ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

活性化という話

2009-07-30 19:47:09 | Vision East
 よく聞きます。「地域の活性化のためにやらんといかん。」

 地域振興とか地域活性化という言葉が飛び交いだしてどのくらいの日時が経過したことでしょう。
 何回も何回も選挙もおこなわれ、新しく公務員も採用されています。

 地域の問題ははっきりしていることでしょうが、解決策についてはどうも出てこない。
 そして、「ドウセ何をやってもイカン。」「行政はナンモやってくれん。」
 不平不満が花盛りです。

 スローガンを変えてみてはどうだろう。
 豊かで、明るく、楽しい街づくりなどといった、訳のわからないのは、止める。

 「食料品と燃料の100%自給エリアを目指そう。」

 何をどうすれば、それが実現するか。考えるだけで面白い。

 日本の食料品の自給率は40%弱、エネルギーにしても四国電力なりガス屋さんから買うだけ。
 出来ることはたくさんありそうです。

 
 「食料品と燃料の100%自給エリアを達成。」

 出来たとしたら、地域が活性化されたといえるだろうか。
 少し考えています。

 楽しい時間です。

民権派実業家

2009-07-29 14:27:01 | 高知県東部人物列伝
 才吉は、奈半利町立町の商人濱田覚右衛門の子として嘉永3年(1850年)1月7日に生まれます。屋号は高田屋。藩政時代から樟脳の製造や仲買を家業としていたのです。才吉は、高知等での修行を終え、明治10年頃から家業に従事するようになるのですが、時代が後押しをしてくれます。樟脳の製造技術に画期的な進展があったようなのです。飛躍的に生産量が増大したのです。さらにもって生まれた商才でしょう、大阪等での営業活動に取り組むことで実績を上げてゆきます。

 それからです。高田屋の多角経営が始まります。樟脳で得た利益を田畑山林の購入資金に当て,そしてそれらの土地を小作人等に貸し出すことで年間600石の加地子(小作米)(1500俵=90トン)を得ることになるのです。さらにその米を使って酒造業に着手、酒の販売、仲買まで幅広く拡大をしてゆくのです。
 そして山林を利用して製材業とか、もちろん樟脳の製造も販売も続けていたのです。
 資料は言います。「才吉の経営事業の種類やその規模をすべて明らかにすることは出来ない。」と・・。
 ただ、結果がその規模を証明しています。
 明治11年10月28日に高知に開業した第八十国立銀行の株主姓名表に才吉の名前を見ることが出来るのです。この銀行資本金は10万円。才吉は明治22年には株主順位2位となり取締役になっているのです。
 さて、才吉と政治活動、特に自由民権活動についてですが、当初まだ父のもとで商業の見習いをしていたおり、明治初年に政治結社「回天社」に修行に出ているのです。社長の谷重仲から経史やら法律を学んだようです。父覚右衛門さんもそうした政治活動に関心があったのでしょう。そうでなければ跡取り息子を預けるはずがないからです。
 彼はここで、人と人を言論活動でまとめてゆくすべを身に着けてゆくのです。
 そして、地方自治を保障するのが地域経済の活力であることに気づくのです。
 彼が自由民権運動に参加しはじめた時期は、日本における運動の黎明期といえます。樺山資紀文書の「高知県下自由主義と称する各社一覧表」のなかに政治結社でしょうか、「有隣社」副社長として浜田才吉の名前が見えるからです。さらに明治24年の高知県議会議員選挙において当選。しかしながら、明治26年11月1日突然逝去するのです。
 そう、濱田才吉は、「竹崎才吉」と改姓しているのです。今後の研究課題です。
 それに、樺山文書の表題「・・自由主義と称する各社一覧」の称するという表現。面白いですね。いかにも官僚的というか・・。陰湿な意味を含んでいます。
 樺山資紀は当時の警察庁長官。高知県には関係ないものの、随筆家故白州正子さんの祖父です。
 時の政府権力が民権運動をどの様に見ていたのか、想像がつきますね。

 竹崎才吉が生きた時代は、高知県東部地域が最も元気だった時代、明るい未来を実感できた時代と言えるのではないでしょうか。
 高田屋さんは現在も奈半利の真ん中で蔵・屋敷を誇っています。
 

街道の騒動

2009-07-29 11:02:00 | 野根山街道物語
 野根山街道の岩佐の関所で騒動がおきたのは宝暦11年(1761年)5月21日とされています。

 参勤交代で土佐へ帰路についていた藩主(8代豊敷トヨノブ)が、5月17日に甲浦について18日・19日に野根山街道を越える準備をしていたのですが、幕府の巡検使が高知からの帰路、奈半利から向かっている旨の連絡を受けるのです。

 一国の殿様も公儀の監察官には一目置いていたというか、遠慮して急遽道を譲って山越えを諦め、灘廻りとしたのです。海岸を廻って、砂浜や磯を通行したのですが困ったのはやはり一般民衆でした。殿様が急に来るのですし、何より何百人もの行列が押し寄せてくるのです。道普請はもとより接待まで大騒ぎであったことでしょう。賦役が重なると地域住民は負担が大変だったのです。
 さらに、土地土地の長者達の気苦労は相当なものであったそうな。

 それより困ったのが、巡検使の一行でした。記録によれば野根山山中で大雨にあい、岩佐の関所で止宿することになるのです。巡検使のお付の藩の役人やら荷運びの人夫やら、こちらも100人ほどの行列であったそうな。
 山の中の小さな関所に大勢が突然、止宿する。殿様も遠慮するような身分の方々がです。緊張したのでしょう近在の住民の負担も大変であったといわれています。
 どこに止めるの、食事は??。あわてたでしょうね。

 道を譲って灘周りの殿様の一行。こちらも野根山が大雨ですから、風は吹き、波は荒れ、船は出せず、歩いての旅は遍路状態だったのです。

 こうした事件もあってか、これから参勤交代の順路は「北山越え」に変化することになります。

 天気予報はなかったのですし、普段いつもあることではないのですが、しんどかった事でしょう。お世話をする側にとっては、野根山街道は苦役の道だったのです。

氷小豆

2009-07-27 16:25:11 | グルメ
 今年初めてのかき氷を食べましたよ。

 小豆を入れて、白蜜をかけて食べました。

 氷をかいている音も、ご馳走でした。

 シャシャって音。イメージが膨らんで皿に積み上げている手先まで見入ってしまいました。場所はモネの庭の入り口。

 店の中で旧知の先輩と少々昔話や政治の話を楽しんで帰ってきました。

 また仕事。がんばろう。
 これ、グルメ??。そうでしょう。やっぱり。

由里哀話

2009-07-26 16:41:34 | 昔話
 時代は幕末といったところでしょうか。

 野根山街道の岩佐の関所を預かる木下家の娘由里さんに佐喜浜の大庄屋寺田家の跡取り息子雄五郎さんとの縁談がまとまり、
 岩佐御殿のおゆるさん
 佐喜浜庄屋へ嫁ぐそうな
 若い衆喜ぶ ほういのほい
こんな歌が歌われたそうな。
 
 互いに好きおうた、2人にやがてかわいい男の子が生まれたのですが、由里さんは、ふとしたことからお姑さんとの間で隙間風が吹き始めたのです。そして夫の雄五郎さんが留守の間に里の岩佐に帰されてしまうのです。
 実家の岩佐では何の心配もなく暮らしていたものの、寺田の家に残してきた我が子のことばかりを考えていたのです。思いは重なっても会いにもいけず、そのうち病を得て安政4年(1857年)12月の寒い日になくなってしまいました。

 それから妙な噂が囁かれだすのです。
 由里さんが佐喜浜へ行くのを見たとか、駕篭に乗って川下に下っていたとか・。
 寺田の家の近くでも、下駄の音を夜な夜な聞いたとか、・・まことしやかに巷で話されていたのです。

 それから暫くたってから、雄五郎さんの碁の友人、医師の寺谷伝良さんが、由里さんに出会ってしまうのです。死んでしまった由里さんにです。
 聞けば子供に会いに来たのですが、門前の神札のおかげで家に入れない。
 神札をはがしてくれないかといったそうな。
 不憫に思った伝良さん、お札をはがして、我が家に帰っていったのです。

 それからです。寺田の家では乳児の悲鳴ににた泣き声が響き渡るのです。
 さて、それからのことはわかりません。連れて行ったとも・・。
 由里さんの墓所ハ岩佐の関所のうらにありますが、墓所を後の子孫が他の場所に移そうとしたようですが、雨が降って出来なかったともいわれています。墓に触ると雨が降るともいわれているのです。

 野根山街道には、こんな話しが伝わっています。

 再婚をした雄五郎さんの次女須美さんに面白い話が伝わっています。
 縁談の口が掛かったのです。相手は安芸井口村の岩崎家の長男弥太郎さん。
 岩崎家は地下浪人。寺田の家は大庄屋。寺田の家では家柄が違うとしてこの縁談を断って、須美さんは佐喜浜で一番のお金持ち植村家に嫁ぐのです。

 この話のおちは、弥太郎さんは後年、大三菱の創業者となるのです。
 須美さんは日本一のお金持ちの夫人にはならなかったが、佐喜浜の1番の奥さんになったそうです。 そんな話です。
 

犬が頑張っていたのです。

2009-07-25 09:58:05 | 森林鉄道物語
 軌道を犬が空のトロッコを引いています。犬の仕事だったのです。そんな時代もあったのです。
 この写真、大正5年に撮影されました。

 山奥で切り出された木材をトロッコに載せて、自然の傾斜を利用して、ゆっくり海岸部までおろしていたのです。人間の主な仕事はブレーキをかけること。そのときは犬はトロッコに乗ります。木材の上にちょこっと座っていたのです。

 そして、木材を下ろして空になった台車を山奥まで運び上げるのが、犬たちの役目だったのです。人間が歩くより早かったそうですよ。

 足は太めで長くなく、洋犬と秋田犬や地犬の雑種だったそうです。土佐犬は力はあるが根気がなくて、この仕事には向いてなかったとされています。

 ただ結構経費が掛かったようで、機関車の導入でスピードアップと共に経済効率も改善されたとされています。
大正10年、森林鉄道としては全国では2番目に蒸気機関車がここ魚梁瀬森林鉄道を走ったのです。まだ土讃線にも導入される前の話です。
 
 しかし、トロッコのうえの屈強の男達。かっこいいねえ。

いつも誰かが見ている。

2009-07-25 01:03:32 | 田舎の理屈
 「夕べずっと電気がついちょったねえ。」「何をしよったが??。」

近所のおばさんの挨拶代わりです。

まあ、よく気がつくねえ。

 「何をしゆうが?」

近くの街路樹が大きくなって、邪魔になったので枝を切っている私に発せられた言葉です。

 「どこへ行くが?」

散歩に出るとき、聞いた言葉。

挨拶なのですが、時として気になることがある。

普段はどうでも良いことなのですがね。

 「~~さんが~~らしいねえ。」

噂も大好きです。暇なんだろうか。私はこう思うとは決して言わない。
人の話は大好きなのだ。自分の意見はあまり言わないのです。

おかしいが、現実なのです。
悪意はないのでしょうが、自分のことも噂になっていると思うと、ちょっと気になるときもある。

私が「人のことは、あまり言わないほうが・・」というと

「みんな、言うよ。」
そうか、みんなが言っているから自分が言ってもかまわないのか。

そうしたものらしい。

中岡家の人々

2009-07-21 10:11:02 | 昔話
 そうです。中岡家。北川郷大庄屋中岡慎太郎の家です。

 北川郷大庄屋は藩初以来、北川新左衛門とその末裔が代々世襲をしていたのですが、文政7年(1824年)に長岡郡新改村庄屋に移されたのです。 その後任として吾川郡八田村庄屋中岡要七が北川郷に赴任してきた事から中岡家による北川大庄屋の歴史が始まるのです。中岡家は代々土佐郡領家の大庄屋を延宝6年(1678年)以来勤めていたのですが、三代平助に後継者が生まれなかったことから、廿代町庄屋寺石正道の三男要七を養子に迎えており、長岡郡上倉郷庄屋等を歴任していたのです。

 中岡要七の子が小伝次。中岡慎太郎は天保9年(1838年)小伝次の長男として生まれるのです。
 慎太郎には姉が3人いるのですが、長女縫は岩佐の関所に勤める川島総次の妻となりますが、総次は野根山屯集に参加し23士の1人として殉死します。さらに次女京は縁戚の源平を養子に迎え、家督を継ぐことになります。源平は明治になってからも北川郷長となり庄屋職をまっとうします。
三女かつは北川武平次に嫁ぐのですが、武平次は剣の達人で数々の伝説を残しているのです。維新戦争に従軍したあと帰省し警官となります。かの佐賀の乱で敗れた後、土佐に逃避していた江藤新平を捕縛したとされています。

 中岡慎太郎は脱藩以後、討幕運動に参加し、京都において坂本龍馬と共に惨殺されてしまうのです。これはおなじみの話です。
 さらに、慎太郎のその後の系譜は中岡本家を相続した源平の長子代三郎(照行)が家督を継ぎます。妻 兼さんとの間には子が出来なかったのです。

 大庄屋中岡家の仕事振りはというと、数多く伝えられているのですが、数字を挙げましょう。
 元禄13年(1700年)の北川郷の地高は383石9斗7升なのに対して、明治3年(1870年)には1520石2斗4升となっています。

 貧しさからの脱却を目指して、新田開発を推進していたのです。
 苗字帯刀を許されていた中岡家は、地元でも大きな信頼を得ていたのです。

 残念ながら中岡家の末裔達は、今は北川村には住んでいません。
 

田舎の理屈

2009-07-20 11:09:12 | 田舎の理屈
 土曜、日曜は高速道路が1000円になるらしいねえ。」って言っても、高速道路がないのですから、関係ないのです。
 便利な道路が先に出来て、発展を続ける場所があるのですが、いまだ何にもないところもあるのです。ないってことは、いらんがやないがあ??。

 そんなことはない。高知県東部地域だって、利便性だけでも確保できればきっと変われると思うがね。
 移動に関する時間と経費が最も多く掛かるってことが問題になるのです。
 流通に関する経費が余分に掛かるって言うのは、企業にはしんどいしねえ。

 景気がえいねえ。」って時も高知県の田舎には関係ないね。
 どうも不景気。」って時は真っ先に「いかんねえ。」が先に来る。

 人間の数が少ないのは「悪なのか」
 どうもそんな気がしてきた。

 少ないと、出来ないでしょう。無理でしょう。いかんがよ。しょうがない。
 そんな言葉がいきかいますが、そんなことはない。

 田舎は地価は安いし、空気はきれい。ゆっくり暮らすには田舎が良いのです。

 ただ、不便は困る。ナントかせんとイカンね。

 燃料と食料の100%自給エリア」目指したいねえ。
 新しい生活文化提案です。

 地域活動は地域間競争だと思っているのですが、競争は同じルールでやらないと戦う前から結論が見えてしまう。
 基盤整備が出来ているところと、そうでない所が競争するってのはしんどいね。
 違うルールを導入しないとね。

都会の常識

2009-07-19 22:28:52 | 田舎の理屈
 都会の常識から言うと道路なんかはこれ以上いらないらしい。予算を組む必要も感じられないようだ。

 税金をいくらつぎ込んで、その地域がどの様になるか。その変化が予算の額に見合うかといった論争です。

 ドウセ道路を作っても変わらないだろうし、無駄なことはしなくても良いでしょう。その様にいっているのです。
 高知県でも以前、前橋本知事が東部計画を立案、検討すること自体を止めようとしたことがあります。結果として止めてしまいました。

 理由は、計画策定に予算を使っても、出来上がった計画をどうせ実行しないのでしょう。
 「やらない計画は立てる必要はないでしょう。」

 さらに、高知県東部地域からは、東部計画策定中止にかかわる反対運動は起きませんでした。

 田舎は我慢をする。都会は、やりもしない前に結果を想像して結論を出す。

 そして、地域間の格差は広がってゆく。

 もうそろそろ、田舎も自己主張をやりましょう。

 自然が豊かで良いですね。・・・・開発がされなかったんです。

 空気がきれいですね。・・・自動車が少ないですからね。

 つい、僻みっぽくなりました。

 効率だけでは、田舎は何も出来なくなってしまうんですよ。

 今日はそんなことばかり考えていました。