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自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」<31> --それでも私はなぜ出馬するのか--  西川攻著

2012-03-25 13:38:25 | ● 改訂 日本海時代の首都実現に燃えて

夜遅く酔って帰宅するヒゲ親父

 

 

第六章 (回想記 イ )

  3歳で覚えた芸者ワルツ   

       ・1・ 

        保育所卒園式、父と一緒に。

 

 

 

自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」

            <31> 

--それでも私はなぜ出馬するのか--   西川攻著

 

 

 

 

第六章 (回想記イ)三歳で覚えた芸者  

     ワルツ

 

       

    1・夜遅く酔って帰宅するヒゲ親父

 

 

 

 

 

 

 私は六人兄弟の末っ子として、広島原爆投下の昭和20年8月6日に生まれました。

母は中2のとき、父は大学卒業の時に既に他界しています。

 特に今でも鮮明に覚えているのは、父善吉の外づらが極めてよく性格の豪放磊落差と、ひたすら家業と家庭を支え黙々と働き続けた母ユキの対照的な姿です。

 私が物心ついたころの父は毎夜タクシ-で深夜酔って帰宅し、必ず小さな折り箱を体裁のごとく土産に持参しました。

 時には芸者衆が車に一緒に乗ってきたことも少なくなかったです。

 また、私が保育所から帰ると奥の座敷で、早々と他の市会議員に芸者衆も交えて、昼間から酒が入ってのドンちゃん騒ぎ、このようなことはしばしばででした。

 家族の中でその席に居れたのは確か私だけであったような気がします。

 小さかったせいもあり、親父の膝や芸者の膝に座り、結構かわいがられて時には笑いの中心になり楽しかった記憶が残っています。

 そのときの燗をした酒の匂いと芸姑の化粧の香りは、いまだに忘れられません。

 その席で父は決まって芸者ワルツを唄っていたのでいつのまにか自然に覚えてしまいました。

 爾来、長い年月が経過、最近ではなぜか、カラオケで当時を懐かしさのあまり芸者ワルツを唄うことが多くなりました。

 それだけ過去のことが思い出されるのは相応の年をとったせいかも知れません。

 然し、今は余りに忙しさや色んな関わりの中に取り組まれ、慌ただしく日々が瞬時に過ぎていくような気がします。

 自分の空間と時間を創るようにしなければ大切なものと向き合わないまま生涯が終わってしまう感、無しとしません。

 本編が此処で、第6章から8章にも亘って回想記に頁をあえて設けたのもこの点を留意したからです。

 要するに、先天的・後天的素質が環境の中でどう対応しプラスにしたかマイナスにしたかを想起・確認・分析・検証し、人生の集大成に向けてより優れた戦略と意欲的な心組みを育まんとする狙いがあってのことです。

 私の子供のころの母親は常に働き尽くめで、一度たりとも寝姿を見なかった気がします。

 敗戦直後を反映してか家族のみんなが力を合わせ、できることは子供でも分担して互いに協力、努力していました。

 男の兄弟はそれぞれ庭の掃き掃除と廊下の雑巾がけを毎日交代で手伝いました。

 食事のときは全員一つの座卓に着いて母や姉が給仕をし、極めて整然としていました。

 とくに大晦日の夜はどこの家でも出来る限りのおせち料理をつくり、その日ばかりは保育園児の私も公然とお酒を飲むことが許されました。

 そのときのうまかった酒の味は、今でも忘れ難いものがあります。

 しかし残念なことに、当時から口喧しい姉たちに、

"攻、いいかげんにせや!”

と一喝され、しぶしぶと未練がましく杯を置くのが毎年恒例でした。

 それだけに日中帰宅し、奥の座敷でドンちゃん騒ぎで芸者ワルツの親父の声が聞こえると一目散で座敷に駆けつけ、

正座をしてゆっくりと戸を開けると、みんなほろ酔い気分で陽気そのものです。

その際は決まって必ず手で招きいれられたものです。

 そこで一緒に宴会に最後まで加わっていたものです。

 但し、その場の席に於いては、私は、酒の一滴も、料理も口にした記憶はありません。

 人をもてなす場合の家族の心組みや規則等が躾として暗黙のうちに家族全員に徹底されていたように思えます。

 宴会が終わるまで、母も料理を作ったり燗をつけたり,他のものも之を手伝ったり、もてなしていたようです。

 なんとなく同世代の連中といるよりも、自宅での宴席にいた方が面白さが強いとの感を抱いたものです。

 私事ながら、

母を必要とするときに母をなくし(中2)、

父を必要とするときに父をなくし(大学卒業の2月)

たが故の

「親子の宿命的な大切なひと時であったのでは・・・。」

と思える昨今です。

 昔の市会議員は、人物や地位も力も今のそれとは格段と異なりかなりの社会的評価があったと言われております。

 スケ-ルも大きく、度胸も据わっている人が多くそれだけに宴会が日常茶飯事であったとされております。

 当時は男は外ではばたき、女は家を護るのが男らしさ・女らしさの特質に基づく表れであるとの常識があり、大抵の妻は夫第一に考え、あくまでも献身的でした。 

 我が家もその例に漏れず一般から見れば多少賑やかではあったが平和な一家として幼児期を送ることが出来たことは、両親に心から感謝しなければならないと思ってます。

 

 しかし次第に選挙という試練が少しづつ家庭の崩壊を招き、

 駆け引きや商売下手な父からその素晴らしい太っ腹な心と人情が寧ろ仇となるような場面に遭遇してゆくことになる訳です。

 戦後復興の機運と共に次第に金万能の世相が強まってゆくこととあいまって、

 父のような一本木な人情家は台頭するのが難しい時代へと突入していったのです。

 

 

 

 

平成24年3月25日

西川攻(さいかわおさむ)でした。

 

 

 

 

 

 

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