Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

八洲男さんからの手紙

2014-05-30 23:24:25 | なんでもあり・ファミリー

 

今日は母の四十九日のあたり日だが、夭折した父の誕生日なのだ。不思議にもドンピシャとなったわけで、母も彼岸にお着きのころだろうし91歳の誕生日祝いをしてくださいな。母の遺品の「八洲男さんからの手紙」という古ぼけた封筒に数通の手紙やはがきがあった。半世紀まえに書かれたものだから僕が小学生の頃のものだ。こんなことを記録していると、またムスメから叱られそうだが、ICLOUDにこっそり置くよりも供養になるだろう・・・昨日は徹夜で帰ってからちょっと寝たけど、時差ボケ・・・

そのひとつ昭和36年1月31日付の父から母への手紙。37歳だった父は仙台への転勤で前日に着任。妻を亡くし再婚などで異動がままならず現場の課長を5年もやっていたから管理機関の経験をということらしかった。交換網設備の建設の中枢の部署への辞令、東日本縦貫同軸やマイクロウェーブルートの背骨の形成と電話網の自動即時化工事がまさに始まろうとしていた。

引越しは子供の学校の修了を待って3月下旬、1ヶ月半ばかりは大崎八幡神社の近くの笹森にあった単身赴任寮にいた。寮を引払うとき、春休み僕は父に連れられてこの寮に行った。坂道を登ったのがついこの間のような気がする。

父や叔父たちは教育者の父親から徹底的に仕込まれ、みな字が上手だった。走り書きのこの手紙も達筆すぎて読めない(XX)部分があるが、中身は実によくわかる。父の四十九日に入社した僕も在職年数だけは超えたが、とても足元にも及ばぬ人格とキャリアの大先輩だった。健康ありせば、相当に伸びた人だったろう。 腕時計は母からのプレゼントなのか、喜んでるな・・・東北館内や大阪まで出先からはマメに手紙を書いていたようだ。多忙とそれまでの無理もたたったのかこのあと1、2年で体を壊した・・・

読めない字句は、法名録で正徳2年(1712年)没のご先祖まで遡れる父の生家で一緒に育った新田の英子叔母に聞いてみよう。学友が書かれた祖父伉治の碑には、「・・・令息八洲男余ニ文ヲ嘱ス・・・」とある。末っ子だったやっこちゃんはかわいがられて親孝行だったようだな。この手紙のときの親父と同じ歳で僕も、父のいた建設、施設の本流の隣でソフトをやって東京へ2度目の転勤、ひと月半でどういうわけか引越し代まで使い果してしまった・・・父上許したまいてよ我は不肖の子なりき・・・

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慌しくご苦労をかけましたが昨三十日予定どおり安着しました 福島駅ではぢいちゃんから聞かれたと思うが非常に沢山の人々の見送りをうけ期せず万歳の声もおこり汽笛がなって動き出すと 名前を呼んでくれるもの ホームの終わりごろまで来てくれるもの やっぱり感激にひたりました

瀬上通過の頃から車内の転勤者同志の挨拶が始まり色々と やはり福島の思い出話に花が咲きアットいう間に仙台着
松井氏始め多数の出迎えをうけ通信局に第一歩

早速通信局長以下関係部挨拶まわり どこもかしこも関わっている人が多いので中々思うように捗らず一たん中止 午後二時食事(天ぷらそば 二五円)直ちに事務引継で五時 新任課長が宿がないので近くの旅館に同宿して暫し今後の方針について打ち合わせ(市内 寮満員、一般旅館七百円)二人でミカン 一〇〇円食う(ウラヤマシイ)(XXに)就寝九時半でした

今朝七時四十五分(セイコーロードマーベル)起床 例のとおり(かみそりきれないのでイタイ)朝食をカッ込んで通信局にかけ込む 時に八時四十分 殆どみんな出勤していた

飛内課長は引越しで今日昨日休暇 安倍君を(XX)して全員出張 課長代理で初めての書類ばかり 四苦八苦(一応マジメに書くとコウダが実はウマクゴマカシテ代理印を捺す いくら逆立ちしたって昨日来たばかりでわかる筈がありませんね)しているうちに晝一、 駅之(XX)送り 帰局食事 ゴ一・三〇(セイコーロードマーベル) 直ちに二月分時間外労働予定全員取りまとめ組合え提出の資料づくり(東北管内出張先の監督え電話してとりまとめ)時にゴ三・〇〇 今日は早いうちにネグラ之落ち着こうと ゴ三・二〇頃(XX)をチョロマカシテドロン

電車で北仙台之、 仙台駅前で市電乗換中に 四郎兄に偶然会う、びっくりした、まだ知らせてないのに。(校長試験に来たとか) 停留所で立話し五分で別れる 仙台も狭いものだネと不思議に思った

北仙台で無事荷物を受取りハイヤー(三五〇円)で寮之、一寸と山沿いに登るところだがもう雪が多く三寸位はあるだらう 宿舎の軒には氷柱が垂れ下って雪国之来たような感じをうけました ト云っても心配ご無用、乗物之の距離は電車もバスも近いところです 早速荷物を開梱、全部無事でした、 寮母に挨拶(砂糖五百匁)寮長に挨拶(菓子折り三百円)、同室者は外泊のようで今晩は独り 寝言もいうんではないかと思いますが一人ですので今晩は気楽ですのでこんな長い手紙を書いて了った

十時半ですので寝みます 疲れないよう気をつけますから何も心配要りません
みんな之 暫く留守を頼みます 取敢ず報告まで

 三十一日 (XX) みんなによろしく

よしこ どの

急いだので乱筆 ご判読願います

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緑のそよ風

2014-05-10 23:42:15 | なんでもあり・ファミリー

樹々のみどりが目にしみる五月のさわやかな季節になった。このところチト風は強すぎるけど・・・♫みどりの、そっよっか~ぁぜ~い~い日だっねぇ~。小学校6年のとき合唱の課題曲だ。おかげで覚えているので良しとするけど、転校してきたとたんに学校代表のメンバーにさせられ練習は毎日だし大勢のまえで歌うわけで、なんで僕がとなんとも嫌~な感じがしていた。(ん?、♫たの~しやぁ~、ごがぁ~つ、くさぁ~きはもえ~、だったようだな、どうも。それだとこのお題は取り違えだな、認知&健忘症の進行、ぜ~んぜん楽しくないっ、5月だ!:後日追記)

母の四十九日ももうすぐ、あっという間に時間は経つ。年度という区切りでは4月は始まりで町内会やテレビ組合の役員をまたまたやることになっていたから、お葬式やらのとんでもない出来事の間隙を縫っての総会や会合、スポーツ祭準備などやらねばならぬことばかり。なにごともイヤイヤやるか手を引くとずっと気分が悪いというのが、ご幼少時の経験以来わかってきたので、まあいいかと、平然とやっていることにした。

そんなこんなの用事で、今日も青空ひとりっきり、町内などを走り回っていたらここ仙台郊外の団地は緑がいっぱい。防災無線も写ってるけどあまり大活躍しないでほしいなあ・・・お隣のサッカー場ではJ2のSony Sendai FC が横河武蔵野FCとホーム戦とか。グラウンドの金網の隙間からでも観戦できるのだがそれは申し訳ないので、多賀城の名物とかいう、塩味と醤油味ハーフ&ハーフ「唐揚げ」を買って帰り着いた。思いつきで撮ったスマホの画像を見れば街路樹の風景には大きさはあるが(画像サイズもデカすぎだね)色彩の豊かさは乏しい。よって、ミラーレスの目を通した我が猫庭の小さな花たちで彩りを添えておこう。

         

    

 

 

      

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いまごろのお花見

2014-04-28 21:48:47 | なんでもあり・ファミリー

ことしはご法事やお葬式ばっかりで花見どころではなかったが、母の保険などの手続きで区役所に行ったら、八重桜やしだれ桜が4月末というのに見事な咲きようであった。桜が好きだったひとたち・・・お花見しようか・・・ハナミズキもあったよ

    

ここ、仙台の若林区役所は明治から昭和まであった養種園の跡地にある。この近くに住んでいたときはバス停は三角公園、養種園でのバラ祭りは毎年にぎやかだったなあ。向かいには伊達政宗のご母堂を弔うお寺保春院。政宗晩年の住まい若林城(今はなんと刑務所)にも近く、伊達家別荘があったところという。このあたりは縄文時代からの遺跡も発掘されたようだが、いまや区役所、文化センターとやらにすっかりさまがわりしてしまった。これが我々の時代の遺産というものなのだろうか? 

    

養種園のころ園内を流れていた七郷堀の水流が、いまもこのあたりだけは地上に現れていて昔の面影をとどめるよき風情。縁もゆかりもない郊外のこぎれいなだけの団地よりか、ふるい街中に住んでいた方がこれから面白いかなあ・・・近くのラーメンの「味よし」30周年記念とかで、39円だった!

    

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花画像屏風篇その2

2013-05-25 22:30:00 | なんでもあり・ファミリー

上の方の画像の日付は5月の連休あたりの頃だからもう半月以上前。花の季節はめぐってきたが・・・母の日になればあ~などと歌っていたら「おばあちゃん」の四十九日だったり、母の命日思い出したり、ことしは花盛りの気分ではなかったな。庭のハ~ナミズキもほったらかしで薄紅色つけず・・・まあ、そうはいってもいろいろあざやか。画像屏風篇その2としてとっておこう。
ロクに手入れもしてない木に咲く花ばかり 。黒竹クンもとってやるべきだったが、タケノコ生やしすぎるよ、柔らかいとこだけ味噌汁に入ってたぜ・・・

  春は梅から。おばあちゃんの八重さくら、今年はこれだったのに・・・

   赤い椿白い椿と落ちにけり、いざぎよく

  はなかいどう、はなずおう。カイドウは見直した。

  りんごの花、ハナミズキは・・・百年続きますようにね

  霧島ツツジ、門柱はアイビーで表札も見えず

  邦坊にもらった山つつじ鮮やか、やえつつじ清楚

 

  やまぶき黄色、どうだんつつじは緑白紅と年に3色だよ

  地面にちいさき花、青、ももいろ、なんかミツパがはびこってるなあ

 

  アザレア、シャクナゲ、すこし遅れて来て、派手だな西洋のは・・・

  紫もくれんは切りすぎた、薔薇のあたりに毛虫の巣!!、殺虫剤も撒かないからなあ、いい虫か悪い虫か見分けもつかず、そもそも善悪とはなんだろ、ともかく「沈黙の春」ではなかったようで・・・

 

 

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図屏風の一日

2013-05-23 22:40:14 | なんでもあり・ファミリー

 
今日何時に来るの?とムスメのメール。バイト10時迄やってるという、まあ着くのはそのころだろから入れるだろう・・・自分で電話もしていないで泊まろうという訳、いいかげんなオヤジだなあ。鷹の台のコンビニでお土産かって、これまたいいかげん。玉川上水沿いの小道を行こうとしたけど、暗くて怖い、ちがう道も忘れたので、これはムサビと目星をつけた若者に聞いたら、ずーと行って右だと、ばちっし。

翌朝は日曜日。とっしょりは起床6時、なによ8時まで寝せてよと階上(ロフトというの?)から声ばかりが降りて来た。外は快晴、昨夜怖くて歩けなかった玉川上水の小道にいってみよう。散歩や、ランニングのかたが、おはよう、などと声をかけてくれるので、にわかハイカーみたいに擦れ違う人に、おはよ~。またまた私鉄の駅まで歩いてしまって7−11ブランドのサンドイッチやら生ハムとかエスプレッソとか、朝食を調達した。おっと朝何をたべて、ダラダラ作文の見本みたいになってきたぞ。もっとも、この土日、ちゃんとした予定は同窓会の15時集合だけ、家を出てから成り行き任せ、さしたる予定もなにも・・・一日を画像屏風?にすれば、こんな・・・

  

あと30分、ムニャムニャ・・・、もう9時近いぜ起きろ。上野の国立西洋美術館でラファエロ展やってるから行く?と、昨夜ムスメは言ったはず、割引券有るよ~。自分は美大生、フリーパスなのだ。そのまえに根津美術館行くけどぉ~、19日までの展覧会。なにっ?美術館のハシゴ?暇なんでしょ?根津ってどこだ?表参道でおりて・・・。おっと、行く行く~、とあいなった。
JR週末パスもってたのでメトロはやめ、原宿からぶらぶらと歩いた。同潤会APってのがあったなあ・・・

  

ずいぶん歩くじゃない、246渡ってすぐそこだよ、やっぱ少し遠かった。あっちに青山1丁目駅あるよ(うちは宮城郡の青山3丁目、お嬢は青山小学校のご卒業!?)、あら青学の縄張りかな?、この辺は南青山3丁目、ご本家は雰囲気すこしちがうかなあ・・・ 


       

根津美術館、 なにやってたかというと、「国宝 燕子花図屏風 <琳派>の競演」尾形光琳、琳派と同時代の作品展がこの日迄。「燕子花図屏風」は純金地に燕子花の群れの大屏風、これの写真を5枚も買ってやったがどうするのか、おう、折りたためばミニ図屏風になるんじゃないか?ここの日本庭園もぜいたくなものだが、美術品のコレクションといい、財を成したときはこういうふうに使いたいものだ・・・庭園を散策すれば、池に花の群れ。花は終わりかけているが、これが燕子花。カルタもいいけど、光琳さん、燕子花の葉っぱの一気の筆遣いなどみごとなものだ。
   

美術館を出て、またぶらぶら。こういうとこは路地に入るのいいんだ、小さな花屋さんがあった。覗けば、奥になにやら面白そうなお店がならび、すてきな老眼鏡があるがなんまんえんとか・・・
   

おっと~、とおりぬけたら開けたスペースに出て西洋屋台らしきところ、たこやきまでがオッサレーな味?もうラファエロ君は今日はいいや誰かと行けや、そうだラファエロはサンタンジェロでガイ骨になって寝てるんだっけ・・・・美術館のハシゴをすると気が散るよ・・・やめとこ。

   

WESTの黒っぽいフルーツケーキと塩クッキー何処で買えるだろ?ムスメ、かんたんに調べる、東京駅おおまるあたりだね。ん?大丸だ。ついてってやるけどあたし6時からはバイトなんだから・・・そうだ、7時からオレも、ふるさとスポーツ祭の人集め集約だったっけ、妙な予定あったのを思い出した・・・

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40年後のクラス会

2013-05-21 01:29:17 | なんでもあり・ファミリー

 「昭和47年3月卒業以来40年余、そろそろ現役引退の年頃となり・・・」というクラス幹事の須佐さんからお手紙、この人にはお世話になったからなあ。一球会/高校バレー部OB会も定期戦の日だから重なってしまったが、何十年振りかのほうには調布まで是非行かねばならぬ。

同窓会とは、おやじも卒業した旧逓信省の官練の伝統を受け継いだ電電公社にあった大学のクラス会。評論家草柳大蔵さんが文藝春秋連載の「企業王国論」で、電電を大卒地獄/高卒天国と表現した昭和3、40年代頃、その後30万人までふくれあがった公社でも本社採用学卒は300人程度の時代、ミドル養成の一般教育機関も必要だった。いうなれば電電兵学校、この「大学部」は僕等の頃で、業務系100名、技術系240名、在職年数最低2年で入学出来たから学生の平均年齢は23、4歳。社会人だから一般の大学とは違ったものの給料貰いながら全寮制で勉強と部活やっていればいいわけで、入試倍率は25倍。ボクは受験のプロみたいな高校にいたお陰で、一夜漬け対策はお手のもの、過去問調べヤマを全部当て天国のオヤジも後押ししてくれたのか自分では(?)満点の出来。二次試験のあった日曜日、この日も夜勤だったが電話局に向かう途中、うわ~これで学校に行ける、4月には東京に行くんだと思った瞬間、晩秋の夕暮れの仙台青葉通がとつぜん昼間の様なあかるさになり街の灯りが痛い位に眼に飛び込んで来た。こんな不思議な体験はこの時ばかりだ。

    一階いちばん手前が1年時の教室だったな

 

あれから、もう40数年、第5回生合同のクラス会、平成25年5月18日(土)、この日の参加者全国から85名、恩師4名。新設なった寮の食堂はホテル並みではないか。ついこのあいだ桜満開の並木道をくぐって入学したのに、実人生で一仕事終えてみれば、もはや物故者/消息不明が各クラスで7、8名ぐらいもいる。現役のまま亡くなった方も多い。リストを見れば、当時の顔と声までありありと浮かぶ。彼等への黙祷から会は始まった。此処にあの人たちも是非居てほしかった、特に佐藤英昭さん・・・

 今回幹事の須佐さんは、シルバーっぽいブレザー。卒業した年、本社で勉強し直してこいと言われ、須佐さんのアパートに半年居候したっけ。寅さんの口上をずいぶん聞かされた記憶あり、彼の最近の住所は柴又。さて、いまや天台宗福寿寺の矢橋住職はネクタイ姿で!

 

 オウオウ、ハテ誰だっけ、企業内大学だから仕事で直接関係した面々もいるが、何十年振りもまた多いからお互いなつかしい顔と顔。同じ経験、おなじ釜の飯を食った連中、構える部分は全く要らない。その後の仕事の歳月など本当にあっという間であった。殆どの人65を過ぎてリタイアしてしまったようだ。いまだにフルタイムやってるのは、ちゃんと勉強してその後もひたむきで今は経営陣にいるかたと、はたまたボクみたいなハンモックナンバー200番台の年金年齢未到達の窓ぎわ組。

此処でも、バレー部に入っていた。9人制から6人制に変ったころだが、放課後きっちり練習してるのだから調布近辺の実業団の大会ではよく優勝した。ボクはきまぐれで練習をサボるのでキャプテンもさせられた。バレー部長、まじめだったUさんは今いない、ずいぶん前に自ら命を絶たれた。元気でこんなことが出来ることが、みな、今うれしい。
  バレー部のエース山口・田辺とレシーバ3人! バレーのインターハイにも出た田辺の家の裏山はスキー場の様な感じ、彼は長野五輪のサポートもこなした。山口とは博多の駅でばったり会ったとき奴はバリバリのキャリアウーマンを連れている、このヤロ。加納は松山に家を持ったが東京単身が延べ十数年だったとか、いまカミさん孝行中・・・まん中の佐々木さんはやさしいお兄さんだった、今、先生やってるとか。

 

ボクのいた「武蔵野」寮は20歳で入った最年少組が多く、東京に来てみりゃ面白いことばかり、ボクの部屋はひと月も経たないうちに雀荘と化し休みには新宿やらをうろつき、ブール代数や回路網、電磁気学、経済原論どころの話でなくなった。教授陣は東大、東工大、早慶から教授/助教授が来ていただいてその先生の本が教科書なのに、徹マンあけで寝坊ばかり、担任の内田先生にたたき起されて授業に出るには出るのだが、階段教室後ろの方で目立たぬように夢の中、で講義はチンプンカンプン。しかしだ、今日の出席者でも、大学講師やってるかたや、ワセダの修士課程在籍というご仁も居るから、まあ、人間というか心がまえというか、上昇志向というか、そもそもちがったのだろうなあ・・・

  三鷹で同僚の土谷、趣味は読書と貯金と親孝行やでぇ~(??)と、本社でそのままVon君とも机を並べた 、まあ、関西人はこれやでぇ・・・ 次回は神戸あたりで、欠席裁判で岩井さんが幹事だよ~    

 サッカー部の雀士・金沢の柳瀬は鮮やかな手つきで、僕等から巻き上げては仙川の美人女将のとこに足しげく通われていた。こっちはスナック・マドンナでウダウダ・・・いつぞやテレビ会議の画面で会って以来だね。

 

 

 教程課長・バレー部顧問だった峠原先生84歳、ご趣味のウィスキー瓶の帆船は舷窓にLEDと光ファイバーで明かりがつき、かわいいペンギンも乗っている! まん中池田は、わがギョーカイでいえば、ぼくとは、エベレストと泉ケ岳ぐらいの標高差。        

  
  ちゃんとおべんきょうしてれば、ちがう人生もあったかなあ・・・

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うすいのおもい

2013-02-17 14:28:15 | なんでもあり・ファミリー

「季節はなぜあるの?」とかんがえたことがあったけど、あれからもうさらに7かいも太陽のまわりをまわってしまった。そのあいだに、みんしゅとうせいけんなど彗星のようにあっけなくきえたのか、はたまた、隕石のように空中ではれつしたのか、まあそれはおいといて。にじゅうしせっき、りっしゅんのあとは、うすい、こういうことばは漢字でないとわかんない、二十四節気、雨水、そらからふるものが雪から雨にかわり、雪がとけはじめるころのはず、ちほう都市のまちはずれ、とけない雪がまだたくさん。きのう、病院行き来もさむかった、きょうは青空、ほんとうの、春よこい。

うぐいすいろのめじろも来ているようだ。いつも干し柿ばかりじゃね、きょうは、らふらんすにしようね、食べどきがむずかしかい果物、もはやそれをのがしたので、きみたちにあげるよ。

半世紀もおせわになっている名物監督せんせいも、つまの母親「おばあちゃん」も、ずっと病院のなか、もうすぐあったかくなるんだから、きっとよくなってよ。たすけも、がんばってる、げんちゃんもアトピーで2週間ごとに診てもらってよくなってる、でもかれらのくすりの高すぎることといったら。

そんなこんなでずっとあたまがへんらしく、きらくに週刊誌ながめていたこの数ヶ月。がんばりますっ、元きゃんぎゃるさゆり嬢が当選ばんざいヘソ出しさーびすとか、ビジュアルなところはよしとするが、斜めからの、ひにくっぽい記事ばかり、なのでもう厭きた。月刊誌はどうかと、文藝春秋をじつにひさしぶりに買った。早稲田で、寺山修司の1、2級下、幼女からそのまま老人になりました、とおっしゃる黒田夏子じょしが、「abさんご」で、早稲田文学新人賞につづいて、芥川賞、75歳にして文壇デビューとか。「・・・生きているうちに見つけてくださいまして、ほんとうにありがとうございました」と、受賞のことば、よこがき、ひらがな、すぐに影響されてまねしてみる。だが、声に出してもここちよく、ことばのリズムもたいせつにした表現のオリジナリティには、半世紀の時間もないほうされているのだ、ふざけてはならない。むむ、そうはいっても、おもしろいことだ、よこがきだから、雑誌ではうしろのペーじから逆によんでゆくことになる・・・

このところ、すとーりーがあって、なにかずっと考えているような、ふしぎな夢をひとばん数回もみたりして、頭脳がかんぜんに休んでいないような気がする。いいだばしから神楽坂あたりぐるぐる歩いて、ここだよ下宿と、りっぱだがふるそうなかまえの家の二階にあがっておともだちと遊んでいた、というものがたりがきのう。どうして行ったことも見たこともない画像と、能書きが湧き出るのだろう・・・

くったくなくげんきなのは、ムスメだけか。まだ画学生のひよこのはずだが、今週19日から個展をやるそうな。アクリル絵の具メーカ主催のコンテスト、そのときのごほうびらしい。げーじゅつや、だいとかいのけんそう・・・ろっぽんぎでの個展なんか、まるでべっせかいのできごとのようなのだけど・・・

 リキテックス アートプライズ 2012 準グランプリ展 佐竹真紀子 個展  「いつか芽吹く日に」  2013年2月19日~3月9日 / GALLERY TRINITY 

 リキテックス アートプライズ 2012

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(以下、おやじぎゃらりい:こてん・ぱん)

              

この冬もいっしょに過ごせてありがとう          昼寝ても夜も眠れる不思議さよ

 

     

通院はストレスなれど優等生               おんぶ好き子猫がもはや不惑とか

 

          

 寒風におよぐ身しらず鳥の餌             この庭でよくも孵れり蝉五匹

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夏の松島の写生

2012-08-20 21:05:27 | なんでもあり・ファミリー

子規に習って、松島を写生してみようと思った。が、どうも目前に見える事よりも何十年前のものが見えてしまった。

♫ まつっしぃーまぁあーのぉ さぁあーよぉっ、ずぅーういぃーがんじぃー ほぉーどーぉのっ、
てぇーえらぁわぁーなぁあいぃーとぉーえぇぇぇー ♫ あれわぁあ、え ぇぇーとっ、そぉおーりゃぁー、たぁあいりょーだぁーえぇぇぇー ♫ 
これは、しごとのセンパイMサンの十八番であったな、のんでれば、東北の民謡が必ずでる、ここまでいかないとお開きになどならない。だれかが繋ぐ。
♫ ♫ おっせやぁあ~お~せぇ、お~せぇ やれっ、にいちょろでぇ~、お~せぇ、お~せぇばあ、みいなーとーが、はあ、ちぃーかぁーくうなるう・・・
はぁ~ 三十五たぁーんの 帆をまぁーきぃーあーげてぇー ゆくわあ~、せーんーだぁーい、いぃーしーのまき、(よぉーい、よぉーい、よいとなっ)

ドンドン、みなチョーシが上がり・・・あーそれっそれっと、こっから、秋田オンドになる・・・
(きたかさっさ~~ ほいさっさー、 ほいなっー、どん!) 

 ♫あちためぇーぶづ、はぢぃもり、ハダハダ、男鹿でおがぶりこっ、(あー、それっそーれっ、)
能代春慶、檜山納豆っ、大~館曲げワッパ 、(あー、それっそーれっ、)
あきたの国だば雨っこ降っても唐傘など要らぬぅ、手頃な蕗の葉サラリと差し掛け、さっさと出て行がい~、(あー、それっそーれっ、)
あちたのおなごは、なじょして奇麗ぇだと、聞ぐだげ野暮だべさ、小野の小町の生まれ在所を、おめだぢ、知らねのがぁ?~(あー、それっそーれっ、)・・・このへんまではいいが、しかしこっからが本番・・・

♫ ♫ うぢのじっちゃと、となりのばっちゃま、この世のなごりに、いっぱつぶっぱめた(あー、それっそーれっ、)
イグのイガねの、掛げごえばっかす、そのうぢ、夜が明げだぁ~、(あー、それっそーれっ、それがら、どーした?)(どーにもなんねぇべした・・・、だれか、つぶやく)

   

瑞巌寺ねえ、半世紀振りで入ったような気がする。1歳半の妹がピンクの可愛い服を来てよちよち歩いている。父はコニカS−35で写している。あの年の夏まで一家は平安であった。遠き日の記憶映像、革ケースのカメラは今仏壇の横。きょうは牛タンカレーの腹ごなしのついでで、道なりで瑞巌寺に来てしまった。境内の樹木の下は涼しい。鰻塚から岩窟をまわり近くの食べ物屋を覗いて、修復工事しているふうの本堂へは入らず。あー暑い、あー暑い、帰ろっ、帰ろー、とリュックを背負った妻は、ドンドン行ってしまった。東京に戻るムスメについていったはずだが、34度、暑苦しいし(温度、ひと?)芸術制作の邪魔になると言われ早々に追い出されて来たようだ。先週ムスメが松島で船に乗ってきたというのを深くこころにとどめていたらしく、遊覧船に乗ろうなどと珍しい誘いを十年振りぐらいにするので、こうなったのだった。おたがい、不遇な身の上ですなあ・・・

    

ということで、たすけちゃんの膀胱検査すませて、正午直前松島桟橋へ着く。CCレモンを片手にすぐさま五大堂から島巡りの観光船に乗り込んだ。兎島と鐘島の間を通り、仁王島桂島をぐるっと回って海上17キロ、約50分。松島湾は湾口に大きな浦戸島などがあるので、去年の震災でも大津波の直撃は受けず松島の桟橋近辺は被害もほとんどなかった。穏やかな海だ。そろそろ、はぜ釣りのシーズンになる。おう、大変な数のお供のウミネコですねえ、これは。くちばしが黄色く先端に赤いワンポイント。1時間毎にこうやって遊覧船を追い掛けては、お客のくれる「かっぱえびせん」をキャッチする。取り損ねて海におちたのは、ダイビングして根性で拾う、しょっぱくないのかね?だいじょーぶだ、にゃーにゃー。となって、この頁の先頭の場面にもどる。くどいっ、それがら、どーした?、かえってきて、スイカのあとにまたまたアイス「白熊」を食べていた。(あれじゃシロクマさんになるぜ~、カノジョは。)

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わがくるま史

2012-05-05 23:51:51 | なんでもあり・ファミリー

禅のことを書いたという本の新聞の広告にあったのだが、昨年の大震災後の大変な今を生きて行くには「責めず、比べず、思い出さず」だとか。うーむ、そうは言われてもねえ、あまのじゃくだからなあ、かえって妙な事思い出した・・・。このところずっとつまんなくて、おまけに唯一の機動力ムスコからのお下がりの原チャリZOOMERもあろうことか、オイルを入れ忘れエンジンが壊れた様だ。あーあ!!修理は十万以上だと!!それじゃあ軽自動車買えるじゃないか、と思って雑誌見ると、なんと軽自動車ってえらく高いのだ。でもなんとか工夫してみれば、ウルトラCはあった!だから今日は機嫌がいい。思い出したり比較するのも悪くはないんじゃないかい。まあ、あまり自分を責めたりはしないのがよろしくないのだけれど・・・

最初のくるまがこれ。三菱のセレステであった。1970年代なかば、うっとりするようなクーペがぞろぞろ、トヨタ/セリカGTのブルルルル~のエンジン音、なぜ今ああいう音がつくれないのだろう。セリカのハッチバックやギャランGTOの流れる様なフォルム、だけど高くて手が出ないので似た様なこれでがまんした。名前が掛け捨ての様で何とも・・・従姉妹がディラーにいて義理半分。おお、革ジャンはマクレガー、今どきの背広よりも高かった感じ!

ハッチバッククーペはいいのだが、うしろの座席などお空まで見えて乗れるものではない親不孝クルマなわけで、ギャラン・シグマのサルーンに乗り換えた。これはネイビーブルーの新車、海軍が好きだから色で決めた様なもの。三菱の車は鉄板が厚くて頑丈、だから重いわけでSLスーパーとかいうこれは装備はいいが1600の心臓だったからSLのごとくトロトロゆっくり走るのだった。東京転勤で社宅の駐車場空き待ちが2、3年、東京じゃ車もいらないなと義弟夫婦にくれてやった。

仙台に戻った30代半ば、そうだ、あの中古車にしようと、運転席とダッシュボードのデザインの開放感が気に入っていたホンダ/アコード・ハッチバックをチャリンコに乗って探して近所で買ってきた。写真がみつからないので、ネットから拝借するぜ、カタログは何度も眺めていたんだから許せよ。

ベージュ、なんか下着みたいな色だったなあ、このくるまの売れ筋カラー。パワステの軽さにはビックリ、こんなに運転が簡単でいいのか。だれか乗っけてテニスなんかしていて、、、どうしてるか。

三十代半ばすぎて生まれ来た息子誕生の前々日、またまた東京転勤辞令を受け取った。ふた月以上たってから、猫2匹まで乗せてアコードで首都圏に乗り入れたが、その引っ越し前ひとりで遊んでいる間、いすゞ117クーペ/XCの6、7年経ったヤツを見つけてしまっていた。その昔、新車カタログをあきもせず眺めていた、あれだ。ジルジアーロの流線型、もう造ってないからこれを逃せばと・・・三角窓の風切り音はタイヘン、サンルーフ閉まらなくなって慌てたりオーバーヒートしたりと廻りから笑われ気を揉ませてくれたが、第3京浜では命拾いとなったからやっぱり名車だ。ウトウトしていて出口の渋滞に突っ込む寸前、あっと思ってブレーキを思い切り踏んで前のくるまにあと10メートル残してピタッと止まった。つぎの車検どうしようと思った矢先10年目、10万キロでピタッとエンジンかからず、もはやアウト。

しょうがないので、お元気ですかあ~の助手席の陽水さんのCMにひきづられて、日産のセフィーロを電話のやりとりだけで買ってしまった。ワインカラー、これまたカッコいいから。到れリ尽くせりというのか要らぬ装備なのか何でもついていて、オートクルージングなどというのは100キロ巡航などと覚えさせると、あとは胡座をかいていても走る。これは危ないね。トンネルに入れば、自動でライトはつくし・・・でも日産が元気出た頃だし、この初代セフィーロは素晴らしいデザインである。だんだんいじってゴツくしたのはバカなことだ。その後また仙台に戻ってからは女房が乗っていたがFRだから雪道は「お尻を振るので随分怖い思いをしたわ」マックのドライブスルーに入ろうと曲がった瞬間後ろからぶつけられて、それこそお尻が180度向きを変えたらしい、10年以上乗っていたから価値はゼロで全損扱い、セフィーロ君は、誰の手にも渡さずにワンオーナーで寿命を全うした。お元気じゃないってば・・・

仙台に戻った厄年あたりの時期は、若い頃の無理がたたって?の血糖値1600という急病。昏睡状態から奇跡的に目覚めて一命を取り留め、またまたの東京異動はドタキャンになった。郊外から郊外への通勤くるまをなんにしようが気晴らし。BMWのクーペを見つけたので見に行くと同じ値段で隣にビカビカのネイビーブルーのVW/ゴルフ2型最終版。うわーこっちだ、「国境を越える走り」。これも完全に代替わりした頃でも本国ベルリンでもほとんど1型ばかりしか見掛けなかった。日本だけだよ、物を大事に長く使わないのは。タクシーなどポンコツベンツばかり、空港へ急げと女性の運ちゃんに飛ばさせてどのぐらい出てるのかと覗いたら、スピードメータなんかはずされててついてもいなかった!
さて、この4灯グリルに換えたゴルフは、サスペンション、足回り、ハンドリングはまことに立派、だけど冷却の循環器系統、ゴムホースなどよくふっちゃけて盛大にエンジンルームから白煙を上げた。あちらは標高差が大きいから日本と圧力が微妙に合わない感じ。最初は燃えたかとビックリ、何回もJAFやディーラを呼び出し、代車も数知れず。タイヤ、FOG、オーディオ、そして修理、ほぼ完璧になったらどういうわけか猫足に興味が向いてしまった。でもこのゴルフは名車だったね、今の大きくなりすぎた。このころの柴犬テッちゃんも名犬、クルマも犬も僕を助けてくれたね。ありがと。

猫足のワインレッドのプジョー306が見あたらず、偶然通勤途上で赤いルノー・ルーテシアを見つけた。これも自分しか乗ってないから写真みあたらないなあ、そのうち出て来るだろう。冷やかしに立ち寄ってこわごわ左ハンドルで走ってみると、走りと変速の柔らかさ、それにシートの出来が素晴らしかった。畳の文化からはあれは造れないだろう。アナログのオサレ~な時計までついている。フランスというのもなかなかだなあ、と。これは2回は車検取った筈だが、エンジンブレーキの効きもいい感じのオートマがとつぜん壊れた。ミッション交換となると本国取り寄せ70万とか、これじゃ、となりにあるトゥインゴに替えるかと。

 この写真のは、捨てたはずのオレのじゃないかと!
トゥインゴは乗る程に面白くなる飽きのこないクルマだった。だから結果オーライだったけど、この正規ディラー、社長がおかしい、センサー部分かを直してまたいい値段で売りに出していたので付き合いを止めた。つぶれたようだ。このあたりから、わが正室もあきれて余り口をきいてくれなくなった・・・人物像が入ったものはクレーム出そうなので、ゲンちゃんに出てもらおう。 

 

ルノー・トゥインゴ、フランスじゃカローラみたいなものだけど、クラッチレスのマニュアル5速。オートマ全盛の昨今これがなんとも小気味よい。脚はツラズ、眠くもならない。左ハンドルだから運転しやすいし、停めやすい。お目目もなかなかカワユイのだが、小さすぎるから料金所でよくナンバープレートの色を見に来られた。失礼ではないか!うしろの車もニヤニヤしている。

 

  

こんなことで十数年、外車で釣りやら蕎麦うちやらと遊んでばかりいたらアラ還になってしまった。これじゃあ子ども達の将来はどーなるのだ、ムスメの学資など見当たらず、、、一応自分を責めてみて、車検も残っているのを廃車にしてまで節約を決行し謹慎していた。それなのに、バイクまでこわれたらどーすればいいのだ。油絵運搬にルーフキャリアを載っけた(今や用なし)名車初代マーチは奥方専用だし、軽自動車なんてビンボーくさいしなあ・・・(実は自分こそほんとうにビンボーなのだ)

あっ、あれなら乗ってもいい。そうして、はじめて黄色ナンバー、黒色のくるま、クロカンもどきのパジェロ・ミニを、生まれてはじめてのネットオークションで手に入れたというわけだ。(新規様とか言われて・・・)一度目でプロみたいなヤツに競り負けたら、ばかばかしくてなってメゲたので、1時間ばかりじっくり?調べて別なのを即決価格で落としてしまった。真夜中の1時にクルマを注文なんて、、、現物を見てもいないからリスクは大きいが安い、だから走行距離などは気にせず整備記録の残っている出物をねらった。皆さん気にする走行距離なんてだいたいがあてにならず、同じ時間乗っていても東京なら時速15キロ、田舎なら40キロだもの、クルマの賞味期限はこれじゃないな。メータも賞味期限も簡単に直すモラルレスの時代。この黒パジェロは毎年どんな点検、部品交換してきたか全部解る素性のいい物だからあと10万キロもなんなく走るだろう(そのまえに飽きるだろう?)。先方とのやり取りも速決、陸送であっというまに届いてしまった。(これが高いので湘南に取りに行くと云ったら、走るかどうかわかんないじゃないと責められた!)ともかく、うれしいなあ、黒でも品のいいガンメタリック(自分のはこう思うがヒトサマのはドブネズミに見える)、軽のくせにマーチより背が高いじゃないか(また、比べる)。ピカピカに磨きはしたのだが、でも、ジャスコのほかにどこへも行く所もないし・・・(そうだ、と思い出して、)母上のグループホームへ行って来た。「あらあ、何年振りかしらねえ・・・」(ぼけか、皮肉か、どうも前者のようだ・・・)

おい、使っていいぜといったとたん、ムスコはでかいバイクをやめて黒パジェロで、さっそうと出かけてしまった。むむむ・・・「責めて、比べて、思い出す」方がよっぽど今を前向きにやれるような気がした・・・それにしても、ジョーシキ人のように白いトヨタ車にでも乗っていれば、もっとマトモになれたのであろうか・・・、間違いだらけのくるま選びと我が来し方(いや、そーではないっ・・・)

 

(おおっ、これ書いてからちょうど5年経ったか。。。いろいろあったが、刻の流れは速いなあ。黒パジェロ、前回の車検は忘れてて連休間際に滑り込み。こういうときのために自賠責25ヶ月があるわけだ。またまた車検とり直すか、プジョーかビートルなどと迷ったが、カネがないので消去法、ひとり乗りだし釣竿とクーラー、長靴ぐらい積むのに最適となるとと、パジェロミニ丸目4灯オッサレ〜なリンクスZ、ピッカピッカの15歳(!)に替えた。真珠色っていうふれこみだがともかく白、これで、ボクもマトモになれるのかいな。正室専用車はPINOちゃんに代替わり、息子は駐車場にデンと3ナンバー。ともかくクルマ史の1ページが増えたので追記しとこう。2017.5.3)

 

(おお!またまた6年経ったか!早いものだ。しかも、あと2時間で2023年も終わる。「この年も命ありけり除夜の鐘」。。。白いパジェロは錆び一つなかったがタイミングベルトを取り替えないと危ないということで、12月の車検はやめた。でどうするか、激安店を見に行ったらこれがあったので衝動買いしてしまった。卯年だから、ウサコのエンブレム(?)ついてるオンナ向けの車。。。でも、濃紺と白の色合いもいいしダッシュボード周りも気に入った。愛妻のたまうには、「これプレイボーイのマークだわ」。。。どーゆーわけか、この日のセータと同じだ!いつの間にか正室専用車は日産DAYSに代替わりしている。まあ、白のアクセントも目立ち駐車場で探すにはいいだろうが、ヤバイことはできないなあ。。。2023.12.31)

 

 

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柿の木

2011-11-13 20:24:34 | なんでもあり・ファミリー

 



平核無この品のいい柿が庭の奥の方に一本、玄関まえに会津みしらず、蔵のまえにイシドウとかいう柿。会津みしらず,実をつけすぎて自分の枝を折ってしまうから「身の程知らず」、のばし放題の枝で一本の木に500個ちかく実がついている。88にしておじいちゃん、さすがに下のほうだけ取ってあとは鳥にやるばかり、少し手伝おうかと行ってみた。でも200個全部持ってきてしまった。妻の実家、100年以上たつ木組み土壁、大震災後の修理も手つかず、それよりも・・・



樹の上で赤く大きくまるまると輝く渋柿、寒くなって来たいま頃がつるし時、表面がじんわりと堅い干し柿シメシメうまそうだ。色とカタチよさそうなのに限って上の方だなあ、ノコギリで枝毎落としていいと言われた(剪定がてらか?)それも厄介、こっちが下までたたき落ちるだろう。おっとまた取り損ねて地面で派手に砕け散る、まあ今年はあたり年で腐るほどなってるし。さて高所作業はほどほどに次はどれどれ、昔白州次郎氏配下の水力発電いま干し柿の専門家おじいちゃんのワザを盗んでやろう。おお、ヘタに紐を結ぶための枝をちょこっと残して皮むいて2つづつペアに紐を掛けてか、この基本ユニット(?)が出来ればあとは雨に濡れない陽のあたるところに吊るすと。ハエはタカルヨでも日光で消毒だろ・・・これはねまだ暖かかったからグチャグチャだけどな、これからはいいよ・・・

まあ、柿なんてどうでもいいんだがと、おじいちゃん・・・おばあゃんは抗ガン剤効いてはいるが副作用の湿疹、今日は明るかったので何より。お医者さんは人ごみのなかには行くなと、でも子どもがゴホゴホ咳してても母親はケータイばっか見てるのよ、病院よりよっぽど三越の方が風邪うつらないわ、そうよがまんしないで行けばいいのヨ、この人はまじめだから先生のいうことをちゃんと聞くんだ、がまんというよりあれこれ気にかかることのほんの一部なの、兄のほうもね85でC子さんの介護毎日ご飯作ってやってるのよ茄子炒め喜ぶって、ヘルパーなんてあれは商売ですからな私は要らない自分で出来るから、と思ったが少し考え直しているよ・・・

年とともに思うようにならなくなることが辛いことなのだ。支援のヘルパーもいまのところあまり気に入らない様子。世の中みな、そろそろ老老介護の頃・・・こちらもそろってガタガタ。どっちがシャキとしているかといえば実は親の世代の方なのだ。

この家の90代半ばまで生きたその上の明治生まれのじさま・ばさまは最後まで元気だった、ばさまは原町小、仙台高等女学校(白百合)の先生だから戦前のキャリウーマンどっちにの学校にしろボクの若くして死んだ母親の恩師だっただろう、今日のこの柿も迫力あった趣味人のじさまが会津から取寄せた樹とか。柿は山ほど残っているし、また行くとするか・・・

柿も見栄えするやつは得だね、これは干さないで渋抜きでいくかと、これが50個ちかく。ヘタのところに焼酎35度ほんのちょっとつけレジ袋に日付書いて10日も置けば甘い柿に変身。甘柿のやつは干し柿にはなれないから、渋の方がポテンシャルが上で楽しめるね、それよりも飢饉と災害のつづくわが日本、昔からこういう食べ物はとても大事なものだったのだ。
柿の処理も手際がだんだん良くなり、時に無心に、時にビニール紐の効用やらあれこれ行く末など考えながら延々と2×5×15連=150個も剥いて干したらもう真夜中でクタクタ、何せ干し柿作りなど初体験なのであった。途中でやめて工程!?を残すのがイヤなので、何をやっても深夜作業になるのであった。完了しました。(あとは、柿よ、ちゃんと干し柿になってくれるのだろうね、渋は抜けてくれるのだろうね!?)

 

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書を捨てよ...

2010-05-30 00:55:59 | なんでもあり・ファミリー

この4月は新たな出発のはずだったが、二ヶ月たつのに気分はまだパッとしない...助手席でIPODでなにやら口ずさんでいた唯一の乗客だったムスメも出てしまってTWINGOも手放した。ムスコが乗らなくなった原チャリが唯一の機動力、しかしこれはこれでまあ面白いけど町へ出るにはタイヘン、「書を捨てよ...」のほうは反語的だからなあ...

自分の道を自分で切り開いていったムスメは、のびのびやっているようだ。「家出のすすめ」などしたはずもないが、こちらはこのところ寺山修司を読んでいた。
70年代なかば、「書を捨てよ、町へ出よう」は衝撃的な言葉であった。40年前の新宿、寺山さんにはボクもどこかですれ違っていたのかもしれない。だいせんじがけだらなよさ-さよならだけがじんせいだ、ときには母のない子のように...

駈足でつきぬけたような太く短かった四十七年、寺山修司、メインスタンド前で疾走中に逝った寺山。この人の高校生のころのうたのみずみずしさ。
森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし
夏川に木皿しずめて洗いいし少女はすでにわが内に棲む


そして、十代おわりごろに「新人短歌50選」特選で歌壇デビュー。新宿が大好きで、前衛劇・天井桟敷・海外公演など行動の人だった。今に残るは、膨大な書の渉猟の知性と寂しさがあふれる三十一音黙示録。
カルタゴの雷将ハンニバルのことを書いたとき、寺山の歌が浮かんでそれで締めくくったことがあった。祖国喪失感...
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや


寺山修司の「あゝ、荒野」は、今頃になって初めて読んだ長篇、これは、すばらしい、JAZZのアドリブ風に書いたという作品!
第一章には、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし見捨つるほどの祖国はありや」と。「見捨つる」が、角川の誤植でなければ、これも一首か。...ボクもやるせないから、タバコやめらんないよ...
寺山修司は三十代なかばで「全歌集」を出してしまった(!)が、その後もそっと書いていてたらしい。「月蝕書簡-寺山修司未発表歌集 岩波書店」。もっとも、自由詩の方も出版社に適当に選んで載せてくれと言う人だったようで未発表の詩の話が先日新聞に出ていた。

先月はじめには、『青葉繁れる』の先輩・井上ひさしさんが亡くなった。井上さんも寺山さんと同じ年あたりの生まれ、終戦を10歳で迎えた世代、次々に「わが祖国」は人を失ってゆく、惜しいことだ。戦後まもなくの混乱と飢餓感は想像もつかない。お二人とも父親の記憶と存在の空白。

そうか、今日は若くして現役で死んだ親父の誕生日だった。親父はボクがどんな仕事に就いたかさえも知らなかった、まして定年になっただなんて...大人の話をしたかった...う~ん、自分自身が父親になりきれていない...最後の入院の朝、受験直前補講の玄関先、「おまえ、しっかりしろなあ」にボクは答えもしなかった、ごめんね................ついこのあいだのことのような...福島の頃、養母は、近所にいた父の上司の単身赴任の局長さんによく晩御飯を届けていた...局長さんは母に言ったという「よくもまあ、ああも素直な性格にご両親は育ててくれたものですね」...う~む、こちらは親父の歳をひと回り以上上回ったというのにいまだ偏屈な未熟児...でも、夭折した両親に大事にされたという記憶だけで、なんとか精神のバランスがとれてきたような...

(月蝕書簡より)
父恋し月光の町過ぐるときものみな影となるオートバイ
一本の釘を書物に打ちこみし三十一音黙示録


**********
「書を捨てよ、町へ出よう 寺山修司 角川文庫 ISBN978-4 -04-131522-4」
「あゝ、荒野 寺山修司 角川文庫 ISBN978-4 -04-131533-0」
「寺山修司青春歌集 角川文庫 ISBN978-4 -04-131525-5」
「寺山修司少女歌集 角川文庫 ISBN978-4 -04-131527-9」
「戯曲 毛皮のマリー・血は立ったまま眠っている 寺山修司 角川文庫 ISBN978-4 -04-131532-3」
「さかさま恋愛講座 青女論 寺山修司 角川文庫 ISBN978-4 -04-131528-6」
「幸福論 寺山修司 角川文庫 ISBN978-4 -04-131526-2」
「絵本・千一夜物語 寺山修司 河出文庫 ISBN4 -309-40387-5」
「寺山修司 詩集 ハルキ文庫 ISBN4 -7584-3077-2」

寺山修司未発表歌集 月蝕書簡寺山 修司岩波書店このアイテムの詳細を見る
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げんきでね

2010-04-01 22:06:48 | なんでもあり・ファミリー

 

きょうは4月1日、出発の日だ。

40年前になるんだ、小田急に乗って、満開の桜の下で学園に入った。
27年前か、あの日は、巨大プロジェクトで三鷹に集められた。
きょうという日は、なんと定年で新たな出発になった。あっという間だったような・・・・

チキン気味だった、うちの「ムーサ」は油絵に熱中、今日からあこがれだった美大、正門のドまん前でひとり暮しを始めた。
こんな絵を描いたのが、小学2、3年ごろだったろうか・・・・
こちらはちょっと休眠して、そっと、きみの絵日記を見てることにするよ・・・げんきでね。


*********
「家出のすすめ 寺山修司 角川文庫 ISBN978-4 -04-131523-1」

家出のすすめ (角川文庫)寺山 修司角川書店このアイテムの詳細を見る

 

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海鳴りの響きは遠く

2008-02-06 23:33:06 | なんでもあり・ファミリー
海鳴りの響きは遠く—宮城県第一高女学徒勤労動員の記録
神谷 恵美子
草思社

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「郎女迷々日録 幕末東西」さんのサイトで「チェロが歌う『海ゆかば』」を見てて思い出したのだが、われわれの父母の青春時代はこの歌とともにあった。

昨夜、なにやら一女高のコーラスのことなど延々と電話で妻が話していたおばあちゃん・妻の母はますます元気。彼女のクラス旧制宮城第一高女47回生の卒業式は、昭和20年3月米軍の沖縄上陸を聞きつつ本土決戦が叫ばれる中、勤労動員に行っていた逗子の横須賀海軍工廠においてだった。卒業式は、「海ゆかば」の合唱。

なんどか、おばあちゃんに聞かされた逗子の話。冒頭にあげた表題の本は、その「横須賀組」の女学生たちの当時の日記を主にして後日の聞きとりや記録資料も補足して昭和56年発行、貴重な記録ゆえに最近草思社から復刻出版された。
あの時代の女学生は「軍国少女」?、今どきの子たちよりはそうとう大人であったが、そこは年齢相応。4年生1組から4組までの全生徒の写真、外出の鎌倉あたりのグループ写真もみれば、カワイイ女学生。軍事機密上重要なことは知らされないし、比較的境遇に恵まれた子が多いせいもあろうが、死を目前になどの悲壮感もあまり無いのが救い。

4年4組集合写真最後列一番左、学者の娘だったおばあちゃんもこのあと女専に行って会社づとめなどないから、この「県外に初出動、女子学徒の勤労義勇軍」は彼女の人生で唯一の勤労経験か?
お友達の日記などから少しだけ、みてみましょうか。お名前は省かせさせていただきました。


<学徒動員令>

「昭和16年4月、入学時は 桜かざしてうまれたる、われはやまとの乙女なり...
昭和19年秋、学徒動員令がおりた。4年生二百余名のうち百名が逗子の海軍工廠へ、残りは仙台貯金局へ、身体の弱い人たちは学校勤務へということになり、学校では逗子希望者をつのったところ、最初は二十余名しかいなかった。戦局が悪化の一途をたどるとき、娘を遠くに手放すのはどこの家庭でも忍びなかったのである。希望しなかったものは一堂に集められ諸石校長先生から「みなさんは国賊だ」と叱られた。軍国少女の私たちにとって、国賊の汚名は最大の恥辱であった。二度目の希望者はなんと百七十名程になり、ついに抽選という事になった...」

<海軍工廠沼間寄宿舎>

「寮のあった沼間は地名通り、たいへんにぬかるみの多いところで、泥沼の上に三十センチぐらいの板を渡してそれをしずかにそろりそろりと渡ったものです」
「外出の時、近道して垣根をくぐったら、寮長の小父さんに「犬か!」とどなられ、「犬です」と平気で出たことがありました。」

<日記から>

(昭和19年)
11月17日(土)
「今日は食事当番(工場の昼)なので、9時25分に洞窟を出て用意した。昼は第三と工員の人たちのバレーの試合があった。仕事が終わって山に入り花の採集をした。山は秋の紅葉の色どりを示しほんとにきれいな景色であった。...今日はわたしの誕生日である。父様とお姉様からお手紙が来て嬉しかった。...二号室に泥棒入る。夜、前田さんに小包届き柿や芋をご馳走になった。
...
朝 御飯、味噌汁(豆腐、わかめ、キャベツ)
昼 御飯 煮付(鰊、大根)あえ物(豆腐、人参、卵)、菜漬
夕 御飯 シチュー(玉葱、人参、じゃが芋)、鰊(固くて困った)
今日はお芋がないので淋しい

11月18日(土)
「今日は特別寒い。一日中ふるえてばかりいた。今日も小屋で仕事をした.仕事の量が少ないので、とてもひまだった。第六号の秘密ドックで進水式をあげた世界第一の航空母艦「信濃」が、レイテ湾方面に出動したそうだ。...
朝 御飯(小麦入)、味噌汁(豆腐、玉葱)しょっぱい
昼 雑炊(にんじん、大根、玉葱) 魚の佃煮 大根のお新香 さつま芋
夕 御飯 煮付(蓮根、玉葱、人参)
(⇒ おっと「信濃」だ。信濃は大和型戦艦3番艦を転用した6万2千トン当時世界一の空母、19日に竣工したが残った艤装や兵装を呉海軍工廠で行うため28日に横須賀出港。翌29日午前3時17分紀伊半島潮岬東南方95浬にて米潜水艦「アーチャーフィッシュ」の雷撃を受け7時間後転覆し沈没、たった2日の命だった空母!格納庫には「桜花」50機が積まれていた。)

 1月3日(水)
「長い間微熱が下がらなかったので、入院して精密検査を受け、父はその結果を聞きに来たのでした。検査の結果が悪くて仙台に帰れることを期待していたのですが異状がなかったので、父は安心して帰り、私もその後気持ちが吹っ切れて元気になりました。今考えると、よく云う五月病のようなホームシックだったのではないかと思います(佐藤礼子談)」 
(⇒おばあちゃんだ!)
朝 お雑煮(ガチガチ)
昼 玉葱白菜人参の油炒り、里芋ごぼうの煮付
夕 ごぼう汁 海苔の佃煮 お汁粉

 月 日(日)
「わたしの父は当時外地に行って居りましたので、一度も家から(家族の面会が)来た事がなく、お友達の御馳走になってばかりいました。或る日面会の家族到着という事で誰の家族という事もなく、皆でわあわあと玄関口へ押しかけました。...ひょっと皆の間に母の顔が見えるではありませんか。わたしはハッ!として目を疑いました。皆をかきわけて側によると紛れもなく母です。「どうしたのどうしたの」と言いながらわたしは唯母の肩を背中をたたきました。後から後から涙が溢れてくるのです。母はそんな私を見て、唯黙ってニコニコと見て居りました...」

<工場での作業>

「高角砲の発射薬を絹の薬嚢に入れ、これを薬莢に入れ、炸填場で作った弾頭と組み合わせる仕事。
<結束>棒状の鉛筆の芯のような火薬を一定量測って絹の袋に入れ、それを白い糸で綴じる。弾丸の種類によって、火薬の種類、量、袋の形、大きさが異なる。綴じたものは、「仕上げ」でしらべる。繊維は燃えかすが残らぬよう必ず動物繊維(絹・毛)である。...」
「白い毛糸が欲しくてたまらなかった」
「特攻兵器『桜花』の噴推器の作業もした。小型飛行機のロケットの推薬の炸填である。飴色の中心に孔のあいた筒状の火薬を噴推器に入れ、それを伝火薬(黒色の粒火薬が、まるい絵絹の袋に平に入っている)をつけ蓋をして完成したものを、木箱(木枠)に入れる。蓋の釘打ち、箱書き(すりつける)したものをネコ車に乗せ、トラックの荷台に押し上げる。」
「特攻兵器の噴推器を作るようになった時は、本当にショックだった。これを抱いて若い兵士が敵艦に体当たりして散ってしまうのだ・・・、と悲壮な気持ちで作業を続けるほか、なかった。」

(桜花は、長さ6m、直径1.16m、頭部に1.2トンの弾薬が装填。一式陸攻の胴体につるし敵艦発見と同時に操縦士が乗り込み、(4千mの高空から)切り離されて時速470kmで突入する、ロケット燃料は9秒間しかない、人間爆弾であった)

<外出>

「休日のすごしかたは、各部屋によって違ったと思いますが、...
新聞で、軍神「関大尉」の若き未亡人が女子医専に御入学との記事を読み、お祝いに全員で出かけたこともありました。美しい愁いをおびたお顔がいまでも思い出されます。言葉少なく御入学のお祝いを申し上げ、また大尉の弔問をさせていただきたいとお願いしましたら、快くお部屋に通していただき、ピアノの上の遺品とお写真にお参りして、若き軍神となられたかたの思いはいかばかりかと、本当に辛くなって、お悔やみを申し上げるすべもなくおいとま致しました。」

<歌>
「警報で避難した壕のなかでは、移川先生の指導で歌をうたった。二高女も負けじと歌い小さな火花をちらしたものだ。移川先生はアメリカ二世で、よくアメリカの話をしてくださった。なかでもチョコレートやアイスクリームの話には、思わず生つばをごくりと飲み込んだものだ。そのアメリカと戦っているというのに。」
「夜になるといいかげん出たら目にカルメンなど歌って歌劇の雰囲気を出していました。...「希望のささやき」「ホフマンの舟歌」「シューベルトのセレナーデ」「ソルベージュの歌」「ドリゴのセレナーデ」等々に「杉の子」。二高女の人たちの上手な「田原坂」が聞こえいつのまにか覚えてしまったり...」

<卒業>

「思い出多き卒業式。簡素でかえって心にぴったりとした。式後、寮の前で卒業写真をとる。...よっちゃんが残していった荷物の荷造りで疲れてしまった。午後、ピーと裏山に登っておしゃべりをする。」

========
さすがに、男どもと違って、食べ物うるさいし毎日の食事の記録も確か。こういう異常な環境下での合宿生活では、なんでも「仕切る」ような元気のいい生徒がいるもの。おばあちゃんはどうもヤワだったようで...日記もこの本には出てこなくて、談話や友達の日記中に心配されて登場している。

入院・精密検査後の面会に来た父親は仙台工専の土木工学の教授であった。新制東北大に統合された今野彦貞教授の関係した橋はまだ各地にある。工廠付きの若手将校は先生の教え子だったのでおばあちゃん達は特によくしてもらい、同級のどなたかは後にお嫁さんとなった!予備学生から海軍大尉で戦後は建設省役人をやったボクの伯父も教え子で大梶にあった教授宅に押しかけたことがあるという。僕の父は逓信・電気通信省でのちに電電公社、入省早々だった妻の伯父(おばあちゃんの兄)とは仙台で一緒にいたこともあったらしい。

わが妻とはまったくの偶然の出会いだが、世の中は狭いものだ。妻もここの学校出なので、ムスメにも入れと説得していたようであるが、美術科のある共学校に行き三代めとはならなかった。このiPOD孫ムスメ、おばあちゃんが勤労動員で逗子にいたときと同じ歳16なのだ。

**********
「海鳴りの響きは遠く 宮城県第一高女学徒勤労動員の記録 神谷 恵美子[監修]草思社 ISBN978-4‐7942-1607-6」

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またまた奥大江柳川温泉

2006-11-26 20:24:47 | なんでもあり・ファミリー
 
毎年、同じことやっているのもなんだけど「継続は力なり」。
めんずクラブ=蕎麦うち同好会、土、日一泊二日、山形県大江町の「奥おおえ柳川温泉」にて何回目かの合宿。
奥羽山脈を境にして宮城県・山形県側で天候がまったく変わることも多いが、いつも、今年も両日とも快晴、これはメンバの心がけ良いからですね。

蕎麦うちクラブは年々メンバー増えて16人までになったが、泊りがけの今回は男だけ8人であった。何かと忙しい方も多い。
ここでは蕎麦道場と調理室を借り切っての自炊。いつものことだが蕎麦打ちより料理づくりが主になった。
かに鍋、どんこ鍋、ハマチ・シメサバ・鰺のたたき、舞茸や野菜のてんぷら、酢のものまで、...大きなドンコ、グロテスクだがあんなに品のよい白身とは!
皆さん、包丁捌きや料理の腕前なかなか、ボクは二八の蕎麦うちに徹した。
この日は細めに仕上げて、おおっ蕎麦もうまいと好評であったので、まあ良かった。

宿の売店には、おみづけ・味噌漬け、山菜類のほか「イナゴの佃煮」があった。久し振り、これはうまい!
先週ポン友SSKと昼飯食べたときイナゴが話題になったが、こういうところにはあるんだなあ。姿形はじっくり見ないようにして、つまみ食い。なんだか、ユダヤの荒野でイナゴと木の蜜食べてる感じになってきた。
...人はみなイナゴ...イナゴがそれぞれの人生を...
授産施設のかたが作った、こぶりのソバマクラ300円、おひるね用にいいなあ。
ここに書いたものは、安いので買ったものばかり。

タバコ部屋で、吸ってる人とはコミュニケーションが成り立つ。
「あんだ、宮城のほうがらが?冬のほうが混まねくていいな。オレの寒河江の周りによ~、こういう温泉どこが4ヶ所あんのよ~。
..いぢにちのうぢに湯が白、青、黒、と変わってゆくどこもある。
ここのは飲むんだ、冷蔵庫で冷やしてもいいべ、うちのカガアよろごんで飲むよ。...」

大江の林檎をかじりながら助手席でうつらうつらしながら帰ってきた。運転は会長のIさん、「急いで帰んなきゃないことないでしょ?と、途中で、アララギ派の情熱の歌人・原阿佐緒の生まれた宮城県の七ツ森に寄った。原さんは関係ないが、おもしろいレストランと、趣味のギャラリ「鍛冶屋」にて、またまたお友達に会った。ここからは、こんどにしよう...
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「ウソ」ちゃん来訪

2006-11-23 19:46:39 | なんでもあり・ファミリー

近くで見ると、くちばしも短く、ほっぺというか喉あたりに赤い紅、なかなかメンコイ(可愛い)。
ムスメが庭でじっと立っているので目線を追ったら、はげた芝の上この鳥がうずくまっていた。そばに、ピンと張った綱の柴犬ゲンちゃん、さては、叩き落してくれたかな!?ん~、お隣に最近さくらんぼの木、アレでも食べに来てとんだ災難に?
きれいな鳥ね、左隣の奥様も名前知らず。ネットで調べたら、あれっ、お前「ウソ」っていうのか。

怪我もしてないようで幸い、魚の干し網に入れて菓子箱のベッドも用意したがじっと動かず。
ショックだったの?
なに食べるんだっけ、「エゴマ」を買ってきて水も置いて2時間、チッチッと鳴いて羽根をバタバタ、動き始めた。
エサ食べるまえに「ハク」ちゃんのエサになっちゃうよ~、放そうよ~、と、ムスメ。
ねこのハクちゃんに気づかれてしまった。この家、外も中もアブナイ奴ばかりでごめんね。
せっかくだから記念写真撮って、ムスメはスケッチして、じゃあ、元気で。

短いご休憩の間、飲食はされませんでしたが、お礼にフンを2ケばかり置いていかれました。
ちょっとのあいだリンゴの枝の上でこちらに挨拶をしたように見えました、
金木犀の枝のなかで、さて、どうしようかと考えていたようでしたが、
まもなく元気よく向かいの家の庭のほうに飛んでいきました。

バイバイ、ウソちゃん。低空飛行はしないほうがいいぜ。
キーキー鳴く大きなムクドリが一瞬見えたが、だいじょうぶかなぁ...
でも、お向かいは3つも巣箱かけてあるし...
日本の小鳥かなあ、それとも赤いサラファン、ロシア生まれなの??

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<鳥見人!>のかたのブログ:「野鳥歳時記」http://oruri.cocolog-nifty.com/blog/

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