東京ではもう桜も散ったみたいですが、春の遅い信州では、やっと昨日、県内では早い方の南信地区の「高遠(たかとう)の桜」(←有名)が開花宣言したようで、
寒いKに至っては、お花を拝めるのは、まだ、もう少し先になりそうです。
そんなわけで、春の遅いKでは昔から、桃の節句は1ヶ月遅れの4月3日、端午の節句も6月5日に行うという風習があった。
それが、近年、全国チェーンのスーパーの広告などにより、ひな祭りも子どもの日も、全国区と同じになってきた。
「今年はお雛さまでも飾ろうか」、珍しく母がいい、私もブログのネタ用にちょうどいい(?)と思っていたところだったので、3月中に飾るつもりでいた。
(と言っても、母は提案するだけで、お雛さまを探すのも飾るのも、全て私一人、の仕事なんですがね・笑。(^^;))
ところが、ぐずぐずしているうちに3月11日に地震が起こり、とてもそんな気分ではなくなった。
それでも、と思い、3月末になってようやく、松本の人形店へ「ひな段」を注文。
子どもの頃、母が、小さなダンボールを組み合わせて、高さがちょうどになるように、それはそれは苦労して「ひな段」を積み上げたものであるが、
今は市販の組み立て式の「ひな段」というものがあるので、もうそんな苦労はしたくないから、思いきって買うことにしたのだ。
「ひな段」が届いたのが3月31日で、それより数日遅れて、サービス品の毛氈(もうせん・段に敷く赤い布のこと)が届き、「うつわ」の方は、万全。
ところが・・・それよりも、もっと大変だったのは、
その後の「“ひな”を求めて三千里」、のほう。
何しろ、最後にお雛さまを飾ったのは、もう、30年以上も前なのだ。
一体、どこにしまってあったっけ?
母が、自分の子どもの頃に飾ったお雛さまも、どこかにあったはずだというので、せっかくなので、それも飾ろうということになった。
母の子ども時代のお雛さまは、母の一番上の姉(大正7年・1918年生まれ)が生まれたときに揃えたものなので、単純計算しても90年以上はたっているということ。
昭和33年(1958年)に姉が生まれてからは、新しいお雛さまたちが、我が家に登場したので、古いほうのお雛さまは、完全に50年は日の目を見ていない(風にも当たっていない)ことになる。
古いほうのお雛さまは、店の倉庫の二階の奥に、桐の箱に入っているという。
が、まず、そこにたどりつくまでが、大変。
倉庫自体、色んな、いらないものがどんどんたまって、その場所に踏み込めないほど、物やゴミ?があふれているので、いらないものを片付けつつ、進むこと、二日で、やっとのことで、桐の箱を発見。
終わったときには、手だけでなく、顔まで、まっくろくろ。
まるで、マンガのようであった。
さて、90年前のお雛さまの入っていた桐の箱は、意外と早くに見つかってやれやれ、と思っていたら、
簡単に見つかるはずだった「私たち姉妹のお雛さま」のほうが、
探したんだよぉーーーーー。
こちらの方は、家の二階の押入れの中にあると母が言うので、2間(にけん・ふすま4枚分)ある押入れの、モノをどかしつつ、探していくのだが、これは、と思った箱二つは、どちらも、ハズレ。
その間、私や姉の小学校の頃の図画や作文が出てくるわ、ランドセルも見つかるわ、母の教員時代(結婚する前)の古いノートの束や本、教え子の作文の束まで出てきたのには、たまげた。
が、肝心のお雛さまは、どこを探しても、ない。
もしや、記憶違い?
二階にある、他のすべての部屋の押入れも開けてみるが、ほとんど布団や着替えばかり。
ない。
これはもう、どこを探しても、ない。
まさか、姉が持っていった?
電話してみるが、お内裏様が御殿の中に入っている、ちいさな「御殿雛」だけは持っていったが、大きいのは知らない、とな。
翌日になって、もう、ココしかないかも?と、「まさかあるはずない」と思って手をつけなかった、引き物の積み上げてある場所を手前から崩していったら・・・
一番奥に、それらしい箱を発見。
やっとの思いで、そいつを引っ張り出し、開けてみたら・・・
果たして・・・、
お雛さまでした。
もー、涙でそうだった。
30年以上のうちに、どんどん手前の方に荷物がたまっていったのね。
子どもの頃は、ずいぶん大きいと思っていた、お雛さまの入っている「ウイスキーのダンボール箱」(酒屋なので、物の保存箱は、たいてい大きくて丈夫なウイスキーや養命酒の空き箱を利用)は、大人になったら小さくなっていた。
4月3日のひな祭りにあわせて、前日の4月2日から探し始めたお雛さまが、
ようやく見つかって飾れたのは、4月6日のことであった・・・。
あ、あ、あーーー、ちかれた。
* * * * *
さてさて、まずはじめに、
50年日の目を浴びていない、90年前のお雛様は果たして・・・???
いやぁ。さすが。
桐の箱って、スゴイね。
全体が大きな桐の箱に入っていたんだけど、お雛さま本体も、それぞれが種類別に小さな桐の箱に入っていて、釘も外れかかっているほどに、年月を経ているのにもかかわらず、中のものはしっかりと守ってくれている。
虫も食っておらず、カビてもなく、多少埃っぽいのと髪の毛がちょっとヘンな以外は、
それはそれは、美しいお姿が、登場したのでした。
なんか、写真が、ボケボケですが・・・
(上の段)お内裏様の「立ち雛」
な、なぜに、男性(左)の方が、こげに、ちっさい!?
女性上位か?(笑)←なんとなく、立っているせいか、勇ましげな、女性。
(下の段)三人官女?
よく見ると、左の2体一緒のものは、左が女性で、右は男性なのだ。
こちらは、ごく普通のお内裏さまと、三人官女。よく見ると、お雛さまのお着物の、布の質が、私たちのお雛さま(新しいもの)より、いい感じがする。(祖父一家は当時鎌倉に住んでいたため、そのあたりで買ったものか。)霧の箱には「高級雛人形」の文字が。
立花(左)と桃(右)は、なんと紙でできてます。
面白いのは、下の段の「侍女が『狆(ちん)』のような犬を引っ張っている」人形。
以前TVドラマ『坂の上の雲』で、秋山兄弟が下宿している旧旗本の「おひい様」(のちの兄の妻)が、ちんを飼っていたことからもわかるように、古くは、このような愛玩犬を飼えるのはお姫様やお嬢様であり、女の子の憧れであったものと思われる。(今では「ちん」て、見かけなくなりましたね。)
母が『ハイハイ人形』と呼んで「これこれ、あったの!?」と目を細めた「赤ちゃん人形」(左2体、陶器製)と、布製(右2体)の、これも赤ちゃん人形か?
一番右の布製のものは、なんと、右から2番目の人形を見て、母が自分で手づくりした人形、らしい。(作ったのは大きくなってからみたいだが)
お雛さまとは直接関係ないが、一緒に飾っていたらしい。
後方の、布製の箱は、推測だが、当時としては美しい箱だったので大事にしていて、一緒に飾ったものではあるまいか。
こちらが、30数年ぶりに出てきた、私たちが子どもの頃のお雛さま。(写真ボケボケ)
昔の事なので、お内裏様は松本の父方の伯父、三人官女は横浜の母の叔母、五人囃子は平塚の母の伯父、随身(ずいしん-右大臣、左大臣)と仕丁(しちょう-三人上戸)は町内の親しくしていた林さんという小父さんから、などというように、
色んな親せきなどから少しずつお祝いにいただいて、そろえたらしい。
(姉の持っていった「御殿雛」も父方のもう一人の伯父にもらったもの)
たんすやお膳などのお道具は、母たちのものをそのまま使ったそうだ。
横浜の母の叔母と平塚の母の伯父というのは、祖母の兄妹で、4月7日生まれの姉の初節句(生まれた翌年になる)の頃、祖母の一周忌でKにきていた。実をいうと、祖母の亡くなった日に姉が生まれたのですよ。祖母は孫の誕生を楽しみにしていたが、ちょっとのところで間にあわなかったのです。
大叔母と大伯父は町内のおもちゃ屋さんへ行ってお雛さまを選んでくれたそうだが、大叔母が官女を見て「こんなのしかなかった」と残念がったそうであるが、言われて見れば、官女の着物はモノがイマイチ。自分のところにも姉より2つ3つ上の孫娘がいた(私たちの「はとこ」にあたる人)から、比べてのことなのか、Kの田舎のお店で買ったのが、ちょっと不満だったのかな。
<全体図>
90年前のお雛さま(向かって右)の後ろに掛かっているのは、「お雛さまの絵が描いてある“掛け軸”」で、やはり同じ頃の年代もの。それぞれ違う絵で2本ある。
新しい方のお雛さまに飾ってあるガラスケース入りの人形は、向かって右が「藤娘(ふじむすめ)」と「道成寺(どうじょうじ)」(左)で、やはり頂き物。
この頃から欲深かった私は、人形が大きくて着物が華やかな「道成寺」が自分の人形で、小さくておとなしめの「藤娘」が姉の人形だと勝手に決めて、そのとおりにした。下の子の常で、我がままで聞かない子であった・汗。
「ひなご膳」
母は、30年ぶりにお雛さまを飾ったのが、よほど嬉しかったらしく、翌日の4月7日は祖母の命日であり姉の誕生日なので、いそいそと和菓子を買いに行って(もちろん私の運転で・笑)供え、
またその翌日には、桜ご飯や澄まし汁,煮物などを作って供えた。
お膳は、祖父が生前、人寄せのためにと10膳そろえた「脚つき膳」を、初めて出してみたとのこと。
このお膳を使うことなく、祖父は祖母より一年早い、昭和32年1月5日に亡くなっている。
(祖父はその日、祖母の実家である平塚の大叔父の家に泊りがけで年始に行った帰りで、塩尻駅で、東京方面から乗って来た電車を乗り換えて、K方面行きの電車を待っている途中、駅のホームで倒れて亡くなったのである。 今で言う卒中だろうと思われる。祖母が長いこと病気で寝ていたのだが、祖父の方が先に亡くなってしまったらしい。)
今回、お雛さまを出してみることによって、この家に息づいている、ご先祖様たちの思いにも触れることができたようで、大変嬉しく、感慨深いものがある。
来月の連休に、姉夫婦と、姪夫婦が子どもを連れて遊びに来るので、せっかくなので、その時まで飾っておいて見せてあげるつもり。
もう、「桃」も「端午」も、この際、ない・笑。
それにしても、今回、お雛さまを出すついでに出たいらないもの(ゴミ)を、私の軽に一杯積んで、もう2回もクリーンセンターへ捨てに行ったが、まだ全然片付かない。
一生かかっても、ムリかもね。
ふあぁ~~~。
寒いKに至っては、お花を拝めるのは、まだ、もう少し先になりそうです。
そんなわけで、春の遅いKでは昔から、桃の節句は1ヶ月遅れの4月3日、端午の節句も6月5日に行うという風習があった。
それが、近年、全国チェーンのスーパーの広告などにより、ひな祭りも子どもの日も、全国区と同じになってきた。
「今年はお雛さまでも飾ろうか」、珍しく母がいい、私もブログのネタ用にちょうどいい(?)と思っていたところだったので、3月中に飾るつもりでいた。
(と言っても、母は提案するだけで、お雛さまを探すのも飾るのも、全て私一人、の仕事なんですがね・笑。(^^;))
ところが、ぐずぐずしているうちに3月11日に地震が起こり、とてもそんな気分ではなくなった。
それでも、と思い、3月末になってようやく、松本の人形店へ「ひな段」を注文。
子どもの頃、母が、小さなダンボールを組み合わせて、高さがちょうどになるように、それはそれは苦労して「ひな段」を積み上げたものであるが、
今は市販の組み立て式の「ひな段」というものがあるので、もうそんな苦労はしたくないから、思いきって買うことにしたのだ。
「ひな段」が届いたのが3月31日で、それより数日遅れて、サービス品の毛氈(もうせん・段に敷く赤い布のこと)が届き、「うつわ」の方は、万全。
ところが・・・それよりも、もっと大変だったのは、
その後の「“ひな”を求めて三千里」、のほう。
何しろ、最後にお雛さまを飾ったのは、もう、30年以上も前なのだ。
一体、どこにしまってあったっけ?
母が、自分の子どもの頃に飾ったお雛さまも、どこかにあったはずだというので、せっかくなので、それも飾ろうということになった。
母の子ども時代のお雛さまは、母の一番上の姉(大正7年・1918年生まれ)が生まれたときに揃えたものなので、単純計算しても90年以上はたっているということ。
昭和33年(1958年)に姉が生まれてからは、新しいお雛さまたちが、我が家に登場したので、古いほうのお雛さまは、完全に50年は日の目を見ていない(風にも当たっていない)ことになる。
古いほうのお雛さまは、店の倉庫の二階の奥に、桐の箱に入っているという。
が、まず、そこにたどりつくまでが、大変。
倉庫自体、色んな、いらないものがどんどんたまって、その場所に踏み込めないほど、物やゴミ?があふれているので、いらないものを片付けつつ、進むこと、二日で、やっとのことで、桐の箱を発見。
終わったときには、手だけでなく、顔まで、まっくろくろ。
まるで、マンガのようであった。
さて、90年前のお雛さまの入っていた桐の箱は、意外と早くに見つかってやれやれ、と思っていたら、
簡単に見つかるはずだった「私たち姉妹のお雛さま」のほうが、
探したんだよぉーーーーー。
こちらの方は、家の二階の押入れの中にあると母が言うので、2間(にけん・ふすま4枚分)ある押入れの、モノをどかしつつ、探していくのだが、これは、と思った箱二つは、どちらも、ハズレ。
その間、私や姉の小学校の頃の図画や作文が出てくるわ、ランドセルも見つかるわ、母の教員時代(結婚する前)の古いノートの束や本、教え子の作文の束まで出てきたのには、たまげた。
が、肝心のお雛さまは、どこを探しても、ない。
もしや、記憶違い?
二階にある、他のすべての部屋の押入れも開けてみるが、ほとんど布団や着替えばかり。
ない。
これはもう、どこを探しても、ない。
まさか、姉が持っていった?
電話してみるが、お内裏様が御殿の中に入っている、ちいさな「御殿雛」だけは持っていったが、大きいのは知らない、とな。
翌日になって、もう、ココしかないかも?と、「まさかあるはずない」と思って手をつけなかった、引き物の積み上げてある場所を手前から崩していったら・・・
一番奥に、それらしい箱を発見。
やっとの思いで、そいつを引っ張り出し、開けてみたら・・・
果たして・・・、
お雛さまでした。
もー、涙でそうだった。
30年以上のうちに、どんどん手前の方に荷物がたまっていったのね。
子どもの頃は、ずいぶん大きいと思っていた、お雛さまの入っている「ウイスキーのダンボール箱」(酒屋なので、物の保存箱は、たいてい大きくて丈夫なウイスキーや養命酒の空き箱を利用)は、大人になったら小さくなっていた。
4月3日のひな祭りにあわせて、前日の4月2日から探し始めたお雛さまが、
ようやく見つかって飾れたのは、4月6日のことであった・・・。
あ、あ、あーーー、ちかれた。
* * * * *
さてさて、まずはじめに、
50年日の目を浴びていない、90年前のお雛様は果たして・・・???
いやぁ。さすが。
桐の箱って、スゴイね。
全体が大きな桐の箱に入っていたんだけど、お雛さま本体も、それぞれが種類別に小さな桐の箱に入っていて、釘も外れかかっているほどに、年月を経ているのにもかかわらず、中のものはしっかりと守ってくれている。
虫も食っておらず、カビてもなく、多少埃っぽいのと髪の毛がちょっとヘンな以外は、
それはそれは、美しいお姿が、登場したのでした。
なんか、写真が、ボケボケですが・・・
(上の段)お内裏様の「立ち雛」
な、なぜに、男性(左)の方が、こげに、ちっさい!?
女性上位か?(笑)←なんとなく、立っているせいか、勇ましげな、女性。
(下の段)三人官女?
よく見ると、左の2体一緒のものは、左が女性で、右は男性なのだ。
こちらは、ごく普通のお内裏さまと、三人官女。よく見ると、お雛さまのお着物の、布の質が、私たちのお雛さま(新しいもの)より、いい感じがする。(祖父一家は当時鎌倉に住んでいたため、そのあたりで買ったものか。)霧の箱には「高級雛人形」の文字が。
立花(左)と桃(右)は、なんと紙でできてます。
面白いのは、下の段の「侍女が『狆(ちん)』のような犬を引っ張っている」人形。
以前TVドラマ『坂の上の雲』で、秋山兄弟が下宿している旧旗本の「おひい様」(のちの兄の妻)が、ちんを飼っていたことからもわかるように、古くは、このような愛玩犬を飼えるのはお姫様やお嬢様であり、女の子の憧れであったものと思われる。(今では「ちん」て、見かけなくなりましたね。)
母が『ハイハイ人形』と呼んで「これこれ、あったの!?」と目を細めた「赤ちゃん人形」(左2体、陶器製)と、布製(右2体)の、これも赤ちゃん人形か?
一番右の布製のものは、なんと、右から2番目の人形を見て、母が自分で手づくりした人形、らしい。(作ったのは大きくなってからみたいだが)
お雛さまとは直接関係ないが、一緒に飾っていたらしい。
後方の、布製の箱は、推測だが、当時としては美しい箱だったので大事にしていて、一緒に飾ったものではあるまいか。
こちらが、30数年ぶりに出てきた、私たちが子どもの頃のお雛さま。(写真ボケボケ)
昔の事なので、お内裏様は松本の父方の伯父、三人官女は横浜の母の叔母、五人囃子は平塚の母の伯父、随身(ずいしん-右大臣、左大臣)と仕丁(しちょう-三人上戸)は町内の親しくしていた林さんという小父さんから、などというように、
色んな親せきなどから少しずつお祝いにいただいて、そろえたらしい。
(姉の持っていった「御殿雛」も父方のもう一人の伯父にもらったもの)
たんすやお膳などのお道具は、母たちのものをそのまま使ったそうだ。
横浜の母の叔母と平塚の母の伯父というのは、祖母の兄妹で、4月7日生まれの姉の初節句(生まれた翌年になる)の頃、祖母の一周忌でKにきていた。実をいうと、祖母の亡くなった日に姉が生まれたのですよ。祖母は孫の誕生を楽しみにしていたが、ちょっとのところで間にあわなかったのです。
大叔母と大伯父は町内のおもちゃ屋さんへ行ってお雛さまを選んでくれたそうだが、大叔母が官女を見て「こんなのしかなかった」と残念がったそうであるが、言われて見れば、官女の着物はモノがイマイチ。自分のところにも姉より2つ3つ上の孫娘がいた(私たちの「はとこ」にあたる人)から、比べてのことなのか、Kの田舎のお店で買ったのが、ちょっと不満だったのかな。
<全体図>
90年前のお雛さま(向かって右)の後ろに掛かっているのは、「お雛さまの絵が描いてある“掛け軸”」で、やはり同じ頃の年代もの。それぞれ違う絵で2本ある。
新しい方のお雛さまに飾ってあるガラスケース入りの人形は、向かって右が「藤娘(ふじむすめ)」と「道成寺(どうじょうじ)」(左)で、やはり頂き物。
この頃から欲深かった私は、人形が大きくて着物が華やかな「道成寺」が自分の人形で、小さくておとなしめの「藤娘」が姉の人形だと勝手に決めて、そのとおりにした。下の子の常で、我がままで聞かない子であった・汗。
「ひなご膳」
母は、30年ぶりにお雛さまを飾ったのが、よほど嬉しかったらしく、翌日の4月7日は祖母の命日であり姉の誕生日なので、いそいそと和菓子を買いに行って(もちろん私の運転で・笑)供え、
またその翌日には、桜ご飯や澄まし汁,煮物などを作って供えた。
お膳は、祖父が生前、人寄せのためにと10膳そろえた「脚つき膳」を、初めて出してみたとのこと。
このお膳を使うことなく、祖父は祖母より一年早い、昭和32年1月5日に亡くなっている。
(祖父はその日、祖母の実家である平塚の大叔父の家に泊りがけで年始に行った帰りで、塩尻駅で、東京方面から乗って来た電車を乗り換えて、K方面行きの電車を待っている途中、駅のホームで倒れて亡くなったのである。 今で言う卒中だろうと思われる。祖母が長いこと病気で寝ていたのだが、祖父の方が先に亡くなってしまったらしい。)
今回、お雛さまを出してみることによって、この家に息づいている、ご先祖様たちの思いにも触れることができたようで、大変嬉しく、感慨深いものがある。
来月の連休に、姉夫婦と、姪夫婦が子どもを連れて遊びに来るので、せっかくなので、その時まで飾っておいて見せてあげるつもり。
もう、「桃」も「端午」も、この際、ない・笑。
それにしても、今回、お雛さまを出すついでに出たいらないもの(ゴミ)を、私の軽に一杯積んで、もう2回もクリーンセンターへ捨てに行ったが、まだ全然片付かない。
一生かかっても、ムリかもね。
ふあぁ~~~。
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