OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

明日は・・・

2024-09-11 16:11:04 | Weblog
早朝から、ムービープラスで『さらばわが愛 覇王別姫』つづけて『花の影』の放送があります。WOWOWでも、朝から『ルージュ』の放送があります。彼のお誕生日だからかな。うれし💛。ありがたい💛。

『ルージュ』は、梅姐が主演だけど、大親友の梅姐との共演作だし、個人的にはとっても愛しい作品です。『さらばわが愛 覇王別姫』は、言わずと知れた、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した作品だけど、たしか、審査員の誰かが、彼に主演女優賞をあげたいと言ったとか。とにかく、陳凱歌監督の最高作です。『花の影』は、いささかうっとおしい内容で、わたし的にはイマイチなんだけど・・・彼が出てるんだから、それだけで満足するのが迷(ファン)というものです(^^;。

とにかく・・・ほんとうに素敵な役者さんだと、世に知らしめたい!そう思う人が、沢山いてくださるからこその放送だと思って、番組欄をみるだけでウルウルしているのでありました・・・

白鷺の子育て

2024-09-11 08:29:20 | Weblog
今日は父の命日なので、川向こうのお墓にお参りをしてきました。で、橋を渡っているとき、川に白鷺がいるのが見えたんですね。

このあたりで、白鷺を見かけることは珍しくありません。お墓の近くの竹やぶには、白鷺のコロニーがあるみたいですし、水田にもいますし、見ない日はないといってもいいくらいなんですが・・・今日は、子どもたちも一緒のところを見ることができたんです💛。

まずは親サギが目に入りました。彼、あるいは彼女が飛び立つと、すぐに二羽の白鷺がついていくのに気づきました。それが、どうみても体が一回り二回り小さい。あっ、子どもなんだ!!

親サギは、すぐに、さっきいた場所から、そんなに離れていない地点に降り立ちました。子どもたちは、親サギを越えて、少し先の水だまりに下りて、二人でピチャピチャしています。魚を取ろうとしているのか、ただ遊んでいるのか・・・親が悠然と立っているのに比べて、まったく落ち着きがありません。でも、それを、親サギは、少し離れた場所から、ただじーっと見守っています。なんというか・・・ただそれだけのことなのに・・・なんだか胸打たれます・・・

鳥や魚や動物や・・・木や草や花や・・・命あるものだけじゃなく、風や雨の生み出す有様や・・・そんなのをぼんやり見ていると、気づきます・・・人の創り出すものは、まだまだ、自然の様子の足元にも及ばないなぁ~・・・・・

て、まあ、その人間自体が、自然の創造物の一つなんですけどね(^^;。

わたしの精神的な次の領域は・・・

2024-09-08 08:59:29 | Weblog
幼いころから、妙に"我"に拘りのある子だった。注目を浴びたいとか、自分が一番でいたいという方向の"我"中心ではなく、いわゆる"我"とは何ぞや方面の拘りだ。わたしの生まれや生い立ちを知る人は、その原因をそこに見るかもしれないが、わたし自身はあまりそれに拘ったことはないつもりだ。少なくても意識の上では。

小説だとか映画やドラマで、自分が養子だと知って荒れる登場人物を見ると、いつも不思議だった。血のつながった親が誰か分からないことが、なぜ、自分という存在を脅かすと思うのだろう。生物学上の親が誰であれ、その後、生活を共にしていなければ、自分という存在にとって、さしたる意味はない。むしろ、誰にどう育ててもらったかの方が、よほど大きな影響があるのにと思った。

ただ、まあ、後日、SF小説などを読んで、アンドロイドが登場すると、奇妙なシンパシーを感じたのは、人間の当たり前の生の営みから生まれたのではなく、自分が人工的に作り出された命であるということには、感ずるところがあったのだろうとは思うが。

とにかく、原因はさておき、わたしは"我"にひどく拘る子供だった。我とは何ぞや・・・人間は、全員が一つの土壌から育つ、根を一つにする存在だと思うが・・・それでも、誰とも何も共有しない、わたしだけの"我"というものがあるだろうか・・・

そういう人間は、必然的に、いわゆる哲学的な問いを好む。"人はどこから来てどこに行くのか"的なことばかり始終考えている。生きるとは、それを問うことだとさえ思っている。だから、そういう問いに無関心な人を見ると、不思議でならなかった。なぜ気にならないのか・・・なぜ問わないのか・・・それで生きているといえるのか・・・

あるとき、それがガラリとかわった。わたしに近しい人なら、だれでも推測できるだろうが、12年と294日前が、その切っ掛けだ。もちろん、一気に変わるわけではない。その時は、そんな余裕すらない。気が付けば・・・いつのまにか"我"への拘りを失ってしまっているのに気が付いた。"我"など、もういらない・・・いや、そんなもの、もともと無かったのかもしれない・・・

そうなると、可愛さ余って憎さ百倍なのか・・・たとえが変かな・・・とにかく、哲学的思考を好む人たちの言動に、妙にイライラとしてしまい始めた。何を偉そうに・・・自分という存在に意味を問うなど何様だ・・・と、そこまで過激に非難してはいないけど・・・さんざん自分が拘ってきたものが、ただの自意識過剰な執着に見えてしまい・・・そういうことを、やたら高邁なことのように語る輩は、金や権力や地位を誇る人と何も違わない・・・自分を特別なものだと思い込みたいだけの人間なんじゃないかとさえ思えてきてしまった・・・

と・・・まっ、これが、今のわたしの心の状態なのだけれど・・・

少し、変化の兆しを感じている。それもまた、いいじゃないか・・・と、本音で思いかけている気がする。人間とは何かとか、我は何者かとか、そういうことを問うのもまた面白いことだと思うし、それで素敵なものが生み出されるなら大いに歓迎だし・・・もちろん、そういう問いに拘らず、日常を大切に生きている人たちもまた、それぞれに幸せであって欲しいと思うし・・・

無関心というのとは違うと思うのだけど・・・人それぞれ、拘らずにはいられないものに拘るべきだし、好むものを求めるべきだし、それを他者がつべこべと批判がましく思うことが、そもそもオカシイことなのだから・・・

わたしが"我"への執着を手放したのは、いずれ辿り着くべき場所だったのだと思う。それを自分自身の成長によってではなく、かなり無理やりに押し出されたことは否めないが・・・13年前でなくても、今でなくても、いずれはたどり着くべきところだったのだと思う・・・

ただ・・・正直・・・なんだか・・・幸せではないなとは思う・・・"我"への執着期は、とても苦しかったけれど、とても幸せだった気がする。今は、そのころより穏やに過ごせているが・・・なにか、虚しさは・・・ふむ・・・

足長蜂を大量虐殺した日・・・

2024-09-03 15:33:33 | Weblog
今日は、コープさんの個配の日だった。いつも、購入した商品は玄関先に置いておいてもらって、午前中に取り込むようにしている。で、午前11時ごろに、そろそろ取り入れなきゃと、玄関の戸をあけたら、ぶ~んぶ~んぶ~ん・・・なんだか不穏な音が・・・ん?なんだ?と音の主を凝視すると、蜂だ! それも一匹や二匹じゃない! 慌てて、戸の陰に体を隠して、そおっと見渡してみると、壁際に大量の足長蜂が群れている。うそっ!こわっ!コープの配達のお兄さん、大丈夫だったろうか。さらに注意深く、あたりを見てみると、庇に小さな巣も見受けられる。え?今朝は気配もなかったよ、いきなり?

慌てて室内に戻り、以前に購入して使わないまま置いていた"ハチ・アブ、バズーカジェット"を手にした。玄関に戻り、そお~と少しだけ戸をあけ、バズーカ発射! すごい勢いで薬剤が噴射されて、蜂たちがバタバタと死んでいく。残った蜂たちも、蜘蛛の子を散らすみたいに(例えが変かな)姿を消した。ほっとした・・・でも、少し落ち着いて、地べたの大量の蜂たちの死骸を見て・・・なんだか、胸が痛くなった・・・

そして午後。ちょっと外出し、用事を済ませて戻ってきて、今度は裏のお勝手から家に入ろうとしたとき・・・ぶ~んぶ~んぶ~ん・・・なんだか不穏な音が・・・デジャブ感が半端ないんだけど・・・いや、デジャブじゃない、これは今朝、実際に聞いたばかりの音じゃないか! そう、こちらにも大量の足長蜂が! 数時間前に経験したばかりなのに、またなんだかワアワアと焦ってしまった・・・

頼りの"ハチ・アブ、バズーカジェット"は家の中。玄関は内側から鍵がかかっていて開けられない。勝手口は大量の蜂が舞い踊っていて近づけない。最終兵器の"窓から侵入"を強行して家に入り、"ハチ・アブ、バズーカジェット"を手に、勝手口近くの窓をあけて、網戸越しにバズーカ発射! スプレー缶一本を、今日一日で使い切り、勝手口の足長蜂さんにも退散してもらった。確認してみると、こちらはかなり大きな巣だった。実は、今日の早朝、勝手口の巣のあったあたりのすぐ近くの庇に、観葉植物をぶら下げる作業をしたんだけど、その時には、まったく気配を感じなかったんだけど・・・ああ~、あぶなかったのかもしれない・・・。

午前中の虐殺行為に、いささか凹んでいたため、今回は直接薬剤をかける感じではなく、あたり一面、空気中にまき散らす感じで噴射したため、たぶん、ほとんどの蜂さんは逃げられたと思う・・・たぶん・・・ん・・・

後で調べてみると、足長蜂は、スズメバチ科だけど、スズメバチほど攻撃性はなく、自分が攻撃されない限り、人を刺さないとのこと・・・でも、やっぱり、怖いです・・・すぐ近くで、大量の蜂さんにブンブンされると、パニックになっちゃうです。で、大虐殺を引き起こしてしまいました・・・

後味は、ほんとうに悪いんだけど・・・それでも、また同じ状況になったら、わたしは迷わず"ハチ・アブ、バズーカジェット"をまき散らすと思います。実際、今日、一本使い切ってしまったから、早急に補充しなきゃと思っているところです。

共存・・・難しいなぁ~・・・ほんと、難しいなぁ~・・・
そして、自分の残酷さ、無慈悲さに、震撼してしまいます・・・

レンジローバーに乗る人は・・・💛

2024-08-21 13:26:10 | Weblog
超小ネタ・・・わたし的にはあり得ない短さです・・喜ばしいでしょ(^^;。

以前から、言い続けているんですが、欧米のドラマや映画を見ていると、かなりの頻度で"お金持ちの悪者"が、我らがレンジローバーに乗っています。もちろん、その時点での最新モデルです。

我が家の最後の男たちの一人、レンジローバー君が、そのような扱いをうけることを、わたしは内心、悔しく思わなくもなかったのですが・・・

イギリスのドラマ『ヴェラ〜信念の女警部〜』で、メインキャラのヴェラ警部の愛車が、古~いレンジ君なのが、ずっと心の支えでした(←大げさ)。

でも、近頃、新シーズンがCSで放送されたフランスのドラマ『マルロー警部のフランスさすらい事件簿』で、主役である女性警部マルローが乗っているのも、古いレンジ君なのです!前放送も見ているはずなのに、ずっかり失念してしましたね、申し訳ない(^^;。

ということで、お金持ちの悪者も乗るけど、癖のある女警部が好むのも我らがレンジローバー! ただし、悪者は最新モデルで、警部たちは旧車、なのでした💛

ちなみに、我が家のレンジ君は、最新モデルではないけど、旧車というほどは古くない、中途半端なあたりなんですが・・・美しさと愛らしさは最高なのであります!!

年に数日、太陽信仰に目覚める奴・・・

2024-08-17 17:46:40 | Weblog
太陽信仰って理解でいいのかな・・・インカ帝国の太陽神殿とか・・・たしか春分だったか秋分だったか、もしかしたら夏至だったか冬至だったか、とにかく太陽運行の重要な日の日の出だったり日の入りだったりに、神殿のある部分に太陽の光がさすみたいな構造で建てらいるって聞いた気がするんですよね・・・

そういうのを聞くと、ただただ「凄いなぁ~」って思っていました。漠然と季節の移ろいを感じたりはしますが、それをそんなに強く意識することなんかないよなぁ~って。でも、「いや、そんなことないや」って、ここ数日で実感しています。「平凡な感覚の人間でも、日常の生活の中で、否応なく、強烈に太陽の運行を意識することってあるや」と実感しています。とはいっても、毎年、ある一定の期間、体験してきたはずで・・・なのに、その時だけで忘れてしまっている自分が情けなくはありますが(^^;・・・だからこそ、今年は、それを記録しておきましょう・・・もしかしたら、今までに何回かは、今回のように感じて記録してきたことも忘れている可能性はありますが・・・

とにかくです・・・

毎朝、車で夫を最寄りの電車の駅まで送っていくことは、よく話題にしていると思いますが、その帰り道のことです。そのいつもの道は、南北に細長く伸びる小山を一つ越えていくのですが、帰り道は、西から東に小山を越えるので、要するに朝日に向かって帰っていくことになります。とですね・・・ここ数日は、帰りの時間、ちょうど太陽が小山の頂上に見える角度になるんです。とですね、あまりの光の強さで、まったく前が見えなくなるんです。対向車がいても、歩行者がいても、全く見えません。車は、強烈な光に向かってただ走っていきます。だから、ものすごく怖いんです。対向車が来ていませんように、人がいませんようにと祈りながら、そろりそろりと走ります。そして、これが何日か続くわけです・・・

毎日じゃない、毎年、この時期だけ・・・ああ!!太陽運行!!!

毎朝、天気予報で、本日の日の出日の入りの時間は発表されます。でも、それを強く意識することなんかありません。知識としても実感としても、夏は日が長く冬は日が短いとは分かっていますが、だからどうだと言われても、なんのコメントも出てきません。当たり前だと思っているし・・・だからどうなの?

なので、古代の人たちが、太陽の運行に対して信仰心をもつことも、「昔の人は知識もないし、大げさに感じてたんだね」くらいに思っていましたが・・・いやいやいやいや、いやいやいやいや、わたし、思わず、信仰してしまいます、あの光に向かって車を走らせるときには・・・

そして、それをただ畏敬するだけでなく、観察し、記録し、その規則性を見つけ、何かしらの形で表現した・・・すごいことです。ほんと、すごいことです。毎年体験し、きっと、その度に驚きと感動をおぼえているはずなのに、すぐに忘れてしまっている私とは大違いです。

もちろん、現代人のわたしは、どんなにスゴイ存在でも、太陽を神様だなんて思いはしません。けど、私たちの暮らしの、ひいては私たちの精神的な部分でも、太陽は真ん中にある存在だなとは感じます。太陽なしに、我々は生きられない・・・神様でなくても、信仰するに値する存在だなと、心から思います。

さて、来年の今頃、わたしはまた、同じことを言っているんでしょうかね・・・(^^;。


正誤ではなく、好き嫌いで選びます

2024-08-07 07:05:49 | Weblog
昨日、「たぶんディベートは得意だったと思う」と話してから、なんとなく考えてたんですが・・・

ディベートが得意だったろうと思う根拠は、詐欺師的口の巧さというのもあるんですが・・・(自分で言うのもなんですが、今はともかく、若いころはそうでしたね~。しかも、それを内心自慢に思ってたふしもある、情けない奴です)・・・本当のところ、一番の理由は、"テーマを決めた議論の場では、好き嫌いを持ち込まない"という、一種のポリシーを持っていたからです。

"どんなことにも良い面と悪い面、メリットとデメリットがある""どんな主張にもそれなりの言い分がある"と思っています。そして、議論の場では、それらを多方面から吟味する。だから、自分がどう感じるかは関係ないと、そう思っています。そう、これに関しては、今もそう思っています。だからこそ、相手の発言を否定したとしても、それは相手の人格を否定することにはならないんですね。もちろん、その逆、発言を否定されても、わたしの人格が否定されたわけじゃないでしょ。

でも、じゃあ、あなたはどっちを選びますかとなれば・・・それは100%、自分の好き嫌いで選びます。ここは、理屈じゃなく、自分の好みの問題だと思っていますから。だって、それぞれに主張があり、それぞれにメリットとデメリットがある、そんな中で選択するとなったら、正誤ではなく、好みしか判断基準はなくないですか?

きっと、優秀な商売人さんだったら、その人(その人が属する集団)にとってのメリットとデメリットを算出して、メリットが多い、あるいはデメリットが少ない方を選択するというスタンスなのかもしれませんが・・・わたしは、まったく商売下手なので、100%好き嫌いで選びます。

それにしても、"信念"のある人は、自分の主張のみが完全に正しくて、相手の主張にはまったく聞くべき点がないと思っているんでしょうか。なら、わたしは、まったく信念などありません。

若いころは、よく"選択"という言葉を使っていました.そうですね・・・今も使ってますね(^^;。わたしは、何かを決めるとき、誰かに保証された正義などではなく、自分一人の責任による、しかも自分の個人的好き嫌いを基準にした"選択"をしたいと思っています。もちろん、その根っこには、色んな人の影響、社会の影響が色濃くあるには違いありませんが、そのうえで、わたし個人の好みに従って、わたし個人の責任において、選択していけたらいいなと思っています。

それが踏みにじられる世界だけは嫌だ、嫌いだ・・・と、そう思って、それに基づいた個々の選択をしていくと思います。

そういえば・・・二題 (わたしの根性の悪さの証拠)

2024-08-06 08:36:13 | Weblog
昨日、『ニュース雑記帳』の方で、"陰口"を容認する発言をしたんですが・・・その系統の話でいえば・・・わたしって人に"裏表"があることも、肯定的に考えてるなって思いました。

"裏表のない人"といえば、とても"いい人"というイメージになりますよね・・・少なくても、わたしはそう感じます。でも、本当に"裏表"のない言動で、人を傷つけなくてすむ人は、ごくごく一握りだと思うんですよね。真正の根っから善人。腹の底から善人。そういう人じゃなきゃ、いっつも本音を吐き出して、人を傷つけずにすむはずがない・・・って、性悪人間のわたしは思うんです。だって、わたしなら、本音を言ったら、相手を傷つけてしまうようなこと、しょっちゅう思ってますから(爆)。

でも、わたしとて、極悪非道の輩じゃないですから、わざわざ意味なく人を傷つけたくはない。だから、たいていのことは、本音でしゃべらず、オブラートに包んで言ったり、ときには心にもないことをいったりするわけです。本物の善人になれない身としては、"裏表"を使いこなすことで、周りの人を傷つけないようにするという・・・一応、これでも、せめてもの善意なのです。

世の中には、そういう、わたしのような、極悪人じゃないけど、けっして善人とも言い難い人は、たくさんいると思います。そういう人たちには"裏表"を許してほしい・・・と、わたしは強く、願うのであります。

で、もう一つ思い出したのは・・・もうずいぶん前ですが、近しい人に「あなたは信用ならない」といわれたことです(^^;。

当時の私は、ほんとうにペラペラと口がよく回る人間で、複数の人から、冗談で「教祖様になれるよ。一緒に壷を売らない?」なんて言われていましたっけ。で、そのころ、身近にいた人に「ディベートとか得意でしょ」って言われたんですね。で「したことないけど、たぶん得意な方だと思うよ」って答えました。「まったく違う意見の、どちらを振り分けられても、そっちが正しいと相手を説き伏せられるでしょう」って言われたんで、「たぶんね」って答えたら、「やっぱりね。あなたの言葉から、あなたの本心は分からない。あなたが何を言っても、それがあなた自身の声なのか判断できない。だから、あなたは信用ならない」って言われて、なんだかビックリしました。

わたしとしては、近しい人には誠意をもって接しているつもりだったから、なんでそんな風に思わせてしまったのか、見当もつかず、ほんとうにビックリしました。最初に話したように、いつもいつも本音で話していないのは認めます。相手を傷つけないための小さな嘘は、日常的についているとは思います。けど、肝心なところで、身近な人を裏切るような人間じゃない・・・そうは思ってもらえてなかったのか・・・ふむ・・・

まっ、仕方ありませんね・・・たしかに、そうかもしれない・・・その時、わたしはそう思いました・・・で、「あっ、わたしってなんて冷たい人間なんだ」とも気づきました。わたしは近しい人に「信用ならない」と言われて、驚きはしたけど、あまり傷ついてはいなかったんですよね・・・そうなんだぁ~、そうかもしれないねぇ~って、なんだか簡単に受け入れちゃいました。たぶん、究極の自己中人間だからなんだと思います。

わたしが思うに、そう言った人は、きっとわたしを傷つけたかった。傷つけるほど、ちゃんと向き合った人間関係を築きたかった。でも、わたしは、そういう人との関係の作り方が苦手です。そういう近づき方をする人は苦手です。お互い、自立した個人として、ある一定の距離を保ちながら尊重し合いたい・・・なんて、キレイな言葉で纏めましたが、結局は、自己愛が強くて他者に興味がない冷たい人間だってだけなんですけどね・・・

植物の剪定と、人間の教育は・・・

2024-08-05 09:24:15 | Weblog
グリーンガーデン計画より先に、手が付けやすいため実行できているのが室内での鉢植えを育てること。観葉植物を中心に十数種を育てているのだけど、その中に頂き物のアンスリウムがあります。最初は、花屋の店先でよく見かけるような小さな株で、葉も花もシュッと姿よく伸びていました。それが、どんどんどんどん育って増えて・・・今は、直径30cmくらいの鉢が三つ、それももう溢れんばかりにモサモサと茂っています。

それを見ながら、剪定しなくちゃいけないんだろうけどなぁ~・・・って、ため息が出ます。

外に植えている草花に関しても同じなんですが・・・植物の育て方なんか検索すると、たいてい剪定について書かれています。切り戻しだとか摘心とか、そういうの・・・。最初は"姿かたちを人間の好むように整える作業"だと思っていましたが、病害虫を防ぐためにも必要なんだそうですね。それを知っても、やっぱり、なんだか・・・抵抗があります・・・せいぜいが株分けくらいかな、わたしが出来ることって。あと、枯れて落ちて、葉っぱにくっついている茶色になった花を引っぺがすことくらい・・・かな。

たぶん・・・無意識に、人を育てることと重ねているのだと思うんですよ、わたし。植物と人間、決して同じじゃないんですけど・・・

人を育てるって大切なことだと思うんですよ。基本的な学問や技術の教育とか、道徳教育とか、個々の子の才能をさらに活かす指導とか・・・すごく大切・・・絶対に必要・・・うん、それには何の異議もないし、疑いも抱いてません・・・

それでも・・・他者が美しいと感じる姿を得るために、何かを切り取ったり、押さえつけたり・・・

ほっておいたら病気になるよ、長生きも出来ないよ、キレイな花も咲かせられないよ・・・お前の為なんだよ・・・

ん~ん・・・

答えが出ません・・・ただ、どうしても、心が気持ち悪がるんです・・・なぜか、嫌だっていうんです・・・ふぅ~・・・

桂離宮の庭が超絶美しいという奴がほざくのも何なんてすが・・・

いや、ほんと、維持管理って大変なんだから・・・

2024-07-28 08:56:51 | Weblog
今年も、やってしまった・・・瞼、パンパンに腫らしてしまった・・・(涙)。

つくづく、庭仕事には向いていないと自覚している。ましてや、お百姓仕事なんてとんでもない。だから、父や母が守ってきた田畑は、すべて何かしらに転用した。それでも、自宅周りの母の家庭菜園的な畑は、何ともしがたく・・・何度も言っているように、イングリッシュガーデンに仕立てたいと考えたのだ・・・けど・・・ああ~、気をつけて防護して作業したつもりで、やっぱりこのザマなのだ・・・・・

それにしても、父も母も、こんなに大変なことを、当たり前のように、ずっとずっと続けていたのだなと思う。生まれてこの方、彼らのことはずっと見てきた、すぐそばですべてを見てきた・・・なのに、何も分かっていなかったのだなと思う・・・

先日、友人たちと桂離宮に行ってきたのだが・・・まず思ったのが"維持管理がどれほど大変だろうか"ということだ。どれほどの人手、どれほどの労力、どれほどの時間、どれほどの費用・・・しかも、人手は誰でも集められればいいというものではない、専門的な知識と技術をもったひとでなくてはいけない・・・その人たちが、人知れず、手入れし続けなければ、この庭園は維持できないはずなのだ・・・

けれど、我々は誰も、その人たちのことを知らない、気にもしない・・・

どんな天才が作庭した、どんなセンス溢れる貴人が造らせた・・・それは語り継がれ、称賛を受け続けるだろうけど・・・それを維持管理するために、生涯を費やしたかもしれない人たちのことには、だれも興味をもたない。

きっと、かれらはそれでいいのだと思う。注目などいらない、称賛などいらない・・・無知な連中からみれば、毎日毎日、代り映えのしない地味な作業を、ただただ繰り返すだけの人生のように見えたとしても、そんなことは少しも気しない。それに、きっと彼らは、自分たちの仕事に喜びと誇りをもっていたにちがいないと思う、誰に分かってもらえなかったとしても。

こういうことは、言われるまでもなく十分に理解していたつもりだった。あらためて、そういうことを語る人がいたら、「はいはい、当たり前のことを、偉そうに聞かせてくださってどうも」なんて、少々小ばかにして聞いていた気がする。

けど・・・いや・・・そうなんだけど・・・

世界は一握りの天才が動かしているのじゃないと・・・いやもう、ほんとに、わたしのこのパンパンに腫れた瞼が言ってます。自分の周りの、あたりまえ・・・ほんと、ほとんどのことが、マジで当たり前じゃないから・・・自分が出来ることって、あまりにもちょっとだけだから・・・

「そりゃあそうでしょ・・・そんなの、あらためていうこと?」って思ったでしょ。でも、違うんだって、その理解、ぜんぜんダメなんだって。いや・・・わたしだけなのかもしれない・・・ほんと、頭でっかちで傲慢だからね・・・そんなことも、ちゃんと芯で理解してなかったのは自分のせいだから、他の人を一緒に考えちゃ失礼か・・・・ふうむ・・・・・・