観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

積み重なっていくもの

2012-06-25 23:24:33 | 12.3
修士2年 山田穂高

 大学院生としての2年間は、これまでの学生生活の中で最も濃密な期間であったように感じる。たいてい過ぎ去った時間は振り返ってみるとあっという間に思うけれど、この2年間は違う。入学は10年くらい前のことのように感じ、まだたった2年しか経っていないのかと驚きがある。そういう意味で大学院生であった時間は、私の人生の中でも特別なものになったと思う。
 なぜこれほど長く感じたかを顧みると、やはり経験の量が多かったせいではないかと思う。読書量や後輩が増えたということもあったが、やはり一番は就職活動をしたことだろう。ここ一年と少しほど、就職活動生として学生や研究の世界から半歩踏み出した場所でも活動していた。そのなかで出会った人たちの価値観や生き方や働き方は様々だった。今まではけっこう狭い世界に生きて、物事を判断していたのだなと感じることも多くあった。
就職活動を通じて、本当に多くの人に会って、いろんな言葉をかけられて、評価されて、考えさせられた。その中には、感心するようなことも、身勝手だと感じることも、耳が痛いこと思うことも、希望が湧いてくるようなこともあった。その嵐のようななかで、やり過ごしたり、抵抗したり、振り回されたりした。だから長く感じたのではないかなと思う。良いことばかりではなかったけれど、これからもこういうことが積み重なって、私の考え方ができて、私が形成されて生きていくのだなと何となく考えた。
もう学生に未練はないと思っていたけれども、いざ離れることになると何となく心残りがあるような気がする。もちろん苦労も多くかったけれど、その分充実した経験や出会いが研究室でもあった。あまり優秀な学生ではなかった気がするけれど、先生や先輩や友人の助力があり、何とか卒業して社会人になれて良かったなと今は思う。
研究室には4年間本当にお世話になりました。ありがとうございます。

一年が経った

2012-06-25 23:02:25 | 12.3

教授 高槻成紀


 一年が経った。この一年を短い言葉で表しきることはできそうにない。多くの本が出て、たくさんの論評もある。なるほどと思うことも、同意することもたくさんある。ここでは私なりにこの一年の意味を考えてみたい。
 「がんばれナラの木」は良くも悪くも単純すぎたように思う。「がんばれ」ということばは、十分がんばっておられる被災された人々に失礼であったかもしれない。これはよくない点であった。しかし、単純であっただけに、むしろ読む人の魂に訴えるものもあったのか、私が深く考えないで始めたときには思いもしない形で拡がりを見せた。これは単純であったことのよさかもしれない。
 当初私が「がんばれ」と思ったとき、二つの思い違いがあったようだ。ひとつは、この日本のことだから、半年もすれば見違えるように回復し、一年経てばもとのようにとまではいかなくても、ほぼ平常な日常が戻ってくるだろうと漠然と想像していたこと。実際にはじれったくなるほどの遅さであった。これは一体どういうことか。阪神淡路のときと何がどう違うのか。仙台に住むようになって初めてわかった、東北地方の「遅れ感」が本当に深刻なものだと感じないではいられなかった。国は関西のときと同じようには「本気」ではないのではないか。そうした不信感が芽生えた。不信感といえば、この国の指導者たちの情報に対する感覚は強く疑わざるをえない。原発からの避難地域を半径5キロだ10キロだといっているとき、欧米諸国は20キロとしていた。それに対して「大げさすぎる」といわんばかりの態度であった日本政府は事態が動かしがたいことを知ると豹変して20キロといい、あとでわかったのはフランス政府が20キロを日本政府にも勧告していたにもかかわらず、無視していたという事実である。さらに最近わかったことは、議事録がなかったという信じがたい事実である。私はこれは嘘だと思う。記録は現代のすぐれた録音機でなされていたはずだし、万一録音されていなかったとしても、その気があれば誰が何を発言したかは、参加者が本気で復元しようとすれば必ずできる。「覚えていません」というのは口裏を合わせているに違いない。その底にあるのは「発言の責任を問われたくない」という利己的な思いである。この社会はリーダーであることを何だと思っているのか。「覚えていません」とか「部下が悪いからです」というためにふんぞりかえって、高い給料をもらっているのか。失敗の責任をとるからこそ高い地位についているのであり、ことあれば命を捧げる覚悟があるのが当然であろう。メルトダウンは日本社会のリーダーの心に起きていたことがわかった一年であった。
 思い違いのもうひとつは、当初は被害の深刻さの8割は津波被害で、原発事故は2割くらいだと思っていたこと。だが事態が進むにつれて、半々かあるいはむしろ原発のほうが8割くらいではないかと感じられるようになってきた。三陸の海岸部は記録が残っているだけでも何度も津波を体験し、それでも復興してきた。三陸では「一生に一度か二度は津波がある」と伝えられているそうだ。ざくっと言えば「壊れたものは直せる」ということが体験的にある。時間はかかっても復興はできるということは実証されてきた歴史がある。
 だが、放射能に汚染されたというのはまったく体験がない。瓦礫を片付けてもそれを廃棄する場所がない。農地も山も汚染された。山から汚染された水が流れる。土壌の中も汚染された。それらを集めて置いておくことなどできるのだろうか。しかし放置すれば有害であることはまちがいない。
 これまで人間の健康という点で議論され、もちろんそれが一番肝心なことではあるが、動植物を研究して来た者の立場からすれば、すべての動植物が汚染され、遺伝的な問題がこれから先もずっと残ることにも思いを馳せるべきだと思う。私はそのことを、目にした蛾の羽化をみながら考えた(「小さな命とフクシマ」)。このことは土地倫理という文脈で考えるべき問題だと思う。人間は日本列島への新しい侵入者であり、我々の祖先よりもずっと前からこの列島の動植物が関係を持ちながら生を営んできた。原発事故は、そうした動植物とその環境を汚染したという視点でも考えなければいけないと思う。そう考えれば、津波が軽いとは言わないまでも、放射能汚染の問題はそれよりもはるかに深刻であるということを知った一年でもあった。
 国に対する不満、東京に住んでいて「がんばれ」というという図式自体への心苦しさ、放射能汚染の深刻さと子供たちへの申し訳のなさ、そういう思いが渦巻いた一年でもあった。戦後の瓦礫の町や戦争孤児のことを描いたテレビ番組を見て、胸がつぶれる思いであったが、私が生まれ育った昭和20年代、30年代は同じように貧しく、たいへんな時代であったことを大人になった今、わかるようになったが、それでも子供心に体で感じるのは、たいへんではあっても楽観的でありえた時代の明るさである。昭和40年代の後半くらいから日本は豊かになり、便利になり、平和であった。そうした生活を保障するために、とくに都会の人間が地方にエネルギー源供給を押し付け、起きたのが原発事故であった。
 50年前に比べればまちがいなく豊かでありながら、先が見えない閉塞感が被い、そうであるがゆえに将来のことを考えないで、日常の忙しさに自分をごまかそうとしている自分がいる。国を批判することはできても、社会を形成するのは私たち一人一人であり、原発事故を起こしたのは、私たち大人の責任であるという事実からは逃れようがない。ため息をつきながらも、子供たちの未来のために一人一人ができることをするしかないように思う。

「密」な二年間

2012-06-25 15:05:40 | 12.3
4年 山本詩織

 とうとう大学卒業のときがきた。
入学したときは4年間長いんだろなーとか、卒業のとき23歳って大人だぁとか、すごく遠い未来のことのように思っていた。でも、実際は皆言うように「あっというま」だった。そんなあっというまの中に、いろんな人との出会いや思い出ができて、すごく濃密な4年間になった。そこから巣立つときが来たんだ…。
 支え合い、腹を割って話し、笑い合える友人・仲間がいてくれた。
この4年間で楽しいことは数えきれないほどあったけど、その分辛いことだってあった。でも、そんな辛さを聞いてくれて理解し励ましてくれる友人たちに、この大学でめぐり合うことができた。自分が正しいなんて思ったことはないし、自分にこれっぽっちも自信がないから、ふざけてでも私の話をちゃんと聞いて相談に乗ってくれるような人たちに会えて本当に恵まれていると思った。
 研究室での2年間は本当に「密」。
入学時から念願だった野生研に入ることができてすごく嬉しかったけど、不安もいっぱいだった。今まで授業を一緒に受けていた子はコースも研究室もバラバラ。完全なるアウェイにきたけど、うまくやっていけるか…やっていけたんだなコレが。それは何より素晴らしい室生たちばかりだったからだと思う。特に同学年は少人数で絶妙なバランスを保って最高のメンツだった。先生は厳しいけど、研究に対する姿勢や私達への老婆心は計り知れない良き指導者だ。いま改めてこの研究室で「いろんなこと」を学んで、本当に良かったと思っている。
 そして進学。
巣立つ…とはいったものの、私はこの春麻布大学の院生となって舞い戻ってくる。新3年生や他大の入学生など新たな仲間と共に再び野生研の室生となるのだ。巣立っていく同輩や先輩との別れは辛いけど、新しい環境での新しい生活に希望をもって前に進んでいこう。まだまだフワフワしている未来だけど、自分ができることを精一杯に頑張っていこうと思う。

5年間を振り返って  

2012-06-25 14:59:22 | 12.3
獣医学科6年 吉田綾子

「やっと終わった。」
今の気持ちはこの一言に尽きる。編入生として入学した私にとって、この大学生活は「きつい」の連続だった。「きつかった」のは勉強のことだけではない。最もきつかったのは毎日の学校生活だった。
 編入の先輩からは「勉強より学生生活の方が何倍も辛い」と再三聞いていた。まさかそんなことはあるまいとタカをくくっていたのが間違いであった。大学の雰囲気も学生自体も何もかもが違う。日本なのに言葉が通じない、何を考えているかわからない、そのような錯覚を起こしそうになるほど戸惑い、まるで異国にいるようだった。毎日毎日大学に押しつぶされそうで、慣れようとしても空回りする。どうしても前の大学と比較してしまい、それがさらに自分を苦しめて追い込まれていくのがわかった。
 体調を崩し、せめてただ獣医師免許を取るためだけに大学に通おうと思うようになってからは周りへ興味も少なくなり、研究室の仕事の参加も随分と減ってしまった。皆が参加し、また後輩がどんどん出来ていく中、ただでさえ年上の自分が率先して参加しなかったことを今更ながら申し訳なく思う。(本当はもっと沢山交流したかったのだけれど、ごめんなさい。)
 これらを含めて、5年間は自分を知る大切な時間となった。周囲の助けや心遣いもあって、きつくても、自分で折り合いをつけ、バランスを取る方法をみつけることができた。大学にいる理由は獣医師の免許のためだけのつもりだったが、この研究室に入ったことで他学科の学生や自分のまったく知らない分野をやっている人たちに会えたこと、自分を支えてくれる人がとても多くいることを改めて知ることができ、とてもとても大きな財産となった。
 この大学生活が笑えるような思い出になることはもう少し先になるだろうが、この大学で得たタフさには自信をもって獣医師として働こうと考えている。

お世話になったこと

2012-06-25 14:57:20 | 12.3
4年生 海老名健

 野生動物学研究室に入室してからこれまでを振り返ると、お世話になりっぱなしの2年間だったように思います。当たり前のようですが、日頃から利用している電車の職員さんなど、本当に大勢の方が私個人のために世話を焼いてくださったという印象があります。 
 例えをあげればきりがないのですが特筆すると、卒業論文のための調査では調査地で研究活動をしている方々が、全くの素人である私に、一からコウモリの研究がどんなもので、今までどんなことが行われてきているか教えてくれ、研究テーマを何にするかも自分のことのように親身になって考えてくれ、数え切れないほどのアドバイスを頂きました。就職活動の際には、大学の事務の方々に就業時間の過ぎた夜遅くまで面接の練習に付き合って頂きました。もちろん、研究室の方々、とくに先輩方や先生方には、研究についてのみならず、私自身の性格の問題点やしゃべり方、社会に出てからのマナーなどさまざまなことを教えて頂きました。
 これらのお世話になった方々にどう報いるか考えてみました。まず、4月から公務員として働くことになるので、それを一生懸命やる。仕事の種類に関わらず社会に貢献できる内容なので、研究室で教わったことを活かして行動できれば、電車の職員さんのように、利用する方々全体の役に立てると思います。また仕事内容が環境保全、都市開発、緑化、道路開拓などであれば、開発前のアセスメントの段階で必要なこと、自然を残すための管理の進め方に今までお世話になった研究者の方々の視点を少しでも取り入れるような意見を出していきたいと思います。
 次に大学を卒業した後も、研究活動を行うこと。これは私自身がこれからもやっていきたいと思っていることでもあります。幸い4月からの就職先は安定した休暇が頂けると思われるので、夏の間など、卒論でお世話になった長野県乗鞍での調査のみならず、丹沢など近場の神奈川県内でも調査活動を行い、情報提供の一役を担えればと思います。