ロシア日記

~ペルミより愛を込めて~
日本語教師と雪のダローガと足跡

~サンクトペテルブルグ~
雪の上の足跡

最後の闘い

2019年10月10日 | 日記
 年の瀬迫った年末のある日、珍しくヨハンから自宅に招待してくれるという申し出がありました。韓国の料理付きで歓待してくれるとのことで、こんなことは滅多にないのでいそいそとAleを買い込み、夕方過ぎのWarwick Avenueの駅に降り立ちました。地下鉄の階段を上り、地上に出ると大英帝国時代に栄華を誇ったような白い高貴な香りのする建物の連立が視界に開けました。高級住宅地Paddingtonの隣に位置するこの地域もまたその延長で、私が住んでいたHolloway Roadの人種が雑多に入り混じった庶民的な街の景色とは違うものでした。
男4人のハウスメイトと共有している居間に通されるとテーブルの上に一本のワインが置いてありました。これは昨日生徒からもらったものなんだ、絶対高いから値段調べてみて、とヨハンが言いました。調べたら9ポンドで日本円にして1350円くらいでした (*’ω’*)

 ヨハンの住むシェアハウスは、男所帯にしては確かに居間もキチンもバスルームもピカピカに磨き上げられていてきれいでした。これは神経質なひとりのアジア嫌いなルーマニア人の功績ということで、彼が家の中で老朽化しているものがあるとすぐに大家さんに報告し新しいものと取り換えてもらうそうで、ヨハンは彼にとても感謝しているのでした。
 
 その他に、つい最近までは毎日違う女性を部屋に連れ込む凄腕のイタリア人シェフがいて、その能力ってば素晴らしいとはヨハン談で、先日、彼はついにその中のひとりの女性に決め、そのイギリス人女弁護士のところへ引っ越していったらしいです。彼女の月収は8K(270万円)でこちらもまたヨハンが褒めていました。

 その代わりに、入居してきたのがモノ取り癖のある貧乏なフランス人で毎回ひとに煙草を一本ねだるそうです。それとガールフレンドのところに入り浸りのほとんど家に居つかないイギリス人男性ということで、以前から彼らの話を聞いていた私は、イギリス人男性以外、実際、居間に出入りするすべてのメンバーを見れて想像と実物が一致するしないのゲームみたいな楽しさを味わっていました。

 ヨハンが言いました。
そういえば、さや、イギリスに残りたいの?
いや、どうかな、残れないでしょ。
知り合いのロボットの会社の社長がいるから、もしかしたらそこで空きがあるかもしれない。連絡してみようか。
そうなの、ありがとう。

 こんな会話をしながら、いつもと違ってやけに余裕のあるヨハンだと思いました。いつもは時間に追われ、仕事に追われ、早いうちにPermanent Position を見つけないともう今の契約のところもクビになる、自分は大学にとって今の上司にとっていつでもクビを切れる鳥の皮のようなどうでもいい存在だ、いてもいなくても同じだ、とヨハンを訪ねた大学構内のカフェで話していたのを思い出し、それ以前に、面接を受けるたびに落ちた落ちたの応酬で、誰よりも仕事に労力をつぎ込んでいるのに一向に報われる気配のない彼をみているとだんだんこちらも辛くなってきて、次は大丈夫だよ、と言い続けるも、本当に大丈夫なのかなと発した言葉に反して心の内が揺らいでいる自分がいて、だけどそれ以外にかける言葉も見つからないそんな状態が何年もずっと続いていました。そのヨハンが今、目の前で、余裕の態を示し自分のことよりも私の進退を気にかけています。

そうえば、この前の大学どうなったの?面接で絶対落ちたって言ってたところ。

 この前の大学とは、面接のプレゼンを終えた時点で、ヨハンから電話がかかり、やばい、絶対落ちた、のフレーズが受話器の向こうの第一声から繰り返されました。緊張したら、英語がめちゃくちゃになって本当にわけわからないことを口走った、ひどいプレゼンだった、もう絶対に落ちた、と自信喪失の声音で落ちたことへ対する自信を口走ります。だから言い返しました。まだ、わからない。誰にもわからない。結果はヨハンが決められない。むこうが決める。だから次の面接では、新たな気持ちで臨んでください。プレゼンのことはもう終わったので忘れてください。目の前にあることを一生懸命するだけ。どうかそうしてください。

 電話を切り、私は午後のHolloway Roadを歩いて駅へ向かっていました。叱咤激励するような言葉を言った自分の胸の内とは裏腹に私もまた不安でした。実績のあるヨハンがどうして幾千もの面接で落とされるのかわかりませんでした。

ヨハンは時々ぶっきら棒な印象を人に与えるからニコニコしてみたら?!
してるよ、俺、すごいニコニコしてるよ、ニコニコし過ぎだって言われるよ
…。
でもいつも落とされるんだから何か変えなきゃいけないんじゃない?!
もうごはん食べてくれば?!

 これがつい先日、大学構内で交わした会話で、そして今、目の前にいて、韓国料理をふるまってくれるヨハンにはどことなく優雅な余裕という名の雰囲気が漂っています。

それで、あの大学はどうなったの? この前、面接してた
受かったよ
受かったの?!?!
受かったよ
受かったの?!?!
受かったよ
受かったの?!?!
受かったよ
おめでとう!!!!!!!!!!
本当によかったね
いつわかったの?!?!
あのあと、プレゼン終わって大学出たら、携帯がすぐに鳴って採用の通知だったよ。もうその場で平身低頭したよ 
だからその後シーナと飲んでたんだ

 その夜、送られてきたヨハンと彼の男友達のシーナがPUBで飲んでいる画像を思い浮かべ、ヨハンの3年8か月に及ぶながいながい正職員のポジションを獲得する闘いが一先ず決着したのだと思いました。こんな晴れ晴れとした彼の顔を見るのは、6年前に彼と再会したロンドンで、由緒あるイギリスの大学の契約職につけたと胸を張っていた時以来でした。それからまたながいながい途方に暮れるような途方もない旅が始まって戦闘が開始され、今またひとつラウンドが終了したところです。これからすぐまた次のラウンドが始まるのでしょう。イギリスで世界の中枢のロンドンで、英語を話すことが大前提の何の武器にもならない舞台の真ん中で、世界の人々と競争しポジションを得るというのは神の大御業です。その神の大御業を成し遂げるヨハンの努力と忍耐にはそばで見ていて舌を巻くものがあります。そこまで自分を追い込まなくてもいいのにと時々見ているこちらが辛くなるときもあり、だけどそうでもしないと前進はおろそかその場に留まることすらできないという後のない状況で、契約職を更新し、ビザを繋ぎ、永住権を獲得し、そしてPermanent Positionと掴んだ彼の軌跡は称賛に値するものがあります。

 その後、ヨハンが提案してくれた私への会社のポジションはあっさり断られ、私は帰国の途につきました。ヨハンは、住んでいたWarwick Avenueの部屋を切り上げ、新しい職場近くに引っ越しました。

 今でも時々メッセージがきます。

感性ゼロってどういう意味?感情がないってこと?
感性って、映画とかミュージカルとか見た時に感動する心のこと。
ヨハンは知性200%で感性がゼロだねって言われた。それってひどくない?!
褒め言葉じゃん。それほど知性があるってことでしょ。よかったじゃん。ヨハン、おめでとう!!
これから5年以内にロンドン大学のTOPの大学に必ず移るよ
じゃあ、今の大学近くに購入する家はどうするの?!
売ればいいじゃん 何も問題ないよ

 今の大学に受かった年末のあの日、もう一生そこで働くよ、と発言していた彼自身の言葉はどこへやら、人って変わらないのだ、闘いは、永遠に終われないのだと、そう思いました。

Graduation

2019年10月03日 | 日記
 卒業式は出なかったのですが、クラスメートからGraduationの模様を写した写真が送られてきた日、卒業者リストに載った自分の名前を見つけ、長い時間、見入りました。初めて、あのマスター時代の苦しみは宝物だったんだ、と口にした自分に驚き、でももう一度人生を生きたら選ばないだろうとの気持ちは変わりませんでした。 
 常に気持ちを奮い立たせた2年間だったので、すべての工程が終わっても、すべてがすぐに良い方向へガラッと変わるわけもなく、ずっと不安の中に生きてきた心もその環境が常態化してしまったのか、ずっとそこに停滞しているような感覚がありました。疲れた、疲れた、ともあまり口に出せずにけれどある日、素直に、疲れた疲れたと人前で言ってみたら、疲れたままでよい、と友人が肯定してくれたところから、徐々に疲労がとれてきたような感触がありました。おっくうで仕方がなかった予定の数々に対する感じ方も変わり、今いる場所からどこかへ行けるような元気も戻ってきました。

 今朝、友人が送ってきてくれた写真はひとつのターニングポイントです。その場にはいなかったけれども、写真を見ることで卒業の実感が湧きあがり、All have been done I got through what I had to do and overcame me Thank you for everyone 本当に終われたのだ、と思いました。

Agnes

2019年10月03日 | 日記
 エッセイ提出間際はいつもちょっとしたスパイゲームのミッションインポッシブル状態です。余裕を持って終わらせようと計画はしているのですが、あまりのDemanding jobに結局は時間が足りなくなり、最後は分刻みの攻防戦です。いつも最後にNative checkをしてくれるアメリカ人のAgnesとは毎回メールでの、How’s it going ?!の応酬で、お互いの時差を考慮に入れて一応Draftを行き来する時間は決めるのですが、いつも少しずつお互い時間が押して最後は大幅に時間に押されて分刻みになります。

 論文を提出する時期には、大学構内の至る所に政治学部の誰々だとか経済学部博士課程だとかの名前とProofreading 100 wordsにつき£9とか£10という値段表記の手作りチラシがペタペタと壁に貼られています。
Proofreadingとは本稿が序論から結論まで一貫性があるかどうかNativeのEnglish checkも合わせた第三者にチェックを依頼して論文の確証性を高める作業のことを指します。Proofreadingは専門分野の知識も日必要になるので同じ分野の学生に依頼したほうがいいです。

 面識のない人に頼んでほんの少し直されただけで論文が返却されお金も取られたというイカサマProofreaderの話も聞いた中、私のお願いしたアメリカの大学のLinguistics博士課程のAgnesは非常に信頼がおけて細かく丁寧に手際よく直してくれます。

 彼女と出会ったのも偶然で、Proofreaderを見つけられないストレスを抱えながら修士課程に打ち込んでいたある日、いつものLinguisticsの大部屋の方で学会後のティーパーティーが行われていました。世界各国のアカデミックからLinguistics関係者が集まっていたようで、たまたまそこを通りかかりました。誰かいるかも!とひらめいたものの何だか気後れしてどうしようかと尻込みしている私に、クラスメイトのSimonがGo ahead! This is a chanceと背中を後押ししてくれました。

 賑やかなティーパーティー会場に各国から集まる30人の人々に向けて、I'm looking for someone who can check my dissertation as a proofreaderと声を張り上げたら、一瞬、会場がシーンとなった後、I’d like to do proofreadingとAgnesが手を挙げてくれました。そこで100 words per£10の取り決めをしてNice to meet you!と言い合った後、交渉が成立しました。

 彼女の編集は無駄がなく、私の回りくどい英語の一切を削ぎ落し、簡潔で美しい文章に仕立てあげてくれます。最終の編集を終えて帰ってきた論文は、The work has done to be sooooo beautiful after she edited!!

2018年9月15日

2019年10月03日 | 日記
 去年の9月15日は忘れもしない修士論文の最終提出日で、夜12時の鐘の鳴るその一歩手前の11:58にパソコンに光る提出完了の文字を見た後、ガチガチ歯が震えたのを覚えています。まるでシンデレラのミッションインポッシブルみたいに、提出時間の一時間前から目次を整えたり、ページをつけたり、図表と文章に共通の数字を打ちこんだりし始めて、思いがけずTechnical thingsなことに時間を取られ、パソコン画面と右下の時刻表示を睨めっこしながらすごい形相で作業をし、11:40に表示が切り替わるころ、もう今日中に間に合わないかもしれないと思った矢先、まるでアクション映画のヒーローのようにMさんが登場して、私に全部送ってください、私がします、と彼女が一旦、私の論文を全部引き取り体裁を整えてくれている間に、私は私でまだやり残しの作業を一心不乱に行っていました。

 昼間は昼間で、遅れに遅れた私のDraftを論文に対して一貫性があるかないかを行うProofreading兼EnglishのNative checkを行ってくれるAgnesからの返しを今か今かと待ちわびて、それが午後2時過ぎに戻り、真っ赤に赤字の入ったその原稿を脇目もふらずに直していました。どうしても今日中に提出するんだ、何が何でも終えるんだという気迫のみが前進させ、昼食も夕飯も取る余裕はさらさらなく大学の図書館でキーボードを打ち続けました。夜の9時になりいつもと変わらず守衛が図書館の終わりの合図を告げに来ると、なぜこのような特別な日に平常通りの閉館なのだと不満を覚えるも4階のLinguisticsの部屋に移動し、誰もいないその部屋で引き続き鬼気迫る思いで作業をしました。

 11:55にMさんから作業を終えた原稿が戻ってきて、2分で論文上の表とそれを示す内容が照らし合わさるように通し番号をつけ、締め切り間際はUploadする学生の混雑のせいでうまく上がらない憂慮もあり、どうにか最後のボタンを押したら11:58にHave Submittedのメッセージが表示されました。

 その後は、茫然自失状態となり、かねてよりしたかった論文の束からすべてのクリップを外し、いろいろな思いといっしょくたにごちゃ混ぜにしてゴミ箱に棄てて夜中の1時手前にロンドンの夜道を帰路につきました。

優しいひと

2019年10月03日 | 日記
 ロンドンで過ごした息もつけないような2年間の日々が、いつかいい思い出に変わる日が来るとはあの頃は露ほども夢にも思いませんでした。そして、あの頃の日々がいい思い出に変わろうとしている今、ふと、懐かしくあの頃過ごした家の近くの通りや街角が脳裏に浮かび上がってきてびっくりします。素敵な人に会えたのも、あの街です。

 沖縄に生まれたMさんは、クリスチャンを信奉する家庭で育ち、イスラム教を選び取りました。現在は、アルジェリア人の旦那様と出会いロンドンで暮らしています。その彼女にロンドン大学で会い、言語学部の博士課程である彼女に、論文の書き方を一から教わりました。何から手をつけていいのか、誰に教わったらいいのか途方に暮れていた私に手を差し伸べてくれたのは彼女です。寮と大学院がすべての往復であった私に、世界は様々なことで苦しんだり喜んだり動いたりしているんだという自分以外の状況を認知する視野はなくなり、学費と今までかけた労力と時間がこの論文を終わらせないことにはまったくの無に帰してしまうという世界の終わりのような危機感でがんじがらめになった私にとって、彼女は天から舞い降りたような一筋の希望の光でした。
 そんな思いとは裏腹に、彼女は当たり前のように、私の執拗すぎるメールでの質問の嵐にも大学構内でも時間を作っては丁寧にわかりやすく返答してくれました。あの時から論文の構成、書き方、考察の意味などが腹落ちしてき、どうにか終わらせられそうな私にとっては希望以外のなにものでもない光が見えてきました。
 
 今でも季節のGreeting cardsの交流があります。自分が落ち込んだり、人を傷つけてしまったかもしれないと後悔するとき、彼女の優しさと人のために労を惜しまない寛大さを思い出し、誰に誓うでもなく、彼女のような人になろうと思い直すのです。

修士論文

2019年10月03日 | 日記
7月の頭から修士論文の日々が始まり、ロンドンは曇り空と雨だなんていう定説を覆したあのよく晴れた初夏の日々に、今度は授業なしの図書館と寮の往復の日々が始まりました。朝9時に起きて、朝食を取り、図書館に向かいます。途中、必ず寄るカフェがあり、1日を始める前の心の準備としてアイスカフェラテを一杯飲み、その間に心を落ち着かせ、そして図書館入りをします。その後は閉館の9時までノンストップです。初めのうちは、お昼休憩を入れていたのですが、休憩をしたら戻らなければならない苦痛に耐えられず、そのうちに休憩をとることもやめました。お昼も取らず、携帯チェックもせず、ひたすらパソコンと論文を睨めっこしていました。夜9時の図書館に閉館時間になると守衛がやってきて、そこでやっと1日の仕事が終わったという気持ちになります。寮に帰るのはだいたい9時半前後で、1日の終わりに初めて美味しいと感じられるご飯を取ります。寮のシェアキッチンでは毎晩きまってイタリア人のカロリーナと顔を合わせ、私は簡単に作れる素面を、彼女はパスタをそれぞれ即席で作り食べていました。話題もきまっていつも、これが終わったらどんなにほっとするだろう、ストレスから解放だれるだろう、ということです。だけど、ある時、ふと心に浮かんだ疑問をカロリーナにぶつけてみました。本当にストレスから解放されて幸せになれると思う?!カロリーナは、なれるよ、なれる、絶対なれる、と断言しました。

修士論文の後半になると、音楽すらリラックスして聞けなくなり、British Libraryの前庭で流した透き通る女の人のVocalを聞いて、早く音楽を心からリラックスして聞けるようになりたいと切に願いました。