大倉草紙

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【京都】 清閑寺

2008年06月04日 18時24分38秒 | 旅 - 京都府
6月1日(日)
当日の行程:(JR京都駅) → (自転車) → 【教王護国寺(東寺)】 → 【西本願寺】 → 【東本願寺】【清水寺】 → 【地主神社】【六條天皇清閑寺陵・高倉天皇後清閑寺陵】 → 【清閑寺】【法観寺(八坂の塔)】【東山慈照寺(銀閣寺)】【京都府京都文化博物館】【京都タワー】



清水寺の子安の塔の裏手に、「歌の中山 清閑寺 徒歩5分」の看板を見つける。
徒歩5分ならと行ってみることにした。
実際には10分近くかかっただろうか。
けれど、ちっとも苦にならない。
むしろ、清水寺の雑踏から離れることができて気持ちがよかった。
「歌の中山」というのは、清水寺と清閑寺の間の山路のことを指すらしい。
自然の美しさに恵まれたこの山路が、古今の歌人の歌心を刺激したのもよくわかる。


    
                    参道

       
              
        六條天皇清閑寺陵・高倉天皇後清閑寺陵

途中に、六條天皇清閑寺陵・高倉天皇後清閑寺陵があった。
六條天皇清閑寺陵・高倉天皇後清閑寺陵は、菊家紋の付いた木の扉の奥にある。


          
              清閑寺への階段

    
                  清閑寺

参道をまっすぐ進むと、すぐに、清閑寺の階段が見える。
階段の下から見上げる山門は、重厚ではないけれど、とても感じが良い。
お寺の中は、緑が多く、ひんやりと涼しい。
はなはだ清閑であるのは、その名の通りである。

清閑寺は、802年、天台宗の寺として創建され、一条天皇の時代に再興された。
小督局(こごうのつぼね)が出家したお寺として知られている。
高倉天皇は、自分が死んだら小督のいる清閑寺に葬って欲しいと遺言を残していたそうである。
それで高倉天皇陵があったのだと納得する。


     
       小督局供養塔          大西郷月照王政復古謀議舊趾
  
出家した小督局は、清閑寺で生涯を終える。
左の写真、奥に見える五輪塔が小督局の供養塔である。

鐘楼堂の上方に、茶室「郭公亭」があったそうだ。
清閑寺は、清水寺成就院住職の月照上人と西郷隆盛が勤皇の謀議をした場所。
1858年、月照上人が水戸藩への密使降下に尽力し、幕府から狙われたとき、ここ「郭公亭」で都落ちの計画を練ったそうである。
荒廃によって平成3年に解体され、現在は「大西郷月照王政復古謀議舊趾」の碑が建つのみである。


          
              清閑寺窯発祥の地

    
                  要石

8世紀の初め、清閑寺で窯が開かれ、これを発展させて清水焼が生まれた。
さらに、清水焼と粟田焼から京焼が誕生するそうだ。
つまり、京都の陶磁器の礎を築いたのは、ここ清閑寺ということらしい。

要石の傍には、「願いあらば、あゆみをはこべ清閑寺、庭に誓いの要石あり」とある。
要石に願えば、その願いは叶えられるそいう言い伝えがあるそうだ。
要石の辺りからかなたに目を遣ると、市街地が左右の山に切り取られて、扇の形に見える。
石のある場所はちょうど扇の要にあたることから、「要石」と呼ぶようになったらしい。


          
              清閑寺の御朱印


追記 (2008年9月14日)
嵐山にて、小督塚。

   
   

「謡曲『小督(こごう)』の旧跡
 小督局は、桜町中納言藤原成範の女(むすめ)で、宮中で美人の誉れ高く、高倉天皇(第八〇代、在位一一六八~八〇)の寵愛を一身に集めていた。しかし、平清盛の女、徳子(建礼門院)が、中宮であったため、平家の圧迫をおそれて、この地、嵯峨野に身を隠した。その時の仮住居が、この『小督塚』辺りであったといわれている。
 謡曲『小督』は、天皇の命により、小督局を探しに当地を訪れた弾正大弼源仲国が、秋霧の間に微(かす)かに聴える琴の調べを頼りに、遂に局の居所を探し得たという物語である。
 今でも、渡月橋の北詰にある石橋は、琴聴橋とも、駒留橋とも呼ばれ、仲国が、想夫恋の曲を聴いたところと伝えられている。  京都謡曲史跡保存会」