軌道エレベーター派

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君に「心」はあるか

2013-12-01 20:50:47 | その他の雑記
 キムタク主演のドラマ『安堂ロイド』が放映中です。全話観たわけじゃないですが、「日本のTVドラマ」で「SF」の「オリジナルストーリー」としては結構頑張ってると思うのは私だけでしょうか? で、先日この番組で本田翼ちゃんがキムタクに「感情のプログラムをインストール」するシーンがあったのですが、「いやそれは感情があるかのように振る舞うプログラムだろ」とツッコんでしまいました。ついでに言うと未来のアンドロイドのくせしてインストールもデータのロードも遅すぎだろ。そんなわけで、次回更新内容にも少し関係することもあり、今回は感情=心の問題について少々。

 自分以外の人間に「心」はあるのか? あるに決まってるじゃないかと思われる方も多いでしょうが、実はそれを証明する術はない。なおここで言う「心」とは、「感情の起伏を伴う、自らを外界と区別して認識する働き」と定義します。「自我」「自意識」「魂」「感情」「精神」などと言い換えることも可能です。とにかく何かを「思い」「感じ」、何らかの「気分」を有する内的現象と考えてください。

 私は猫を飼っていて、遊んでやるとはしゃぎ、叱ればションボリし、お腹をすかせると甘えてくる。心があるようにしか見えないのですが、実体は脳というハードウエアで走る、単なるプログラムの対外反応に過ぎないかも知れず、両者を区別する方法はない。残念ながら、私の行為は猫に自分を投影しているに過ぎず、期待や信仰の域を出ていないのが現実です。
 そしてこれは人間にも当てはまります。心は脳の電気的・生化学的反応の副産物であり、高度に複雑化した生命維持機能のオマケに過ぎない。そのオマケの表面的な活動は、複雑な対話であっても極めて単純な二進法的演算の集積で模倣可能だそうです。そして人間の意識が脳の器質から分離して存在しえないことは、以前にも述べました。ゆえに私たちは、自分が「水槽の中の脳」(この世界の実在を証明できないというパラドックスの一つ。映画『マトリックス』で、薬を飲む前のキアヌ・リーブスが置かれていたような状況)であるかどうかさえわからない。つまり、

 (1) 心と同様のリアクションは人工的に再現できる
 (2) 心は脳から切り離せない(外部から注入できるようなものではない)
 (3) 従って、心があるかどうかは自分にしかわからない(他人には本物の心とプログラムによる模倣の区別がつかない)

ですから、キムタクにプログラムをインストールしなければ感情が宿らないというなら、それは本当に単なるプログラムでしかない。キムタクのボディに本物(?)の感情を有するキャパシティがあるなら、インストールせずとも自然発生するはずです。インストール後に情緒を獲得したかのような変化は見せかけであり、単なる情報処理のアウトプットでしょう(ただし、すでに心があっても「感情とは何か」を経験則で知らないので、それを学習するプログラムであるなら別ですが)。

 もちろん合理的に考えれば、他人も自我を持っていることや、自分が水槽の中の脳ではないだろうということは、高い蓋然性があるとは思います。だってね、仮に私が水槽の中の脳で、私の見聞きする世界はすべて幻だったとして、私の脳味噌にきゃりーぱみゅぱみゅのにんじゃりばんばん聴かせて誰が得すんのかと。自分だけ特別な存在だなんて自意識過剰もいいとこですわ。
 しかし証明はできない。自分に心があることは、自分自身の心が感じ取れますが、他人の中に同じものあるかどうかは憶測の域を出ません。これは相当科学が進んでも解明困難じゃないかと思います。 
 これは『胡蝶の夢』のような物語からデカルトの哲学、チューリングテストや「中国語の部屋」(どちらも知性を機械的に模倣できるという思考実験)まで、昔からの議論のテーマであり、新しい観点ではありません。それに「この世は自分以外、全部虚構なんじゃないか」というのは、思春期の青少年にとって通過儀礼的な思考でもあって、あなたも一度くらい考えたことありませんか? 多感な時期の妄想として自然に卒業したでしょうが、妄想だという証拠はないのだ! 私たちの心は死ぬまで孤独です。

 しかしながら、学術的重要性とは別に、それは大したことじゃないです。自分以外の人間が全員オートマタや虚像だとしても、相手に心を「感じる」のは、あくまでこっちの問題だからです。それに、孤独だから他者の心に想像力を及ぼし、理解しようと努力するわけで、他者に心が宿っていようがなかろうが、こちらが生き方を変えて大切なものを陳腐化させる必要はないということです。
 私はこのブログ中で「心がある」という表現をたまに使います。科学的に見たら、心と呼ぶ機能を相手が必ず宿しているかどうかは不明だけど、それににかかわらず、こっち側の心が、相手の温かみやシンパシーを感じるから「心がある」と書く。科学的な見解の話ではないですから、心のある人なら、その辺の区別ちゃんとつくよね?

 最後にまた安堂ロイドに戻りますが、「あいつはロボットなんだぞ」とか言われながらも、柴崎コウ姐さんは彼を受け入れようとします(なんかキムタクにはもともと心があるっぽいんですが)。他者の心の実在が不明な以上、これは私たちが現実世界でやっていることと、まったく何の変わりもありません。
 彼女は正しい。相手の心を感じ、重きを置く心を自分が持っていることは、誰に証明してもらう必要もない。この事実の方が、相手に心があるかどうかよりも比べようもなく大事だ。他者に心があるかどうかは、とりもなおさず自分が、自身の内にいるその人に心を宿らせられるかどうかにかかっているのです。

 。。。なんて書いた後にきょうの放送観たら、キムタク初期化されとった (´・ω・`)

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