Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

「クニボウを囲む会」速報

2005-09-12 23:25:58 | ローカルな話題
 
クニボウ、自称、流木庵圓山、本名、早坂邦三郎、75才、元仙台一高バレー部監督。

われら団塊の世代。
 高校バレーで監督にしごかれ、やっと大人として扱っていただいたと思ったら、あっという間に40年。
先生の喜寿の前祝第一弾、正直言えばお元気なうちにと、多くは東京方面、玉造先輩などは韓国からの駆けつけ、久々に「せんせいを囲む会」となった。幹事はドクター樋渡、江川(陳)のため、何があっても安心。
 時は、平成17年9月10日、11日。
 所は、同級橘君の秋保温泉 岩沼屋

 当時バレー部のマスコットと乳飲み子、ご子息ふたりはいまや青学と仙台二高の教職に。そしてほとんど家にいないご主人、ご両親の世話、押しかけるOBまで奥様が一手に!幹事・主治医の陳のお手柄、ご家族お揃いでおいでいただけた。

 1964年卒の村田、荒井両先輩から、1970年卒決勝戦やっとバレーになった少年剣士櫻田まで24名集合。[   ]画面上で出席。
 この年代から宮城県総体6人制バレーに、優勝、ベスト4、ベスト4、優勝、ベスト4、準優勝、優勝。

 東京五輪の1964年、常勝ガマ女育てた早坂監督着任、OBコーチ自主練習の伝統から近代バレーへ!?
 東北大新入生だった村田コーチの日記、「1回戦からやっと勝つテイタラク、明日は勝ち目あるまい。荒井、[太田]、[峰岸]と山口パーラー...」
 ところが前年新人戦優勝校・仙台工を気力で破りベスト4に。3セット目の吉野先輩のコート上の声「泣くなっ杉!」。[山形]先輩あれだと、マトモな運動神経は二人のみの筈!水戸、星、本郷1年生まで入れて精神力での奇跡の勝利。全員大泣き。大先輩たち又々山口パーラー怪気炎、ひょとしてインタハイ!?
 [戦力イマイチの2年生が慶応の電気自動車清水教授、努力家の成広先輩、秀才ソーキツァン]
 ここまで、われわれ入学前年の伝説。樋渡先生、思い出すたび瞳ウルウル、本日は涙ぼろぼろ。

 さて、せんせい、何か言ってるぜ。
「...水戸、石川の大砲ではあたりまえ、(二枚セッター星Hoshi・本郷さんはスキを見て勝手にセンタ攻撃!)
おれは、陳のライト打ちで発見したのョ、大和田はな、それを真似して引き継いだ。(東北福祉大教授で全日本)以来、ライト攻撃が宮城県の武器になった....陳はカラダ壊し壊し大変だったと思うよ、えらいよ、親父の願いどおり医者になった..」
 でも、水戸、石川、星、本郷、樋渡、玉造、渡辺、[高橋]さんにインターハイ連れてってもらった。チンの驚異的レシーブ、全国ベスト32。バレーキチガイ星さんは卒業後クニボウ目指し母校日体に、肌合わずすぐに帰ってきた、それでもせんせいはホシッ、ホシッと四十数年。


 次のわれわれ年代の早坂が大事に保存していた先生の指導メモ1967.3.24の日付。

「陳、手を開いて打つ.....ボールに「ふれる前」「ふれてから」瞬間的にあきらめてプレーする時が見うけられるが(心の問題)..意志力それを起こさせる考え方、最後までプレーをステナイと云うことが大切であり、瞬間、瞬間を全力を尽くして闘う闘志がつみ重なって不可能を可能にし、技術を上達させ、ゲームをステナイ、粘りのある一高バレー部が生まれる。
 人生の闘いに於いても、粘りのある人間として成長するのであり、プレーに於いて瞬間的に「アキラメ」それがプレーで成功しても、心の闘いでは負けである。自分で心の闘いに勝つよう、心との闘いです。」

 ということで、、「ラストワン」のあともキレイに上がるまでレシーブは10本も続く。毎晩8時9時、土日は山形東、南、保原、、はては、東北大、三島女子大まで連れてきてのデスマッチ!ヤマトーは頭使った一見手抜きバレー、十数セットやって勝率3割。ヘトヘト。おーい、サダケ、コマイダ、くるま洗っておけ、笛吹け、まさし遊ばせておけ!MAZDAキャロルはピカピカに!
本日、せんせい「わるかったなあ、駒板、ゴメンな」、せんせ、いいってば、ガラス磨いたおかげでカメラメーカの重役になったんだから!
 はいっ、立派になりました!おい、我がエース金子(飛ばないためクニボウはアースとか呼んでいた)、千葉、駒板、佐々木、このメモ見たことあるかい? ハテ?しゃね!!粘りのある加賀谷は母校と一女でコーチをネバネバ二十年。息子はバレーをやらず一高では軟式野球のエース。

 せんせい、一高のあと野外活動センタ勤務、われわれの次、都竹、工藤は、ここでこき使われたのか、遊んでいたのか、工藤は夜外活動でミドリチャンをゲット、以後の人生ストレス無縁の様子。大内は「ガン箱にはエンジ色の優勝ユニフォームを入れろ」いまだ直接的プレッシャ、今、先生若き日にいたガマ女校長。クニボウのまねで多賀城バレー鬼監督するも多賀城駐屯地から大竹金弥校長兼和尚そっくり顔の同期郡山司令の度々のヘルプを仰ぐ羽目となっていた。

 しかして、その下、内海は3年ごと優勝だ!の意思と努力、優勝キャプテンで現役一橋!
少年剣士櫻田は、この決勝でバレーに開眼、前橋インターハイ会場の前では今度は生保支店長をやった。この世代は優秀、[伊藤マーちゃん]は、シリコンバレー!
 さて、主将というものは[公夫さん]、わが佐々木、工藤と、粘り<才能 にて指名のはずだったが?

 学生時代のあちこちのコーチ義務は当然、尚絅女学院持たされた玉造先輩、以来40年いつもニコニコ。一高バスケの一夫さんも星さん同様、クニボウにはカズオ、カズオで四十数年。 どうも、クニボウという人は教え子がすでに卒業しているとは考えたこともなかったようだ。
 こちらも、なにせ校訓が「自重・献身」、校歌は、「赤き真心ささげもち御国のために尽くすべし!」

 最後の9人制の年でインターハイ、6人制初の総体では優勝の荒井大先輩、加賀谷、マッチャンとともに宮城県の多忙な時間を活用、一球会50年記念誌もまとめてくだされたうえ、しかも後輩にまことにやさしい。「佐竹、AIDS検査ならいつでも直ぐこいよ」
 バレーを途中でやめていったのも多かった。が、せんせい、バレー部卒業生にはレギュラー以外のボクらも分け隔てなくあつかってくれた。 

 石川先輩は内閣官房などの激務、
「家は親父も,4人兄弟のすべても一高出身。さらに親父は教師でもあり,一高のような自由でいい加減な雰囲気を当然のこととして育ったし,もしバレー部に入らなかったら,決してそれ以外の空気にふれることはなく,(別な価値,可能性を)考えもしなかったろう。 そんななかで,クニボウに出会ったのは大変なショックであったし,ものすごい反発をおぼえた。そして今考えてみれば,先生への反発こそが,その後の人生の出発点でもあり,ばねにもなった。役所に入って,苦しくて何度やめようと思ったことか。そのたびに,一高で,(意に染まぬ状況に)反発しながらも,それを乗り越え,がんばってやりぬいた経験を思い出し,思いとどまることができた。先生の指導を受けたバレー部の3年間がなければ,間違いなく役所も辞めていたと思うし,現在の自分もいない。本当に,先生にお礼を申し上げたい。」(本日、これまた栄二クンがちゃんと聞き取り)
せんせい宅2階にたむろ、テツマン、雑魚寝、飲酒に、屋根からションベンとナマの話は言わず、青少年健全育成施策の政府委員答弁。

 奥様によれば、野外活動センタこれが一番好きだったみたい、一女バレー、常勝仙台高バスケ立上げ、凧遊び、陶芸、茶室自作庭園500坪、、、会うたびに熱中してることが違い、手間ひまカネ、労力がかかっている。あッ、労力は、体力づくりと言われて陶芸用粘土運びで、仙高バスケ部生が受難。

<ご長男 方志氏によれば、...ウコッケーなどの珍しいトリを500羽飼っていたなど、実はもっとたくさんの、常人を越えた趣味?の遍歴があるので、弟と母は戦々恐々としています!...>

 奥様;「よく、これまで、がまんしましたぁ(笑)...」 でも百まで、まだまだ、がまんだよ!


コメント
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