はばかりさま

日常生活など諸々の自己満足日記、
マイブームは「スウィンギンロンドン60'&昭和40年代」です。

図書館本 廓正子 「なにわ華ものがたり 中川絹子 桂米朝と一門を支えた半世紀」

2015-04-18 | 
廓正子「なにわ華ものがたり 中川絹子 桂米朝と一門を支えた半世紀」 淡交社刊 200407

産経新聞夕刊に連載されたものをまとめたもので、
大阪・天満菅原町の乾物問屋に生まれた桑田絹子(後の桂米朝夫人)。
昭和十五年、周囲の猛反対を押し切ってというよりも、
宝塚歌劇団に合格した生徒がいてファン同士の対抗心から、
上級生が勝手に応募してしまい受かる筈がないと思っていたOSSK(大阪松竹少女歌劇団、のちのOSK)に合格。
舞台名を駒ひかる、ダンスが得意で上級生の京マチ子のバックで踊ったことなど、
当時の写真が掲載されてあり、華やかな大大阪時代が垣間見られます。
しかしこの時代についてはあまり頁を割かれておらず残念です。

戦時中は慰問をしたりできちんと退団手続きをしないままに退団。
戦後、「駒ひかるとミリオンショウ」というグループ(ダンサー数人と)で
各地をドサ回りしているうちに家付き娘で10歳下の絹子の母に入り婿した
(絹子が帰って来る時は遅くともずっと待っていた優しい)父親の急逝。
その後、ドサ周り中に出会った無名の(若き日の)落語家桂米朝こと中川清との出会い、
それがいつの間にやら交際…。この部分だけでも朝ドラになるお話です。

桂米朝は実家は姫路の九所御霊天神社の神主の家系で旧制姫路中学後、
大東文化学院へと進んでいたが敗戦で大学を中退、会社員になり落語や上方文化を研究、
が、正岡容に上方落語の危機を訴えられて、落語家になる。
昭和29年に出会い、4年後に結婚。両人とも33歳と当時としてはかなりの晩婚。
新婚当初から、内弟子として1人目、奇人の桂枝雀、2人目、野人の朝丸(現、ざこば)と同居。
枝雀の死去(自殺)については記載が少なく、10何人かの弟子について今はこうしてる
ああしてるなどが書かれてるくらいで、枝雀で落語を知った私としては、すごく淋しい。
長男は桂小米朝(今の米團治)として落語家に、双子の次男三男は兵庫県庁に勤務の公務員と堅気の職。
幼少時の写真、婚礼の写真が掲載されていますが、本当に3人とも男前ですね。

脳梗塞になられて以来、(転倒して骨折、再度の脳梗塞などで)入退院の報道を聞くたび
大丈夫かなと思ってましたが…とうとう…。
2014年にパーキンソン病を患われていた奥様が心不全でお亡くなりになり、
車椅子姿で見送られた米朝さん、2015年3月19日に89歳でお亡くなりになられました。

ラジオ大阪で「ありがとう米朝さん 落語特選」を4月10日(金)午後7時~5月15日(金)午後8時に放送。
10日は、犬の目、骨つり
17日は、つぼ算、池田の猪買い
25日は、鹿政談、皿屋敷
1日は、宿屋仇 
8日は、桃太郎、阿弥陀池、除夜の雪
15日は、風の神送り、天狗さばき
 
声が若い!
私が桂米朝と聞いて、思い浮かべるのは「味の招待席」ABCテレビ(TV朝日系列)
1980年~1992年まで放送されていたミニ番組。
サントリーの提供番組で、(日本料理のお高い)お店を紹介して、
ささっとできる態でお料理のレシピを上品な上方言葉でしゃべってましたっけ…。
スーツと思ってましたが、タキシード(wiki参照)でしたか!
上品なだんさんでした…(´;ω;`)
ご冥福をお祈り申し上げます。


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