オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

静まって私こそ神であることを知れ

2017-08-10 10:06:57 | 礼拝説教
2017年8月6日 二か所礼拝(詩篇46:1~11)岡田邦夫

 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1)

 詩篇は賛美歌のようなもので、情感豊かに表現されていますので、読者もその豊かさを感じ取り、思いを自由に膨らませていくのがよろしいかと存じます。今日、お話しするのは詩篇46編、7節と11節にある「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」をおりかえしとすると、1~3節が1番で、折り返しなしで、4~7節が2番、8~11節が3番だと、私は見てとりました。そして、賛美歌を歌うように読んでみました。響いてきた言葉が「立ち騒ぎ」でした。

 それというのも、先週、大阪の教会に行きました。田畑と山に囲まれた所に住んでいますので、都会に出るとその騒音に疲れを覚えました。というのは先日、TVで自閉症の方の特別番組があったので、見ていました時、ある方がこう言っておられたからです。たとえば、都会の道を歩いていたり、お店に入ったりすると、自閉症の自分はいろんな音が聞こえてくる。全部の音を拾って聞いてしまうので、うるさくて、耐えられなくなると言うのです。私もどんな音が聞こえてくるか気にかけていると、電車の中がうるさい、特にトンネルに入ったら、その轟(ごう)音たるや耐え難いものでした。また、TVスタジオで背景がきらびやかすぎて、落ち着かず、いたたまれなくなるという証言もありました。これは色の騒音だと思います。それが象徴するように、私たちは「立ち騒ぎ」の状況にあり、それへの救いのメッセージがこの詩篇にはあるのではと思います。

◇エジプトで、エルサレムで、騒ぎ立ったが…
「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた」(46:5-6)とあるので、聖書の出来事に思いをはせてみましょう。
 イスラエル人がエジプトの奴隷となっていました。過酷な労働や人口抑制政策に耐えられず、主なる神に叫んでいました。神がモーセを立て、パロ王の前に出て、対決する。神の民の解放のため、主はナイル川の水を血に変える災いをエジプトにもたらし、彼らは騒ぎ立つのである。しかし、パロはかたくなに解放しない。そういう災いが何度も何度も起こされて、ついに解放され、神の民はモーセに導かれ、エジプトを脱出。それでも、出エジプトした民をパロの軍勢が追ってくる。紅海(葦の海)岸に追い詰められ、今度は、民は騒ぎ立つ。神の声がモーセにあった。杖を差し伸べると海は分かれ、民が渡り切り、追っ手は海が戻って、呑み込まれ、民は救われ、踊って喜んだのです。
 イスラエルが南北に分かれていた時のことです。北イスラエルがアラムと連合軍をくんで、南ユダ(エルサレム)に攻めてくるという報告があった。すると「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」のである(イザヤ7:2)。預言者イザヤは、それは起こらないと安心させ、むしろ65年後に北イスラエルは滅びると預言する。現実にアッシリヤ軍が北イスラエルを滅ぼし、次は南ユダに迫り、エルサレムを包囲したのである。降伏せよと怒鳴り、騒ぎ立つのである。城内の民は王の命令で、黙り込んでいる。
 ヒゼキヤ王は真剣に祈る。預言者イザヤに神の声があった。「わたしはこの町を守って救おう」(イザヤ37:35)。奇跡が起こる。「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り…」(同37:36-37)。
「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた」のです。
 こうして、「神の民」存亡の危機の時に、そこに助け手となられたのです。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」(46:1)。口語訳「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」。共同訳「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこ
にいまして助けてくださる」。

◇ガリラヤで、ゴルゴダで騒ぎ立ったが…
 その旧約の救いの神は新約の救い主です。それはこの出来事が証明しています。聖書を読みましょう。「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。『主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。』イエスは言われた。『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」(マタイ8:24-27)。心が騒ぎ立つ弟子たちを救うため、自然界に命じるのです。風よ、湖よ、静まれと叱る。凪になったのです。前述の奇跡をなした救いの神だということです。
 もう一度、似たことがありました(マタイ14:24-33)。弟子たちがガリラヤ湖の向こう岸に舟で渡ろうとした時のことです。「風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、…弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『あれは幽霊だ。』と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた」のです。立ち騒いだのです。
 そこでイエスは言われました。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と。まさに「悩める時のいと近き助け」です。「わたし」は創造の神、出エジプトの神にしか使われない「わたし」です。
 調子に乗ったのか、海上を歩きたいと言うので、ペテロが少し歩いた。「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください。』と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ」のです。弟子たちは信仰告白をします。「確かにあなたは神の子です」。
 私たちの人生、教会の歴史にも、その船が荒波にもまれ、騒ぎ立つことがあります。しかし、その船の中におられ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と優しく、力強く語りかけます。風と湖をしかりつけられ、大なぎにされるのです。宗教改革を進めていたルターはどれほど、中傷、誹謗を浴びせられていたか。そうした立ち騒ぎの中で、この詩篇46篇が大変な支えになりました。賛美歌も作りました。「やめよ(静まって)。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」(46:10)。

 「騒ぎ立つ」で決して忘れてならないのが、主イエスの受難です。ゲッセマネで、主イエスは心が騒ぎました(ヨハネ12:27)。人類の罪を背負い、贖いを成し遂げることがどれほど過酷なことか、苦しい事か、「わたしは悲しみのあまり死にそうです」と訴え、この苦い杯を過ぎ去らせてほしい、しかし、御心なら、飲みますと三度も祈ります。祈りの中での騒ぎ立ちです。御心に従い、十字架に向かいます。一方、ユダヤの当局も、イエスの出現に自分たちの利権にかかわるとして、立ち騒いでいます。強引に主イエスを逮捕し、裁判にかけます。ピラトの前で、「十字架につけろ」と群衆を巻き込み、シュプヒコール。
 しかし、主イエスは人類の罪を背負い、贖いを成し遂げられたのです。そこまでしてくださったからこそ、私たちは罪と死と滅びの荒波から救われるのです。騒ぎ立つ魂に「やめよ(静まって)。わたしこそ神であることを知れ。」という御声を聴きましょう。