ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

中岡家の人々

2009-07-21 10:11:02 | 昔話
 そうです。中岡家。北川郷大庄屋中岡慎太郎の家です。

 北川郷大庄屋は藩初以来、北川新左衛門とその末裔が代々世襲をしていたのですが、文政7年(1824年)に長岡郡新改村庄屋に移されたのです。 その後任として吾川郡八田村庄屋中岡要七が北川郷に赴任してきた事から中岡家による北川大庄屋の歴史が始まるのです。中岡家は代々土佐郡領家の大庄屋を延宝6年(1678年)以来勤めていたのですが、三代平助に後継者が生まれなかったことから、廿代町庄屋寺石正道の三男要七を養子に迎えており、長岡郡上倉郷庄屋等を歴任していたのです。

 中岡要七の子が小伝次。中岡慎太郎は天保9年(1838年)小伝次の長男として生まれるのです。
 慎太郎には姉が3人いるのですが、長女縫は岩佐の関所に勤める川島総次の妻となりますが、総次は野根山屯集に参加し23士の1人として殉死します。さらに次女京は縁戚の源平を養子に迎え、家督を継ぐことになります。源平は明治になってからも北川郷長となり庄屋職をまっとうします。
三女かつは北川武平次に嫁ぐのですが、武平次は剣の達人で数々の伝説を残しているのです。維新戦争に従軍したあと帰省し警官となります。かの佐賀の乱で敗れた後、土佐に逃避していた江藤新平を捕縛したとされています。

 中岡慎太郎は脱藩以後、討幕運動に参加し、京都において坂本龍馬と共に惨殺されてしまうのです。これはおなじみの話です。
 さらに、慎太郎のその後の系譜は中岡本家を相続した源平の長子代三郎(照行)が家督を継ぎます。妻 兼さんとの間には子が出来なかったのです。

 大庄屋中岡家の仕事振りはというと、数多く伝えられているのですが、数字を挙げましょう。
 元禄13年(1700年)の北川郷の地高は383石9斗7升なのに対して、明治3年(1870年)には1520石2斗4升となっています。

 貧しさからの脱却を目指して、新田開発を推進していたのです。
 苗字帯刀を許されていた中岡家は、地元でも大きな信頼を得ていたのです。

 残念ながら中岡家の末裔達は、今は北川村には住んでいません。
 

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