夜噺骨董談義

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養老之瀧之図 寺崎廣業筆 明治22年作

2024-05-22 00:01:00 | 掛け軸
本日紹介する作品は寺崎廣業の作品ですが、寺崎廣業が画家として名を挙げる前のまだ若い頃の作品です。寺崎廣業の作品では年季を記されている作品は数が少ないのですが、若い頃の作品には割と多いようですね。



養老之瀧之図 寺崎廣業筆 明治22年作
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱入
全体サイズ:縦2150*横805 画サイズ:縦1345*横655



寺崎廣業は家老の家に生まれていますが、幼い頃から貧しく苦労人であったようで、そのため努力によって画家として大成したとされています。



寺崎廣業は「養老之瀧」を題材にした作品を晩年においても描いていますが、古くから他の画家らも描いた題材ですので、粉本をよく描いていた修練の時代に修得した題材でもあったのではないかと推定しています。



題材としている「養老之瀧」は下記の逸話をもとに描かれています。

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養老孝子:美濃の国に、源丞内(げんじょうない)という貧しい若者がいました。丞内は、老父を家に残して山へ「まき」を拾いに行き、それを売って米や父親のための酒を買うのが日課でした。老父は、目が不自由で日々酒だけが楽しみでした。ある日、丞内が山の中で転んで眠ってしまったところ、夢の中で酒の匂いがしました。目がさめると、香り高い酒が湧き出る泉がありました。丞内は喜んで、老父にその酒を与えました。すると老父の目が見えるようになるではありませんか。酒の泉は、不自由な体を直すということで有名になりました。それが帝の耳に達し、親孝行の丞内は、美濃の守に任ぜられました。

*別の説:霊亀3年(717年)、奈良朝元正女帝は、この地を訪れ霊泉で体を洗われると、ご病気が全快しました。帝はこれをお喜びになり、年号を養老と改めました。この話はあまりにも有名になり、各地でこの逸話にちなんで「養老の瀧」と名付けられています。
         
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この逸話を題材にした作品は古今の画家が好んで描き、寺崎廣業が修業時代にもその絵を見ていたのでしょう。



そのような作品をもとに描かれた作品ではないかと思われますが、この頃の作品は一般に大幅の作品が多いのですが、本作品もかなりの大作となっています。



画家として大成してからは多作となり、市場に流通している作品の多くは多作の時代の作品のようです。寺崎廣業の力作や佳作は展覧会への出品作に限られ、かえって若い頃の作品のほうが市場では人気があることもあります。

表具材はかなり良いものとなっています。



本作品は寺崎廣業の年号の記された貴重な初期の作品ですが、この頃の画歴は下記の通りです。

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放浪の画家といわれた寺崎廣業は慶応2年(1866年)久保田古川堀反(秋田市千秋明徳町)の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれています。寺崎家も藩の重臣でした。父の職業上の失敗もあって横手市に移って祖母に育てられています。

幼児から絵を好みすぐれていたというが貧しく、明治10年(1877年)には太平学校変則中学科(現秋田県立秋田高等学校)に入学するも一年足らずで退学しており、10代半ば独り秋田に帰り牛島で素麺業をやったりしたそうです。秋田医学校にも入学しましたが学費が続かなかったとされています。

結局好きな絵の道を選び、16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門し、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印したが、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になっています。

生活はようやく安定しましたが絵への心は少しも弱まらなかったようです。寺崎廣業には2人の異父弟佐藤信郎と信庸とがいましたが、東京小石川で薬屋を営んでいた信庸のすすめで上京します。1888年(明治21年)春23歳のことです。

*本作品はこの頃の明治22年の作。

上京すると郷里出身の画家である平福穂庵、ついで菅原白龍の門をたたきました。広業は4か月でまた放浪の旅に出ましたが、穂庵のくれた三つの印形を懐中にしていたとされます。

足尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった守田兵蔵と再会し、紹介されて日光大野屋旅館に寄寓し美人画で名を挙げることになります。1年半で帰郷し穂庵の世話で東陽堂の「絵画叢誌」で挿絵の仕事をし、ここで諸派名画を模写し寺崎廣業の総合的画法の基礎を築いたとされます。1892年(明治25年)に結婚し向島に居を構えていましたが、火災に遭って、それまでの修行してきた粉本を焼失し、一時は長屋暮らしをしたこともあったようです。

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「明治己丑(つちのとうし、きどのうし、きちゅう)」という 落款から1889年(明治22年)に描いた作品と判断できます。23歳の時の作品で、「秀斎」という号から「廣業」の号に移行(もしくは「秀斎廣業」)した頃と推定され、ちなみに明治25年の結婚後はさらに一時期「宗山」という号と使っています。



挿絵を描く中で美人画で名を上げ、明治22年(1889)同郷の平福穗庵の紹介により入社した東陽堂では古画などの縮図を描き、腕を磨いていた頃の作品であり、とても貴重な作品となります。

なおこの頃に描いた縮図は直後の火災の被災ですべて失ったとされていますが、当方には「和漢諸名家筆蹟縮図 寺崎廣業筆 全三巻」(本ブログに投稿済)を所蔵しています。

和漢諸名家筆蹟縮図 寺崎廣業筆 全三巻
水墨淡彩巻物三巻 鳥谷幡山昭和29年鑑定箱入二重箱 
各サイズ:高さ283*長さ畳4畳分/巻


 
この作品も今となっては非常に貴重な作品であろうと思われます。



いつの日にか公表する機会があればと考えています。
















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