寺子屋に見る日本の美しく崇高な民族性
自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」
【21】
-それでも私はなぜ出馬するのか- 西川攻著
第四章 めざせ!教育立国日本
2・寺子屋に見る日本の美しく崇高な民族性
読み、書き、算盤を軸として,一般の子女に広く門戸を開いていたに唯一の学習所であった寺子屋の存在は重要です。
明治維新のとき、世界一の文化国家イギリスであっても教育機関に通った経験者は男子の25パ-セントに対し、日本のそれは実に40パ-セントが寺子屋等の教育機関に通っていた訳です。
日本には衣食を減らしても子弟を学校に通わせる習慣が古くからありました。
その格好の機関として寺子屋が見事のその役割を果たして来たと言えます。
おそらくそこでは知育だけでなく、徳育も為されていたと推測できます。
学問が言葉の技術を修得するものではなく、世を救い人を生かす聖学です。
礼を以って之に向かわなければならないという心組みが自然と無理なくかたちづくるられる環境にあったと言えます。
日本は、宗教やキリスト教よりも教育そのものが神格化されされるだけの進取の伝統が深く根付いていた感がありました。
さらに島国であったがゆえに取捨選択という判断を主体的に為してきたという素晴らしい実績が逆に国内の徳育・知育といった内面の充実を齎す余裕をつくりだしたといえます。
周囲を海に囲まれ、農耕を軸として限定された行動半径の中に閉じ込めれた日本人が、
勤勉さをフルに発揮し細かいことまで考えて工夫することの素晴らしさと知恵を否応無く練磨し修得するに至ったわけです。
仮に寺子屋といった制度が無かったら,日本民族の今日の繁栄と今後の発展の可能性は皆無であったと考えられます。
それだけに教育とはとてつもない、何物にも代え難い、ものであることを我われは、正しく把握する必要があります。
そして、その道を切り開き、極め、無数の人材を輩出し続け、果たした先人の功績はあまりにも偉大という他ありません。
それに比較し現在の教育制度そのものが、いま時代の大変革期、転換期の現状にあっても未だに歴史の残滓から脱皮できておりません。
官僚統制的行政に固執する習癖を温存している姿と、それを抜本的に刷新できない政治家不在を痛感しない訳には参りません。
今の無能政治家の不作為によって惹起されている無数の政治的人災責任の顛末を明確にすべきです。
永田町の廃頽堕落ぶりと、その場しのぎの彼らのやり口は、限界を遥かに超えています。
人物が画一化されその弊害が出ているにも拘らず、なんらメスを入れずして今このときを無駄に過ごしている惰性の行政・政治を、今こそ断ち切らなければなりません。
そうしなければ、折角、先人が残した日本民族の素晴らしさと誇るべき特質が、底力が、希薄となり、ついには消滅しかねません。
内外両面にわたり現状は極めては微妙な情勢にあることを、しかと認識しなければなりません。
少なくとも明日を見据え、今日を勇気を持って行動する人物は政・財・官を見ても見当たりません。
之は深刻な問題です。
歴史的に見て和魂洋才に対面し、之を経過するに至り、今日再び徳・魂の教育が全てに優先することを、海外に向けて打ち出し世界に発信すべき時です。
日本が海外に誇れる寺子屋の存在が齎した成果を広報し、
その必要性と後世にとっても世界各国にとっても意味があることを認識させる必要があります。
さらにこれらの創設の場合には日本は教育大国としてできる限りの援助を怠るべきではありません。
今一番大切なことは"教育の重み"が経済と軍事力にも優先する。
そのことを歴史的に欧・米・露はもとより発展途上国を含めた全世界に証明することです。
その活動こそ、世界が教育大国日本に求めているものであります。
同時に、これは今後日本が歩むべき道であるような気がしてなりません!
平成24年3月10日西川攻(さいかわおさむ)でした。
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