オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

神さまのお宝

2017-08-27 00:00:00 | 礼拝説教
2017年8月27日 伝道礼拝(イザヤ43:1~4)岡田邦夫

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4)

何年か前に、東京に行った際に、私がかよっていた荒川区立第一日暮里小学校をたずねてみました。家から学校までこんなに道が狭く、こんなに近かったのか、校庭がこんなに狭かったかなあと驚かされました。校門前には『正直親切』と彫られた石碑があるのが目に留まりました。創立百周年(※創立は明治18年1885)の際に造られたもので、本校卒業生の高村光太郎直筆によるものだと説明文がありました。高村光太郎は彫刻家、画家でしたが、詩集の「道程」「智恵子抄」のほうが広く知られています。

◇どれもこれも…美しい
 彼が美大生の時、水野葉舟にさそわれて、植村正久牧師に会います。「先生、僕はどうしてもクリスチャンになれないんですが、何かいい方法はないでしょうか」と聞きます。問答があって、牧師から「だれがいったいその美しい自然を創ったのか」と問われ、また来るようにと言われました。しかし、キリスト教徒にはなりませんでしたが、美のうしろにあるものを考え続け、うわべではなく、ほんとうに美しいものを表現しようとしたと言います。彼の座右の書には聖書が筆頭にあげていました。
 聖書の最初、創世記1章には「初めに、神は天と地を創造した」とあり、「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった(それは極めて良かった)。」で結ばれています(カッコは共同訳)。創造者の手による世界は極めて良いもの、非常に美しいものだと言っているのではないでしょうか。全体も個々も、マクロも、ミクロも、神の芸術作品。ある神学者が言いました。神は「時」も造られた。これを受けて、伝道者の書は述べます(3:11)。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」。
 ですから、夕日や満月や天の川を見て、人は美しいと感じるのでしょう。花や鳥や生き物を見て、美しいと感じる。人の立ち居振る舞いや生き方を見て、美しいと感動する。創造者が神のかたちに創造された人間に「美しい」と感じる感性をお与えになったのです。それが人生をどれほど豊かにしているでしょうか。美術や音楽や様々なものが生まれ、文化を作り上げています。信仰をもって神に近づくとき、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」がより一層感じられてくるのではないでしょうか。それが人にとって幸せなのではないでしょうか。

◇これこそ…美しい
 しかし、人は醜いものを持っています。神の造られたものを、破壊し、神の用意された隣人を愛せず、神を神と思わず、無視しています。人の世がいかに汚れてしまったことでしょうか。これを罪と言います。神はいかに寛大とはいえ、ほおってはおけない、罪汚れを一掃するため、裁きをくださなければなりません。それがノアの大洪水でした。しかし、新たな仕方で、人類を救いに導く道を開かれました。それが今日の聖書です(イザヤ43:1)。
「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの』」。
 ヤコブとかイスラエルのところにあなたの名前を入れて読んでみましょう。神はあなたを新しく造り変えて、非常に良いものにされるのです。あなたを名指しで特別に呼んでくださるのです。オーデションに合格したようなものです。審査員の神に気に入られたのです。
 不信仰で自己中心の醜い罪汚れは贖うという仕方でクリアさせてくださるのです。いけにえにすべてを着せてしまうのです。昔は羊などのいけにえでしたが、2000年前、神の御子が人となられ、十字架にかけられ、いけにえに(犠牲に)なられたのです。私たちは悔い改めて御子を信じるだけで、贖いが成立し、きよめられるのです。神から離れていたものが神のものとなるのです。言い換えれば、「非常に良かった」というほどの神の特別な宝物になるということです。贖うということは代価を払うということ、御子イエス・キリストのいのちの代価が払われて、あなたは神のものになったのですから、決して手放しはしないのです(43:2~4)。
「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。
もう少し、話しましょう。イエス・キリストは私たちの醜い罪汚れを引き取って、十字架にかかられたのですから、ご自身が極みまで醜くなられたのです。そして、死んだ。贖いは完全に成し遂げられたのです。私たちのすることは悔い改めて信じるだけです。しかし、御子は十字架において、徹頭徹尾、自己犠牲を払われたところに、神の御心、神の愛を明らかにされたのです。十字架こそ、神の最も美しい在り方を表されたのです。人となられた御子は最も美しい生き方を示されたのです。威風堂々としたものでした。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」とはそういうことなのです。