夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

三保の松原富嶽図   狩野了承筆

2013-07-17 05:13:03 | 掛け軸
東京のOB会でも大阪のOB回でも「富士山」という文部省唱歌を唄いましたが、ベランダから富士山が見えるますが、海辺からの松林越えの富士山には憧れにも似た感情を抱きます。

三保の松原富嶽図   狩野了承筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱 
全体サイズ:縦1362*横695 画サイズ:縦468*横670




落款に「狩野了承行年七十六歳筆 印(「賢」「信」の朱文白方印の累印)」とあり、1844年
(天保15年、弘化元年)の頃の作品である。



富士山が三保の松原とともに世界遺産となった今ほど本作品ような景色がもてはやされる時はあるまいと思います。





実にのどかな風景を謳いあげています。潮干狩りの人々をのびのびと描いています。



狩野了承(かのうりょうしょう):1768~1846。山形県酒田市に生まれ、江戸に出て狩野派に所属した絵師。実力を認められ、狩野派の最上位である「奥絵師」4家に次ぐ15家の「表絵師」のうちの1つ、深川水場狩野家の当主となる。了承賢信という。

狩野了承の詳細は当方の資料不足により不明ですが「将軍姫君の御用絵師として活躍」という一文がインターネット上に見受けられます。年代的には第11代~12代将軍ということになりますので、残念ながら篤姫ではないようです。

推測ながら、第12代将軍家慶は第11代将軍父家斉の死後に庄内藩などに対する三方領知替えの中止を決断していますが、このことは彼の出身地酒田であることから、将軍に感謝したのではないかと思われます。



日本の題材をやわらかな線で描いたやまと絵を得意とし、他の流派との交流がきびしく禁じられた狩野派の「表絵師」にありながら、華やかでデザイン性のある琳派(りんぱ)の影響を強く受けた絵画も制作しているとのことです。





山形県酒田市に生まれた了承は、江戸に上り、画を鍛冶橋狩野家の探信守道に学び、画才を認めた深川水場狩野家梅笑師信の養子となり、その没後家を継ぐ。初め信川、名を賢信といい、享和二年1802年に了承と改名しています。




了承は、画師の狩野探信守道が大和絵に巧みであったせいか、大和絵が多く残されており、装飾的な彼の好みは、琳派の画風を取り入れ狩野派の絵師という範疇からはかなりはみ出た画風のようです。




このようにのびのびと民衆の生活を描いた作品は狩野派には珍しくそのような意味でも貴重な作品といえます。




軸先が片側が無くなっており、また本体の生地が固くなって折れがひどいので改修が必要です。山形から出でて狩野派の当主となった人物はかなり稀有のように思えます。同じ東北からの出ということも購入の動機です。


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