25 日露関係Ⅰ (江戸時代~第一次世界大戦) -9-
ⅰ 江戸時代~日露戦争直前までの描き方 -9-
■まとめと考察 1/2
1 記事量
●日露戦争以前の記事の量・内容が少なすぎる。 → △ 学び舎。
※ 現在および近い未来において、日露関係は、日米・日中関係に次いで重要な関係だろう。日本国民にとってロシアについての基本的理解は不可欠。
2 「江戸時代末期の日露関係の状況」の描き方
■基礎知識 <ウィキペディア:日露関係史>より、引用・要約
・コジレフスキー探検隊 1711年。…千島列島を探検し、最南部の国後島に上陸した。
・ベーリング探検隊 1739年。…18世紀にはロシアと日本も、ほぼ隣国の関係となり、日本近海、とくに蝦夷地周辺に『赤蝦夷』と呼ばれていたロシア勢力が出現するに及んで江戸幕府の北方開拓を刺激することにもなった。
・アンチーピン外交 1778年。…ロシアの勅書を携えたイワン・アンチーピンの船が蝦夷地を訪れて直に通商を求めたが、翌1779年に松前藩はそれを拒否した。…老中田沼意次も北方に関心を抱き、蝦夷地調査などを開始したが、まもなく田沼は失脚した。
・ラクスマン外交 1783年。…帰国を望んでいた光太夫は、1792年にロシア使節アダム・ラクスマンに伴われて根室に着いた。ロシアは漂着民を届けることを根拠に通商交渉を狙ったが、再度断られ、老中松平定信は周辺を巡視させた。
・レザノフ外交 1804年9月にニコライ・レザノフが日本人漂流者の津太夫らを伴い、長崎に来航した。…ロシアの開港要求を幕府が拒絶したため、レザノフは武力による通商開始を上奏していた。1806年1月26日、江戸幕府は異国船打払令を廃止し薪水給与令(文化の撫恤令)を発布した。しかし、同年9月にレザノフの部下ニコライ・フヴォストフ)が蝦夷地の日本側拠点である樺太の松前藩の番所を襲撃(フヴォストフ事件)。1807年5月には択捉島駐留の幕府軍を攻撃した(文化露寇)。そのため、江戸幕府は薪水給与令を撤回し、同年12月にはロシア船打払令を発布した。
…1808年には松田伝十郎と間宮林蔵がロシア帝国の動向について調査する為に樺太へ渡り、1809年に間宮海峡を沿海州へ渡って黒竜江下流を調査した記録が『東韃地方紀行』にまとめられた。
しかし、日露間の緊張関係を背景に、1811年には千島列島を探検中に国後島に上陸したヴァーシリー・ゴローニンが幕吏に捕らえられ、その報復として日本の商人である高田屋嘉兵衛が連れ去られる事件が起こった(ゴローニン事件)。ナポレオンの大陸封鎖令を破ってイギリスとロシアが貿易を再開すると、1812年ロシア戦役が勃発した。正式の国交をもたないままの緊張をはらんだゴローニン事件の交渉は1821年までに落ち着きを取り戻し、蝦夷地は再び松前藩に返還される。
・プチャーチン外交 1853年…ロシア使節エヴフィミー・プチャーチンが3隻からなる艦隊を率いて長崎に来航。…伊豆半島の下田で困難な交渉の末、日露和親条約(Симодский трактат、下田条約)を締結した。
19世紀半ばに入ると、ロシアは農奴解放(1861年)を求める国内の改革への圧力と、クリミア戦争などのヨーロッパ方面での南下の試みの挫折を受けて、再び極東への進出を重視してきた。さらにプチャーチンは間をおいて再び長崎に来航し1858年に日露修好通商条約(Едоський договор、江戸条約)を結んだ。これにより、下田・箱館・長崎の3港が開かれ、日露の国境は千島列島の択捉島と得撫島の間にひかれて、樺太は両国これまで通り(雑居地)として日露の正式な国交が開始するが、これが北方領土の帰属問題の起点ともなる。
・アムール併合 …清に圧力をかけてアイグン条約(1858年)で黒龍江東岸を、清分割に参加する列強の一角として1860年には沿海州を獲得した。こうして北マンチュリア(外満州)を領土に収めたロシアは、更に南マンチュリア(満州、現在の中国東北地区)や朝鮮への進出を強めた。
1861年、ロシアは対馬の芋崎を数ヶ月占領し永久租借を要求、しかしイギリスの介入によって退去した(ロシア軍艦対馬占領事件)。
回民蜂起(1862年 - 1873年)と八戸事件(1867年1月)に端を発する征韓論によって清朝では海防・塞防論争が始まる。1867年2月、サンクトペテルブルクで日露間樺太島仮規則を仮調印。
●江戸時代末期の日露関係の描き方が不足。 → △ 教育出版。
※ 特に、表中④(北海道の幕府直轄化、千島・樺太の調査など)について書かないと、当時の幕府の外交や危機感が分からない。
3 「明治初期の日露関係の状況」の描き方
●「屯田兵」の存在を書いていない。 → △ 清水書院、学び舎。
※ 日本の外交(国際関係)史において、「北海道の屯田兵」は、古代の「九州の防人」と呼応する重要な史実だろう。
~次回、2/2~
<全リンク⇒1へ> <(25)日露関係Ⅰ 352・353・354・355・356・357・358・360(評価集計の途中報告1:1-15項)・361・>
《著者:松永正紀 教育評論家 /h22年度 唐津市・玄海町:小中学校校長会長》
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます