アートセラピー「心のお絵かき」の世界

アートセラピストで妻で母で女の、楽しく豊かでゆるい人生後半日記。

推測、植松容疑者の心の有り様

2016-07-29 13:30:14 | 心や気持ちのお話
私自身、知的障がい者の方達と共に、何度もワークショップを楽しんできました。

で、今回の津久井やまゆり園の元職員、植松容疑者の内側は、こんなふうだったのかなぁ?
と、考えたのです。

彼も最初は、知的障がい者施設での仕事に、奉仕の精神をもって前向きに取り組んでいたのだと
思います。

が、次第に、理想と現実が違ってきたのかもしれません。

あるいは、自分が、この仕事に向いていないと感じ始めたのかもしれません。

現実の仕事という外側と、彼の感情という内側がかみ合わなくなってしまった。

昨年頃には、周りに、この仕事が「もう限界」と漏らしていたと聞きます。

私は、「もう限界」と感じたなら、なぜこの時点で辞めなかったのかと、非常にひっかかりました。

植松容疑者の親御さんは、教師だそうです。

もしかすると、幼い頃から道徳的教育的環境だったのかもしれません。

障害者を嫌いになるなどというのは恥ずべき事だ、同じ人間として愛さなければならない、
という風に教え込まれていたかもしれません。

それ自体は正しい考えなのですが、もっとおおらかでも良いと思うのです。

世の中広いのですから、知的障がい者に苦手意識を持つ人がいても、ちっとも不思議ではありません。

逆に、知的障がい者が全くOKな人達も、普通にいるのですから。

何かに、あるいは誰かに苦手意識を持つ、このこと自体は、別に普通な事だと思う。

私だって、通っていた知的障がい者の作業所で、相性の合う利用者さんもいれば、イマイチ苦手な利用者さんも
いました。

そういうことは、普通で自然であたりまえだと思います。

苦手ならば、距離を置けばいい、ことによれば辞めてしまえばいいではありませんか。

逃げるのとは違います。自分と相手を傷つけない、良好な関係を保つための選択です。

ところが、植松容疑者は、そうしなかった。

なおもがんばってしまった。

私は、この裏に、何か「罪の意識、罪悪感」みたいなものを感じてならないのです。

知的障がい者に苦手意識を持ってしまう自分は、愛のないダメな人間だ、価値の無いヤツだと。

だから、施設を辞めるのは、恥ずかしいことなのだという罪悪感みたいな感覚。

心の奥深くで、そんな自分を責め続け、それに我慢できなくなった彼の心は、
「オレは悪くない!悪いのはあいつらだ!価値の無い人間は、あいつらの方だ!」
と、鏡に映ったものが逆転するみたいに、自分を責めていた力で障害者を責めてしまったのではないかと、感じていました。

「ぼくは悪くない!ぼくは悪くない!悪いのはみんなあいつらなんだもん!!」
と、すすり泣き、泣きわめき、空に向かって拳を振るう幼い男の子が、見えてきてしまうのです。

本当に、心が真っ暗になるほど、辛いことです。どちらを見ても。

今一度、犠牲になった方々のご冥福をお祈りすると共に、被害に遭われた全ての方々の、身体と心の傷が
一日も早く回復することを願ってやみません。

津久井やまゆり園の事件

2016-07-28 14:46:19 | 日記
このところ、外国ではテロ事件が相次いでいました。

日本に住んでいて良かった・・・などと思っていた矢先に起きた大量殺人事件。

これは、テロではないんだけど・・・?

いや?似てる?

植松容疑者は、知的障がい者、とりわけ重度の障害を持つ方々に嫌悪感を持っていたようです。

「嫌悪感」という言葉を、「自分の価値観に相容れないという思い」と置き換えると、似てきて
しまうのです。

テロは、宗教なり体制なり、自分達が良しとする価値観と違う人達を、無差別的に排除する行為だと
自分は解釈しています。

自分たちの価値観に基づく社会にするために、それにそぐわない人たちを「不要」と見なし、
政治家、軍人、一般市民、老若男女全く無差別に排除する、殺戮する行為ということです。

すると、植松容疑者の脳内では、重度知的障がい者は、「生きる価値が無い人」という、
まさに価値観から外れた「不要な人たち」ということになってしまいます。

そして、この度の凶行は、それら「自分の価値観から外れた不要な人」を排除する行為であり、
殺傷された方の人数といい、テロと同じではないか、という重苦しい気分になってしまうのです。

世の中には、いろんな人がいる。

それが、この世というものなのに。



津久井やまゆり園 

2016-07-27 15:20:42 | 日記
知的障がい者福祉施設「津久井やまゆり園」での悲惨な事件。

亡くなられた方々と、そのご遺族に、心からお悔やみ申し上げます。

怪我をされた方々の、一日も早い回復もお祈り申し上げます。

また、生き残った入所者と職員の皆さんの、深い心の傷が、どうか早く癒えますようにと
祈らずにはいられません。

うちは、すごく近いわけではないけれど、それほど遠くもない所にあるのです。

昨日は、午後になっても、緊急車両が何度も近くを通り過ぎました。

けたたましいサイレンが、津久井の方角に流れていくのを聞くたびに、胸がつぶれそうでした。

事件は、私の理解を超えてしまい、何か、身体のブレーカーが落ちてしまったかのように、
心の中も頭の中も、真っ暗になってしまいました。

私も、これまで、知的障害のある方達と一緒に、数え切れないくらいワークをしてきました。

確かに、難しいところはたくさんありますが、楽しいことや嬉しいことだってありました。

なぜ、こんなにたくさんの人を殺すことができたのか、なぜこの人達が、こんなにひどい殺され方を
しなければならないのか・・・呆然と「わからない」を繰り返すばかりでした。

夕方近くになり、私のワークを受けていた方から、入所されていた知人のお嬢さんが亡くなった
という旨の、悲鳴のようなメッセージを受けた時は、もう、どう返信して良いのかわかりませんでした。

Facebookを通じ、友人達と話を繰り返すうち、私も落ち着いてきました。

「わからない」「こわい」とめそめそ逃げてばかりではいけません。

考えなくては。感じなくては。そして、良い未来のために、しっかり生きていかなくては。

電柱は、オブジェだったの?

2016-07-11 13:58:18 | 日記
先日、「YOUは何しに日本へ」を見ていました。

インタビューを受けていたのは、イタリアから来たお医者さん。

日本で撮った、とっておきの一枚を見せてくださいと言われ、見せてくれたスマホの画像は、
なんと、電線や電信柱の写真でした。

どーいうことかな?と思っていると、インタビュアーのお兄さんも「??」だったらしく、
これのどこが、とっておきの一枚なのか聞きました。

すると、そのイタリアから来たお医者さんは
「整然と張り巡らされた電線が美しい。電柱は、彫刻のようだ」
と、感心していました。

それを聞いて、ほんとにびっくり。

日本では、景観を損ねるから、ヨーロッパみたいに、電柱や電線を地中に埋める構想があるのに、
ヨーロッパの人にとっては、その電線と電柱の風景が、彫刻みたいに「美しい」と感じられるなんて!

イタリアなんて、ローマ時代からの歴史的建造物や彫刻がいたるところにある、美の国といったイメージが
あるので、なおさら、考えてしまいました。

電柱が、現代アートのオブジェみたいに見えて、美しいと感じることもできるのねえ!

世の中は広いのだなぁ。

こんなに、見方や感じ方が違う人々が、地球の上で一緒に暮らしているのだから、
多少、わからないことがあっても、それは当然なのでしょうね。

で、私も、近所の電線と電柱の写真を撮ってみたけれど、見慣れすぎていて
感動はいまひとつ・・・。

平塚市美術館でのワークショップ

2016-07-09 17:26:01 | アートセラピー
今日は、平塚市美術館で、親子ワークショップをさせていただきました。

朝から、ひどいどしゃ降りで、小さいお子さんの参加も多いと聞いていましたので
「こりゃあ、キャンセル続出かな・・・}と思いながら準備をしていたのですが、
なんと、やる気満々全員出席!

私が作った、海の生き物の塗り絵を自由に塗って、思い思いの海に泳がせてあげます。

見ていて面白かったのは、夢中になると、あちこちから、ごにょごにょと独り言が聞こえてくるの。

隣のお母さんお父さんにしゃべりかけてるわけでもなく、でも何かしゃべりながら、
一生懸命塗っているの。

そういう声が、いろんな所から聞こえてくるのですが、別に騒がしいわけでもなく。

また、ディズニーのオルゴールのCDをかけていたのですが、それに合わせて鼻歌を歌ったり。

でも、それも、ちっともうるさくなくて可愛くて。

リラックスすると、こんな風になるのかもしれませんね。

たくさんある作品の一部です。

出来上がった作品は、どれがお父さんお母さんので、どれが子どもちゃんのかわかりません。

そのくらい、どれもステキです。