5月31日(土)
当日の行程:(京阪出町柳駅) → 【京都御所】 → (タクシー) → 【三十三間堂】
三十三間堂(国宝)
三十三間堂は、修学旅行の学生たちで賑わっていた。
本堂の1001躯の千手観音像が迫り来るような感覚に襲われる。
どう表現すればよいのだろう、
時空の感覚が分からなくなるというか、何というか……。
圧倒されたのは、その数だけではない。
1躯1躯を拝めば、どれも同じものはなく、その都度べつの感動を覚えるのだ。
風神像と雷神像もよかった。
立体であるせいか、「風神雷神図屏風」よりも、もちろん、かぜに「改源」の風神さんよりも畏ろしい。
また、千手観音像の前列と中尊の四方に安置された二十八部衆像は、躍動感あふれていた。
柱をかぞえると、34本。
あれ?と思ったが、柱の間が33なのだから合っている。
後白河上皇院政庁「法住寺殿」址碑 法然塔
後白河上皇は法往寺殿で院政を敷いて、事実上の権力を保持していた。
蓮華王院は、長寛2年(1164)、法往寺殿の一画に平清盛が建立したのがそのはじまり。
拝観受付を過ぎるとすぐに、この址碑がある。
右の写真は、土御門天皇が後白河法皇の十三回忌を行った際の、法然の遺業を称えた法然塔。
夜泣せん(「せん」は「酉」偏に「泉」)
太閤塀
水の湧き出す音が人の泣き声に似ているということから、「夜泣せん」と呼ばれるようになったとのこと。
子どもの夜泣き封じに功徳があるらしい。
太閤塀は、豊臣秀吉が寄進した塀。
塀の上の瓦には、太閤桐の模様が施されている、はずなのが、あぁ、写っていない。
三十三間堂の正面
「通し矢」の射場
江戸時代には、三十三間堂の西縁の南端から北端まで、24時間、矢を射続ける競技が盛んであったという。
現在でも、1月中旬に「通し矢」にちなむ「大的大会」が行われているそうだ。
講堂の中尊の前では、仏前結婚式が挙げられていた。
仏前結婚式は初めて目にした。
珍しかったので、しばらく見入ってしまった。
蓮華王院(三十三間堂)の御朱印
当日の行程:(京阪出町柳駅) → 【京都御所】 → (タクシー) → 【三十三間堂】
三十三間堂(国宝)
三十三間堂は、修学旅行の学生たちで賑わっていた。
本堂の1001躯の千手観音像が迫り来るような感覚に襲われる。
どう表現すればよいのだろう、
時空の感覚が分からなくなるというか、何というか……。
圧倒されたのは、その数だけではない。
1躯1躯を拝めば、どれも同じものはなく、その都度べつの感動を覚えるのだ。
風神像と雷神像もよかった。
立体であるせいか、「風神雷神図屏風」よりも、もちろん、かぜに「改源」の風神さんよりも畏ろしい。
また、千手観音像の前列と中尊の四方に安置された二十八部衆像は、躍動感あふれていた。
柱をかぞえると、34本。
あれ?と思ったが、柱の間が33なのだから合っている。
後白河上皇院政庁「法住寺殿」址碑 法然塔
後白河上皇は法往寺殿で院政を敷いて、事実上の権力を保持していた。
蓮華王院は、長寛2年(1164)、法往寺殿の一画に平清盛が建立したのがそのはじまり。
拝観受付を過ぎるとすぐに、この址碑がある。
右の写真は、土御門天皇が後白河法皇の十三回忌を行った際の、法然の遺業を称えた法然塔。
夜泣せん(「せん」は「酉」偏に「泉」)
太閤塀
水の湧き出す音が人の泣き声に似ているということから、「夜泣せん」と呼ばれるようになったとのこと。
子どもの夜泣き封じに功徳があるらしい。
太閤塀は、豊臣秀吉が寄進した塀。
塀の上の瓦には、太閤桐の模様が施されている、はずなのが、あぁ、写っていない。
三十三間堂の正面
「通し矢」の射場
江戸時代には、三十三間堂の西縁の南端から北端まで、24時間、矢を射続ける競技が盛んであったという。
現在でも、1月中旬に「通し矢」にちなむ「大的大会」が行われているそうだ。
講堂の中尊の前では、仏前結婚式が挙げられていた。
仏前結婚式は初めて目にした。
珍しかったので、しばらく見入ってしまった。
蓮華王院(三十三間堂)の御朱印