらしいが、先を急ぐあまりに間違えた

踏切を渡った先、八坂神社には「右ひらかたみち 左いはきみち」と彫られた勿来切通方面と平潟方面への道標があるというのだがよくわからない。
写真3枚目の左側の石碑大乗妙典供養塔がその道標だったようだが、歩いた時には近寄って見てもわからずじまいだった。



街道らしい道幅が残るが車だとすれ違いが大変そう



五浦変電所前の交差点を曲がり、午後3時過ぎに大津港駅にゴール
いつの間にか六角堂を模した駅舎に変わってた




ここまでの歩行経路図(概略)




震災から3年・・・

今日に合わせようと重い腰を上げ、ようやく福島県内の警戒区域以南を歩き終えてブログに書き上げた。

歩くスピードで見る街は、変わらぬ日常がある一方であの日を境に変わってしまったものもたくさんあった。

多くの人と街が傷ついたあの日から、自分にできることをやり続けようと思ってはいるが心と身体がついてこない。

もどかしい毎日が続く。








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岩城相馬街道(13) 植田宿~関田宿

2014-03-10 20:11:57 | 岩城相馬街道

岩城相馬街道ひとり歩き(原発警戒区域以南編)
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岩城相馬街道ひとり歩き 前回のブログ
  岩城相馬街道(12) 新田宿~植田宿 後編


ここ数日、北寄りの風が吹き真冬並みの寒さが続いたが、9日は風が穏やかで日差しのぬくもりを感じた。
慌てて準備を整え、植田駅に着いたのは10時半過ぎ。。。相変わらずスタートが遅い



植田駅前と本町通り(植田宿)の間は、明治以降、何度かの区画整理によって街路が変わっている。
下は昭和初期の地図だが、江戸時代の街道と現代の町割りを考えるのによい資料だった。
植田町と書かれている場所の「文」マークは植田尋常小学校だが、現在は元イトーヨーカドー植田店(現在はコンビニやカラオケ店)や吉田家具店がある交差点の付近一帯である。
また、この当時の鮫川橋は江戸時代に鮫川の渡しがあった場所に架かっている。




さて、植田駅前から吉田家具店の交差点を右折し、台町バス停の先で本町通りに入ると街道に面した山田屋本館がある。
正徳元年(1711年)の記録には旅籠が4軒あり、そのうちのひとつ山田屋がここ。



植田の街なかでひときわ古さを感じる木造の建物は鷺酒造。 ただし、創業は残念ながら江戸時代ではなく明治21年。



白い外壁の東邦銀行とその横の通りも含めて植田宿本陣跡。そして奥の濃い灰色の建物(NTT勿来交換所)付近一帯が磐城平藩植田陣屋跡。





植田宿のはずれには口留番所が置かれ、町木戸もあった。

現在も番所下バス停があるが、このバス停は実際に番所があった場所より数十メートル植田宿の内側にある。



番所下バス停の先には道標が残り、「右 すか川 松川  左 江戸 水戸」とある。



鮫川の堤防に登ると広い河川敷。 2面ラグビー場があってどちらも練習中。

ここで行われる「なこそ鮫川花火大会」には何度か家族で来たことがある。
まだ17回と歴史は浅いが、7月下旬、四倉のねぶた祭りとともにいわきの夏祭りシーズンを告げるイベントになっている。



震災時には鮫川にも津波は遡上した(→外部動画へ)が、鮫川堤防からの越流はほとんどなかったようだ。

震災の3週間前に開通した県道の新しい鮫川橋を渡る。
将来の4車線化に備えているのか、歩道がやたらと広い。
写真の奥に見える煙突は常磐共同火力発電所。
ここで発電された電気は、東北電力と東京電力に半分ずつ卸される。



鮫川に橋が架かったのは明治14年。
ただし、船10隻を鉄線で結んでその上に板を並べたもので十船橋(とふなばし)と呼ばれた。

木橋が設置されたのは明治35年である。


鮫川の渡し付近から鍵形の道を進んで再び県道に出ると、JAの菊田支部前に錦村道路元標。



街道は右に分かれるが、すぐ先で再び県道に合流し歩道橋でクロスして東へと向かう。



国道6号も歩道橋で越えるが、その横で災害公営住宅が建設中だった。



安良町の北はずれに石塔群。。。 梵字?



安良町の北部は街道の西側で区画整理事業が行われていて、旧街道の面影が消えつつある。



民家の庭に銅像が・・・



安良町の南のはずれに八坂神社があり、ここは街道歩きにとって絶好の立ち寄りスポット。
八坂神社の境内には「江戸期中田村絵図」の案内板があるのだ。



絵図の右が北の方角。



先ほどの石塔群は北宿橋と書かれたあたり。
中田村の中に作られた新しい町で、新町(あらまち)から安良町となったそうだ。



番人所橋はなかった・・・ 

見逃した? 

いやなかった。


蛭田川にかかる蛭田橋の上からは太平洋が望める。



しばらく歩くと2本の松がお出迎え
このあたり・・・関田宿にかけて、江戸時代には多くの松が植えられていたようだ。

文政10年(1827年)に水戸藩の儒学者小宮山楓軒が書いた「浴陸奥温泉記」には
 「列松の大木道を挟み、東海道にもおさおさ劣るまじと思う程の良き道」
とある。



街道脇の松に出会うのは四倉の三本松以来だ。
南側から順光でもパチリ




2本の松のすぐ先に伊勢両宮神社の一の鳥居。 神社は鳥居の向こうに見える山の上。。。
どうしようかと一瞬迷ったが、行ってみることにした。



境内の案内板によると、伊勢両宮神社の由来は
「文禄年間、窪田山城守家盛の叔父道通なるもの、松山寺住職宥長上人と協力して、伊勢国度会より、勧請せるものという。
一説に岩城下総守親隆公の志願による、との伝えもある。」
とあった。

急な階段を上りきると正面に手水舎があり、右手に行くと外宮、左手に行くと内宮。

外宮拝殿


内宮拝殿


ここまで順調に歩いてきたが、伊勢両宮神社の参道の階段で両足に張りが出てしまった・・・
左足股関節の外側も何だかおかしい・・・

明らかに運動不足だなぁ


街道に戻ると地区の案内図があり、海も近いことから防波堤のすぐ横の児童公園で昼食をとることにする。

震災から3年。。。

関田の海はとても穏やかだった。




~ 続く ~




ここまでの歩行経路図(概略)





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