骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

縁切寺・満徳寺を骨で聴く

2010-08-31 16:43:01 | 骨で聴く巡礼旅

 江戸時代、時宗の尼寺であった徳川満徳寺は、縁切寺として有名でした。
 男女差別が厳しかった当時、夫から妻を救済するという縁切りの特権が認められたのは、この満徳寺と鎌倉の東慶寺だけでした。虐げられた女性の、いわゆるアジール(避難所)として機能したということは、世界的に見ても稀有な例といえるでしょう。

 縁切寺は、「駆け込み寺」とも「駆け入り寺」ともいわれ、江戸時代に離婚を求めて駆け込んだ妻を救済し、夫との離婚を達成させてくれた尼寺のことです。
 ただ男子禁制の尼寺には、一般的に縁切寺的機能があったともいわれます。

 江戸幕府から正式に公認された縁切寺としては、上州(群馬県)の満徳寺と相州(神奈川県)鎌倉の東慶寺の二つだけだったのです。

 満徳寺は徳川氏発祥の地にあります。現在の群馬県太田市です。
 
 徳川氏は源氏の新田氏出自になります。
 鎌倉時代に徳川郷を領地とした新田義季が、所領にちなんで徳川(得川)四郎と名乗ったことにはじまるといわれます。徳川家康はこれを先祖とするとしたのです。いわば源氏の家系につながるようにし、この由緒が江戸時代の満徳寺の地位を決定したようです。
 家康は徳川郷を先祖・新田氏の故地として、1591(天正19)年11月、450石の御朱印地として年貢課役を免除しました。徳川氏発祥の地としての特権的な庇護をし、その中で100石を満徳寺の御朱印地としました。

 この特権地域ゆえに、徳川郷に住む百姓は大名行列にも土下座しなかったといわれるほどです。


 征夷大将軍は、厳密な規定があったわけではなかったものの、源氏の家系にしか与えられませんでした。三河の地侍出身である松平家康としては、本来ならば将軍にはなれないことになります。そこで、南北朝以降、没落した源氏(新田氏)の家系を調べ、徳川家から分家した家に「松平」を名乗った家系があったことを発見したようです。それが江戸幕府の基本となった徳川将軍の誕生につながったのです。

 現代の感覚でいえば、情報量が豊富なこともあり、現在の習慣の問題もあり、かなり強引な家系の略奪のような気がしますが、名家の家系を絶えさせないために、他家から養子を向かえ受け継ぐことは一般的に行われていたことでした。
 家康は源氏の嫡流である新田氏の徳川家本家に養子になったという論法は、当時としては違和感がなかったのかもしれません。

 松平という自分の家系を子供に譲り、自分は他家である源氏に養子に入ることして、源氏として正々堂々と征夷大将軍になったというには、裏技を駆使したなかなかのものだったいえるでしょう。

 こんな徳川氏発祥の地の縁切寺・満徳寺に骨伝導シェルショッカーを装着して訪れました。ヘルメットを脱ぎ、骨伝導シェルショッカーから骨伝導サングラスと骨伝導きくちゃんを装着します。

          ⇒ 骨伝導ヘルメットシステム「シェルショッカー」
          ⇒ 骨伝導サングラス
          ⇒ 骨伝導きくちゃん

 ところが、何と現在遺跡と資料館になっている場所が月曜日で休館日でした。
 残念!

 虐げられた女性の悲劇を刻み、徳川幕府の根拠となった地で、骨伝導を使った「骨で聴く」旅情は味わえませんでした。
 必ずリベンジします。

 その前に敬老日が近づいていますから骨伝導製品をもっと見ましょう!

          ⇒ 特許技術の骨伝導専門サイトへ

                                          



最新の画像もっと見る

コメントを投稿