物象と心象は合わせてベクトルとなる時代だ。
心象は方向であり、物象は量である。
ベクトルは方向を持った量の時代だ。
*。
この進化を阻止して、おかしなことが起きた。
それが後期資本主義だ。
後期資本主義は、人々の差異を消し去り、それを資本商品とした。
人も商品の一種となった。
商品が商品を作ったり、使ったりする。
ここには取り込まれた人は、
もはや葛藤を覚えることなく、
自分を含む商品を、やり取りすることを楽しく消費する。
*。
ステータス・シンボルは、自分の商品化だ。
自分を市場でやり取りしている。
人も物もすべてが商品である、資本主義が言った。
*。
自分であって、自分でない。
自分という位置は、商品という運動量となった。
自分と商品は、不確定性関係原理となった。
これは新世界だ。
それは進歩である。
だが国家原理主義はこれに適応できない。
*。
自分という商品と商品としての自分は違う。
例えば、この世界は保護貿易と自由貿易からなる。
これを最適するのが、人や国の生き方だ。
*。
だが自由貿易原理主義だ。
これはアメリカ原理主義ということだ。
かくして世界は破壊された。
*。
保護のない自由、即ち、自分のない自分、そんなものはない。
世界は保護と自由からなる。
ここで唯一つ正しいことは、それが人が生きることだ。
*。
自由貿易はアメリカ原理主義であり、
アメリカだけが金になればいいとすることだ。
その結果が、アメリカも壊れた。
アメリカが世界のガンとなった。
自由貿易は悪魔のお菓子だった。
*。
世界は自分と他人と社会があり、それを最適化することだ。
しかもそこに不確定性原理がある。
原理主義国家は、国家だけが正しく、逆らうものは悪とする。
これでは社会は作れない。
*。
アメリカの自由と正義は、自由と正義の否定である。
自己否定を自己肯定とする自己責任、
これが国家原理主義の罠であり、免疫だった。
これを脱出しなくてはならない。
そこに生態系が成立し、交わる平行線が出来る。
*。
これが国家天動説から人間地動説への大転換だ。
マルチチャンネル・クロスオーバーが世界空間の運動量表現だ。
それは個人からなるが、個人ではない世界だ。
即ち、不確定性原理の世界だ。
心象は方向であり、物象は量である。
ベクトルは方向を持った量の時代だ。
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この進化を阻止して、おかしなことが起きた。
それが後期資本主義だ。
後期資本主義は、人々の差異を消し去り、それを資本商品とした。
人も商品の一種となった。
商品が商品を作ったり、使ったりする。
ここには取り込まれた人は、
もはや葛藤を覚えることなく、
自分を含む商品を、やり取りすることを楽しく消費する。
*。
ステータス・シンボルは、自分の商品化だ。
自分を市場でやり取りしている。
人も物もすべてが商品である、資本主義が言った。
*。
自分であって、自分でない。
自分という位置は、商品という運動量となった。
自分と商品は、不確定性関係原理となった。
これは新世界だ。
それは進歩である。
だが国家原理主義はこれに適応できない。
*。
自分という商品と商品としての自分は違う。
例えば、この世界は保護貿易と自由貿易からなる。
これを最適するのが、人や国の生き方だ。
*。
だが自由貿易原理主義だ。
これはアメリカ原理主義ということだ。
かくして世界は破壊された。
*。
保護のない自由、即ち、自分のない自分、そんなものはない。
世界は保護と自由からなる。
ここで唯一つ正しいことは、それが人が生きることだ。
*。
自由貿易はアメリカ原理主義であり、
アメリカだけが金になればいいとすることだ。
その結果が、アメリカも壊れた。
アメリカが世界のガンとなった。
自由貿易は悪魔のお菓子だった。
*。
世界は自分と他人と社会があり、それを最適化することだ。
しかもそこに不確定性原理がある。
原理主義国家は、国家だけが正しく、逆らうものは悪とする。
これでは社会は作れない。
*。
アメリカの自由と正義は、自由と正義の否定である。
自己否定を自己肯定とする自己責任、
これが国家原理主義の罠であり、免疫だった。
これを脱出しなくてはならない。
そこに生態系が成立し、交わる平行線が出来る。
*。
これが国家天動説から人間地動説への大転換だ。
マルチチャンネル・クロスオーバーが世界空間の運動量表現だ。
それは個人からなるが、個人ではない世界だ。
即ち、不確定性原理の世界だ。