猫田ジャレの 『 天然!にゃー語 』

~ 見ネコ聞くネコ言うネコの とびきり天然な日常 ~

宮下和男先生、ありがとうございました。

2017年06月10日 | 本・文学・取材等



ご報告が大変遅くなってしまいましたが、

去る5月25日、所属する信州児童文学会において1988年~2006年という18年間の長きにわたって第4代目となる会長を勤められ、現在は顧問であられた 宮下和男先生が88歳(満87歳)にてご逝去され、

5月28日に先生の地元飯田市にある 「アイホールいとう」 にてご葬儀があったので参列させていただきました。


長年教職にあられたこと、信州や伊那谷の児童文学に貢献されてきたことなどから会葬人数の多いことが想定され、ご葬儀の前にお焼香だけの席が設けられ、その後ご葬儀。

現信州児童文学会会長(第7代目、2013年~)の和田登先生、第3代会長(79~87年)で現顧問の高橋忠治先生、現信州児童文学会副会長で黒姫童話館館長の北沢彰利さんなど、さすが文学を書いていらっしゃるだけあって、ツボと泣きどころを押さえた名文に感心、感動させられた弔辞が続きます。

中でも、宮下先生と古くから親しいご友人関係でもあられ、夏の会にはいつでも両ご夫婦でいらして奥様ともども仲の良かった高橋先生の、さすがは詩人であられる語りかけるようなお言葉が、先生の凛と響く朗々たるお声で読み上げられた時には、所々で号泣してしまいました。

ほか、宮下先生のご学友でもあられる信州大学教育学部第一期生の方、元同僚であられる教職員の方などが、やはりその道の方々らしい心に沁みる弔辞を読まれました。


しかしながら、総勢10人(組)もの弔辞の中でも一番印象に残ったのは、宮下先生の4人のお孫さんたちと、そして宮下先生より数年前に先に亡くなられたという実の弟さんのお孫さんだという中学生の少年の弔辞には、本当に心温まる気持ちがして感動しました。

私は実は、大人のご葬儀の際に子供が弔辞を読むというのを始めて見たのですが、
宮下先生が私達文学を志す仲間から慕われ愛されていただけでなく、お孫さんたちを本当に可愛がり、お孫さんたちからもとても慕われていた 「優しいおじいちゃん」 だったのだという事がものすごく伝わってきて、微笑ましい、暖かい気持ちになりました。




  

(上、本年度に発行された 『信州児童文学会創立60周年記念誌』 より表紙、宮下先生のページ。以下、写真は総て同誌より)


宮下先生との出会いは今をさかのぼること10年前、
私が生まれて初めての著書 『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』 を上梓した2006年の夏、日本児童文学者協会と信州児童文学会に入会させていただいたのですが、

たまたま信州の会はその年が創設50周年。
10月14日に信濃町にある黒姫童話館にて50周年の記念式典と、夜には場所を移して泊りがけのお祝い交流会が催されたのですが、おそらくお送りしてあった本を読んでくださってのことだと思うのですが、お会いしてすぐくらいの、まだ私という人物をほとんど知らないのに、

「『とうげの旗』という会が発行している読み物雑誌があるのだけど、その中に子供たちを取材して書くページがあって、今私がやってるんですけど、いずれはそれを猫田さんに任せたい。」
というようなことをおっしゃっていただき、本当にびっくりしました。
その時はまだ 『とうげの旗』 という雑誌自体を見ていなかったこともあって何だかよくわからないながらも、そんな大事なものを本当にまかせていただけるのだろうかと、驚きや喜び、戸惑い、そしてなぜか、まさかね、聞き間違いかも、ともちょっとだけ思ったものです。




( 50周年記念の親睦会の翌朝。東京からわざわざお祝いに駆けつけてくださった童話作家松谷みよ子先生も信州の会5代目会長を務められたはまみつを先生も既に鬼籍の人となられました )


そのお話がいよいよ本当のことなのだ、とわかったのは、たぶん2007年か2008年頃に、その担当ページ(「スポット」というのですが)を引き受けてほしいと宮下先生から直接お電話をいただいた時でした。

本来ならとても喜ばしいことで二つ返事でお引き受けしたいところなのですが、その時私は体調を崩していて、とてもお引き受けできるような状態ではありませんでした。
それで宮下先生には、大変嬉しい気持ちはあるのだけれど、今は体調が悪くてとてもお受けできないのだということを病状とともに正直にお話しし、
いずれ体調が回復した時に、もしもまだ後継の方が決まっていないようでしたらその時は喜んで引き受けさせていただきます、とお伝えしました。

そうしましたら、後継の方が見つからなかったのか(笑)見込んでくださったのかはわかりませんが、その一年後くらいにもう一度宮下先生からお電話がかかってきて、 「『スポット』のあとを引き受けてくれないか。」 とおっしゃってくださったのです。

一年間待って、再びお電話をいただいたことの嬉しさと申し訳なさ、丁度その頃、少しずつ病気が快方に向かいつつあるのではないかと思いはじめていたことなどから、これはもう、お断りしてはいけないのではないか、との思いから、正直まだ完全ではないので自信はなかったけれど、「スポット」のお仕事を引き受けさせていただく決心をしました。

詳しいことはいつか書くので省略しますが、病気回復への大きな糸口となったのだなぁ、と思えることがあって、

それは15年ぶりに人生2度目の参加をした 「アルフィーのコンサートとアルフィーという存在」。

そして、「スポット」 を担当させていただけたこと。

その二つが大変大きかったのではないかと思っています。


「スポット」 により書く場所を与えていただき、それにより、私の書いていかれる道、自分の存在できる場所を与えてもらった。

「書くこと」 が、その時も今も私のすべてなので、

アルフィー と 「スポット」(その場を与えてくださった宮下先生) は、まさしく “命の恩人” だと今でも思っています。




毎年8月初めに開かれる会恒例の 「夏の会」(一泊二日の観光、交流も兼ねた勉強会) に初めて参加したのは50周年の翌年2007年。(2006年は秋に50周年記念式典と交流会があったため夏の会がなかった)
実はこの時すでに体調が悪かったのだけれど、自分にとって入会後初めての夏の会だったことや、なんとか病気回復の糸口をさぐりたくて参加しました。

(はま先生ご所望の白鳥ボートに乗ったり会自体は大変楽しかったのですが、体的には結構しんどく、暗中模索は続きました。写真は笑っていますが表情が今一で薬のせいなどで過去最高に太っていました・笑)




2009年の夏の会は浅間山の麓にある 「あさま山荘」。

『とうげの旗』 は季刊で、 「スポット」 を担当したのはその年の秋号からでしたので、まだ雑誌になったのは一冊、取材も2冊分くらいしかしていなかったのですが、
「スポットは大変やりがいがある。やらせていただけて嬉しい。ずっと担当したい。」 などと懇親会で勢い余って豪語しました。(笑)

翌日横浜へ飛び、アルフィーの、私にとっては最初で、最後となった “野外の” 夏のイベントに初日の一日だけ参加しました。



そんな風に “正に水を得た魚、この場所は誰にも譲りたくない” と思っていた 「スポット」 でしたが、
少子化や時代の波に押され購読者数が激減した “親子で読み合う雑誌”『とうげの旗』 は財政難から廃刊を余儀なくされ、信州児童文学会の会員は、新たな発表の場を探るべく、廃刊に至るまでの2年間を故はまみつを先生を会長(当時)に、協議を続けました。

『とうげの旗』 は、子供達に直接届くものではない、同人誌として再々スタートする (創設当時はその形態、第2期が子供に届く雑誌なので第3形態になる) という案がほぼ決まりつつあった、翌年の春号を最終刊として迎える前年2011年の夏の会。

その時の話し合いの様子や、その後のことは、私にとって決して大げさではなく、あらゆる意味で生涯忘れられない日となってしまいました。
詳しいことは書けないのですが、私は発言を求められるままにつぃ言ってしまったことを後々まで後悔し、その言葉を受けてだと思うのだけれど、宮下先生が発言された言葉も、今でもはっきりと覚えています。




その後自分は3月の総会や夏の会から遠ざかってしまったので、図らずもこれが宮下先生に生前お会いした最後となってしまいました。

(2010年6月「はまみつをの童話の世界展」を開催し、その後大町で開かれた夏の会に出席されたのを最後に2011年2月にはま先生が急逝された、その年の夏のことです。)



ここ何年か体調不良のため、開催地が長野市と遠いこともあり3月の総会、懇親会、夏の会にも出ていらっしゃらなかった宮下先生ですが、

昨年は先生の地元飯田支部担当で開催されたので、宮下先生も久しぶりに出席し講演会をされるご予定でした。

私も、宮下先生がいらっしゃるなら久しぶりに参加してみようかな、と思ったのですが、日程が合わず断念しました。


ところが後で聞いたところによると、何としたことか、その直前に宮下先生はご自宅で転倒され入院、講演会は幻と終ってしまったのです。

その後宮下先生は入退院を繰り返され、今年5月23日に肺炎で入院され、残念ながら25日にお亡くなりになってしまわれました。



第1回日本児童文学者協会新人賞に選ばれるなど、輝かしい経歴と沢山の著書をお持ちの宮下先生ですが、

それよりも、特に会長職を辞されたのちの近年に、度重なる病などに悩まされながらも、

 231枚からなる自伝的長編小説 『分教場ものがたり』(信州児童文学会誌「とうげの旗」第6号-2014.2.25発行:掲載)

 『里山少年期・続分教場ものがたり』(信州児童文学会誌「とうげの旗」第12号-2016.7.25発行:掲載)





 

 評論 『椋(むく・椋鳩中のこと)文学の源流をさぐる』(信州児童文学会誌「とうげの旗」第10号-2015.6.25発行:掲載)




 著書 『炎は踊る―手づくり花火の里阿智村清内路』 新葉社刊 (2010/09)

信州阿智(あち)村清内路(せいないじ)で毎年秋祭りに打ち上げられるという、この地に280年も続く伝統の手作り花火。
他の地域では見ることのできない幻想的な手作り花火がどのようにして守られてきたか、その魅力と秘密を宮下先生の精力的な取材により見事に結実させた一冊。
また巻末には自作の童話4編も収録されている。


など、精力的に執筆されてきたお姿には頭の下がる思いです。



私は、あの日つい本音を口走ってしまったこと自体はとても後悔しているのですが、

それがどう取られるかは別として、大変生意気ながらも、自分の思っていることが間違っているとは今でも思ってはいません。
(というか、人はどうであれ私はそのスタンスをめざし貫きたいと思う)

それでも、私を見いだしてくださって、書く場所を与え、育ててくださった宮下先生には今でもとても感謝しているし、そのご恩を忘れることは生涯決してありません。


そして、あの日宮下先生がおっしゃったお言葉と、

先生の 「書くことへの情熱」 と、ご立派なお姿、姿勢も生涯忘れることはないだろうと思います。


今更遅いかもしれないけれど、先生への謝罪と感謝の気持ちを込めて、遺影に深々と手を合わせ、

もしも償えることがあるのだとしたら、


これからも、私のやり方で、私の言葉で書き続けること、それしかないのだと

誠に勝手な解釈かもしれないけれども、宮下先生がそう、私に書け、と言ってくださっているような気がして、

このたびの先生のご訃報は、誠に残念ながらも、たいそう身の引き締まる思いがしたことです。




宮下先生の朴訥な風貌、飄々としたユーモラスな味わい、暖かいお人柄を表すかのような、お心のこもった暖かいご葬儀でした。



 宮下先生が、まさしく身を削るようにして書いてこられた、 『とうげの旗』 に掲載された 『分教場ものがたり』、『里山少年期・続分教場ものがたり』 は、

『里山少年たんけん隊』 として、来月ほおずき書籍出版より刊行されます。

発売を待たずに逝かれたことは、誠に残念でなりませんし、今となってはまるで遺言状のような書籍ですが・・・

きっと本の中で永遠に、宮下先生は生きておられるのだなぁと私は思います。


死した後も作品として、作品の中で生き続けること。

それこそが、書く者みんなの願いです。






『里山少年たんけん隊』刊行準備会事務局 代表人 北沢彰利さん のフェイスブックに載せられた、本の表紙写真と校正原稿。 (北沢さんの承諾を得て掲載)



ご葬儀の際配られたご本の注文書 (私もその場で記入、申込みしてきました) の裏に掲載された、亡くなられた後に発見されたという宮下先生直筆の 「本のあとがき」 は、ご病気のせいか行がやや曲がっているけれど、先生の几帳面な文字で埋め尽くされていて、胸が熱くなります。

下お二人は本のご推薦人の方々です。




5/30 新聞『南信州』 に掲載された、北沢彰利さんが寄せた宮下先生の追悼記事。 (北沢さんの承諾を得て掲載)




【 追記 】



 『とうげの旗:155号』(写真右端) の 「スポット」 は、飯田市立動物園に行きました。

 

読者から募った、名所めぐりにいっしょに参加してもらう “子ども探検隊” というのを自分で考案し企画したのですが、
その第一回目だったので、飯田市と周辺にお住いの 宮下和男先生 と 第14代「とうげの旗」編集長を務められた 北原幸男先生 にお願いして、ご自身のお孫さんやその友人たちを誘って、内緒で参加してもらいました。
(後列左端が北原先生、二人目が宮下先生ですがお名前は明記していません)

うっかりして調べ忘れていたので、ご葬儀の時に宮下先生のこの時参加された内孫さんとお話ができず、あとから残念に思った次第ですが

この時、訪問場所が動物園だったので、自分も動物や子供たちとも触れ合えたことでとても楽しかったこと、
また、宮下先生に自分が企画した 「子ども探検隊」 の様子やその後の記事を読んでもらえたことがなんだかとても嬉しくて、今でもとてもいい思い出です。

「スポット」 での取材は、もちろん大変な事もありましたが、どの場所も、そこで頑張っている子供たちや大人も魅力的で、とても楽しくかかわらせていただき、本当にやりがいのある、どこも大変に思い出深かったです。


 私が3年間担当した記事は  こちら  HP「なんとなく、イナカタル:仕事」 『とうげの旗:スポット』  で読めます。









 宮下和男

1930年、長野県飯田市生まれ。
信州児童文学会第4代会長。顧問。 元日本児童文学者協会会員。元飯田女子短期大学教授。

信州大学教育学部卒業後信州児童文学会に入会。長年にわたり国語と音楽で教鞭をとりながら児童文学を精力的に書き続ける。

1968年「きょうまんさまの夜」(福音館書店)で第1回日本児童文学者協会新人賞。
主な著書に「ばんどりだいこ」(ポプラ社)、「しかうちまつり」(大日本出版)、「春の迷路」(ほるぷ出版)、「少年の城」(岩崎書店)、「落ちてきた星たち」(岩崎書店)、「少年・椋鳩十物語」(理論社)、「野生のうた・椋鳩十の生涯」(一草舎)等、多数。

自身の執筆、研究の傍らで後進の指導にも当たり、多くの童話作家を育てた。




 2006年には、信州児童文学会が発足して50年、児童文学誌 『とうげの旗』 を発行し会員の創造的活動を通して長野県内での児童文学普及に努めたことにより 『第13回信毎賞』 を受賞。

授賞式に出席された、信州児童文学会の先生方。
(前列左から北原幸男、高橋忠治、宮下和男。後列左から羽生田敏(はにゅうだ さとし)、和田登、はまみつを諸氏。敬称略)


 前列左から三番目、晴れやかにブロンズ像を手にしておられる宮下先生。

ご自身の長年の夢であった
「この賞を取るために長いこと会長職を続け、アピールし続けてきたんだに?」 という柔らかな飯田訛りが、今でも聞こえてきそうです。


改めまして、宮下和男先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 



※ 「信毎賞」 とは長野県下の文化・社会・教育・産業・スポーツなどに貢献し実績顕著な個人、団体に贈り県民文化の発展に寄与することを目的とする賞で推薦委員会などの推薦に基づき、審査委員会が審査し、信濃毎日新聞社社長・信毎文化事業財団理事長を会長とする表彰委員会が決定する。
正賞にはブロンズ像と副賞(賞金100万円)が贈られ、毎年信濃毎日新聞創刊記念日(7月5日)に贈呈式をおこなう習わしとなっている。





【注】
その他 


『信州児童文学会50周年記念誌』


 信州児童文学会会員 原田康法氏ブログ 『美和の里児童文学館』(宮下和男先生のページ) 等も参照させていただきました。
深くお礼申し上げます。      






 唯一私が所有している宮下先生のご著書 『春の迷路』(1982年 ほるぷ出版)。











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御嶽海、初の「殊勲賞!!」

2017年05月30日 | 御嶽海、相撲


5月29日付 『市民タイムス』 より



大相撲5月場所、御嶽海は初日に 横綱 鶴竜 を破り3連勝、勢いづくかと思われたが、

場所前にけがを負い稽古不足、本人としても不安のまま土俵に上がったことが災いしたのか、

4日目からまさかの連続6連敗。(過去最悪)


本人も 「頭の中が真っ白になった」 というほど負の連鎖から抜けられなくなる。      

もう後がないという11日目に、それまで無敗を誇っていた 横綱 日馬富士 に土を付けたことからようやく立ち直り

10日目からの5連勝で勝ち越しを決めた。       


8勝7敗 で小結として 2場所連続勝ち越し
2横綱を破り、 初の 『殊勲賞』 を受賞
    した。


 三章受賞は

昨年5月場所での 『敢闘賞』  

今年初場所での 『技能賞』 以来だが、入門僅か2年目にして三賞のすべてを獲得することとなった。          



 新関脇昇進 の期待 がかかる 7月名古屋場所の番付は6月26日に発表される。


場所中は夕方からそわそわしてテレビを入れ、家族みんなで応援      

お相撲さんもだいぶ覚え、場所が終わるとなんとなく毎日手持無沙汰で寂しいほど。   


Kより一番近い名古屋場所での昇進が決まれば、応援にも一段と力が入ることでしょう     


 郷土の星    頑張れ    御嶽海関        








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平林義男作品展ご案内

2017年05月16日 | 平林義男アートの世界
  


 高校時代の美術科恩師、平林義男先生が、今度は諏訪市にて個展を開催されます。

1ヵ月間の長期にわたる開催で、前期と後期では作品の入れ替えをするそうです。


 詳しくは上記ハガキをご参照ください。



 【 過去個展作品より 】

 

  

  



  




※ すべての展示作品の写真撮影、ブログへの掲載はご本人の承諾を得ております。





 平林 義男 (ひらばやし よしお)

1951年長野県諏訪市生まれ。美術専門学校を経て多摩美術大学油絵科卒。
卒業と同時に帰郷、美術教員の傍らで絵を描き続け、地元を中心に個展、グループ展などに作品を発表し続けてきた。
永年勤務した諏訪二葉高校を退職後の現在、個展やインターネットなどを通して多彩な作品世界を展開中。長野県茅野市在住。

受賞歴:上野の森美術館大賞展入選、同・自然を描く展・自由課題部門、フジテレビ賞、佳作賞、優秀賞、日本放送賞。FUKUIサムホール美術展、準大賞、優秀賞、FBC賞他。

作品収蔵:福井会館








 《 参考ブログ記事 》

当ブログ  『平林義男アートの世界カテゴリー』  をご参照ください。


◆『平林義男 絵画展 / 日記』 開催のお知らせ  2017年04月05日

◆『平林義男作品』 がウェブサイト上でご覧いただけます!!  2015年10月14日

◆今頃、過去のニュース(^^;)ゞ・その③ 「積年の夢、ついに我が手中へ」  2014年08月14日

◆平林義男 作品展 『題名のない日記』10月9日~14日 於:茅野市民館市民ギャラリー  2013年10月12日

◆7th 平林義男 個展 in ナーサリーライム ( 下諏訪町 10/29 )  2011年11月01日

◆「多面体展」  2010年11月09日

◆『伴さんの額』~平林義男・小品展~   2010年09月18日


など。
















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ご無沙汰フラッシュニュース!! その1.Takamiyお誕生日

2017年05月11日 | THE ALFEE & Takamiy



 大変遅くなっちゃいましたが、この世で最も尊敬し大好きな方でもある、ミュージシャン高見沢俊彦さんが4月17日に63歳のお誕生日を迎えられました。


                               


当日はツイッターの方にてつぶやいてましたので、つぃこちらに書けませんでして、どうもすみませんでした。

当日は自分のツイを3連チャンしただけでなく、フォロワーさんのBDツイをハシゴし、いいねとRTを繰り返しましたので、

@Jarejare7 に行っていただけますと、

ツイッターをやっていない方でも
私のツイおよびRTが読めるようになっておりますので
 

ご興味のある方はぜひ覗いてみてください。よろしくお願いいたします。   


みなさんどこから見つけてきたの? と思うようなタカミーの素敵な写真満載や、素敵な手描きイラストなどの画像付きでタカミーBDを祝福。

見ているだけで私もとても Happy な気持ちになり、一日中、すごぉ~く  幸せで楽しかったです。     

( ただしだいぶ前なのでさかのぼって読むのは大変かと思いますが  )





 今年も幸福の手紙が届きました     



やったぁ~    でも、2Days なんて親も高齢だから心配だし、作品書けてるかわからないし・・・ 行かれるのかなぁ~   



4月26日の市川ライブ後に発表になったとの情報を得たので、とりあえずその日のうちに (深夜は回っていたが) まず激戦のホテルを速攻確保。    
( それでも既に目を付けていた近いホテルは埋まってて、ちょっと遠くなっちゃいましたが・・・恐るべし夏イベ  )

その後DM届き、そこまでしたら行きたくなるので・・・    

ええいっ    ゼッタイ行くぞっ       と、2Days 先攻で振り込んじゃいました。

2日間楽しく参加できるように

  
※注2.






 Takamiy × Kitamura のコラボバッグ が、今年で10周年を迎えたとのことで、第3弾シリーズが5月3日より販売。

オンラインショップはその日の午後にはかなり売り切れてて青くなりましたが・・・      
( 連休で忙しく、うっかり販売スタートの10時に間に合わなかったので・汗 )

なんとか、ほぼ欲しかったものを無事?ゲット、
早期購入特典の 「10th anniversaryロゴ入りハンカチ」 とKポイントカードの3倍セールでたまったノヴェルティとして 「革製チャーム」(いくつかある中で自分で好きなものが選べた) までいただいちゃい、なんだかすごぉ~く得した気分に    

 

お財布は今年2月に新調したばかりでかなり気に入っていて必要なかったけれど、通帳入れがだいぶ古くなりボロッちくてちょうど買い換えようかと思っていたので、始めからお財布を 「通帳ケース」 にするつもりで購入しました。(色は大好きなピンク) 

普通は 「Kitamura」 となるはずのロゴが同じような文字デザインで 「taKamiy」 になっているという茶目っ気がこのコラボ商品の最初からの特徴。
今シリーズは 「10th anniversary」 ロゴも押されていて、10年のコラボ史を知る者にも嬉しい企画。
前回2作はスカルがついていたので私的に今一な感じでしたが、今回は天使の羽をイメージした優しいデザインで◎でした。

チェーン付きなのでバッグ風に持てるのが可愛いのと、ギターピックをイメージしたファスナートップが素敵です。



 この2つ (長財布はピンクの色の濃い方で左) は自宅と店を往復するデカバッグに入れ毎日持ち歩いているため、見るたびとても幸せ気分になれます。    

実はローンで他にも買いましたが、色々と説明が長くなるので、  またの機会にご紹介しますね。
   

Takamiy × Kitamura のコラボバッグ、第一弾は上京ついでにわざわざ横浜元町本店まで見に行ったのだけれど結局買わなかったり、第二弾のも買ってなく、第3シリーズにして初購入、

しかもキタムラといえば、大学時代に流行り、可愛かったので自分も好んで着ていた 「ハマトラファッション」※注1. の “3種の神器” ですから、喜びもひとしおです    
( 当時は地方から出て来て一人暮らしをしている貧乏学生には高くて買えなかったので似たようなもので代用した記憶が。 )



 だいぶ前に流行った?らしいのですが、今年1月にLINEを始めたばかりで知らなかったので

「高見沢さんスタンプ」 というのを最近初めて知りました 



もちろん  即お買いあげて 「タカミーLove」 を知っている友人などに送りまくってます。    


お誕生日に寄せて・・・これからも



かっこいいタカミーでいてください。     



そして、ずーっと歌い続けてくださいね。       



ずーっと応援しています。    




そして



こちらのほうも、ずぅーっと私達をいやしてくださいねw   


5月24日にはnew シングルも発売予定           

今年も Takamiy の活躍から目が離せません        





※ 冒頭写真は、アルフィーマニアサイトにメンバーそれぞれのBD当日だけ儲けられる特設お祝いメッセージコーナーからBDメッセージを書いて送信するとお礼にもらえる 「メンバーサイン入りカード」(タカミーバージョン) です。


※注 『ハマトラファッション』

1970年代後半から雑誌社の企画により誕生したトラディショナル・スタイルのファッションで、
主に女子大生やその年齢層の若い女性が嗜好した 「横浜トラディショナル」 を略して、ハマトラと呼ばれる。

1970年代中頃から流行していた 「神戸発のニュートラ」 に対抗する 「横浜発のファッション」 という触れ込みで、女性ファッション誌 『JJ』(光文社)  の企画で1976年前後に生み出されたファッション・スタイル。

『JJ』 は横浜・元町界隈に集う女子大生たちの、ニュートラとは違う独特のコーディネートに着目、
“おしゃれな港町横浜のお嬢様学校・フェリス女学院大学” に通う女子大生の着る物・身に付ける物をイメージして、
大学の最寄りの横浜・元町商店街で扱う商品から選んで登用、1979年から翌1980年にかけて一大ブームとなった。

「海外高級ブランド」 のアイテムも組み合わせる 「ニュートラ」 が社会人やフォーマル・ファッションまで範囲とするのに対して、
ハマトラは 「キャンパス・ファッション」 の範囲に限定されたカジュアル・ファッション。

ポロシャツとベストやカーディガン、タータンチェックの巻きスカート、ハイソックス、パンプスが基本的な組み合わせである。
「元町商店街に本店を構えるブランドが定番」 で、

“フクゾーの洋服、ミハマの靴、キタムラのバッグ” が神奈川県内では 『三種の神器』 とまで呼ばれていた。

上述の元町ブランドの他にも、ハマトラにおける唯一の海外ブランドの定番アイテムとして、 
「クレージュの弁当箱型ショルダーバッグ」 
(これは頑張って買った自分にとって初めてのブランド物ですね・笑。他の高級ブランドよりはお手ごろだったこともあり、長い間自分のお気に入りブランドでした) や、
ブーム末期は都内で展開した 「SHIPS や ボートハウス」 などの胸元にロゴが入ったトレーナーなども取り入れられた。
よくいえば 「清潔感あるお嬢様」、 悪くいえば 「子供っぽいスタイル」 とも言われた。  

(以上、ウィキペディアより抜粋、意訳)




※注2.
猫田ジャレHNの 「れいこさんスタンプ」 もありました。      だれも興味ないと思うけど・笑。

      

        
   








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御嶽海写真集 第2弾でました!!

2017年04月21日 | 御嶽海、相撲


『御嶽海 2年目の躍進』 (2017年4月17日 信濃毎日新聞社:刊)




入門(2015年2月)からの1年を追った写真集第1弾 『御嶽海 入門1年』 (2016年4月15日 信濃毎日新聞社:刊) に続き

当社カメラマンが密着取材、入門2年目に当たる2016年3月場所~2017年初場所までのすべての取り組みを追って解説を加えた愛蔵版。

また、支度部屋や髪結いの様子など舞台裏の魅力にも迫ったファン必見の一冊。

髷から大銀杏へと変わり、本人もプロらしくなってきたと満足げ。




写真集発売を予告した 3月21日付 「信濃毎日新聞」



新しい写真集を手にし喜ぶ御嶽海関 4月14日付 「信濃毎日新聞」



これまでに

 十両優勝 (2015年名古屋場所)
 敢闘賞 (2016年夏場所)
 技能賞 (2017年初場所)    を獲得。   

 金星2つ (いづれも2017年初場所)   を揚げ   


人気も全国区。         


木曽谷が生んだ新進気鋭の若手であり山国の風雲児、前途期待大の御嶽海の軌跡をこの機会にぜひお買い求めください。


 お求めは 信濃毎日新聞社出版部 026-236-3377

または Amazon にて 絶賛発売中 




着流しに唐傘、関取としての貫録も十分。それでいて若く溌剌としているのがいいです。

その実力だけでなく、可愛らしい風貌、やんちゃ発言も魅力ですね。    
   





 4月14日 には 日本相撲協会春巡業 大相撲松本場所 が 松本市総合体育館で開催され、

満員御礼  地元を中心に約6000人の集まったファンを沸かせました     



4月15日 「市民タイムス」



(同上)

遠藤などの人気力士や地元出身の3力士など総勢260人もの力士が参加、地元相撲クラブや子供たちとの取り組みや稽古、禁じ手を面白おかしく披露する初切 (しょっきり) などのパフォーマンスで笑わせたり、

同世代の好敵手 正代関 に御嶽海が すくい投げ で勝利すると会場は大いに沸きかえった。



(同上)

懸賞金が53本も登ると会場からは歓声が上がるなど、終始熱気と和やかな温かい雰囲気に包まれた。



※『大相撲松本巡業』 は 御嶽海関の入門 を機にその人気にあやかろうと、平成27年(2015年)に8年ぶりに開催、以降毎年開催され、御嶽海入門からは3年連続での開催となる。









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松商・取材関連ニュース その7.(後編)

2017年04月07日 | 松商、中原監督 関連



松商関係者の皆さま、大変長らくお待たせしてしまいまして申し訳ございませんでした。    


 25年後の選手の皆さんに出逢う旅・・・


昨年2016年10月27日に H3 花岡 忠 君 (38人目) の取材をせていただき、

12月29日 (2016年の3学年忘年会のあった日) に 『松商・取材関連ニュースその6.』 をUPしてから、

ほんとに長い時間がたってしまいましたことを深くお詫びいたします。


まず、年が明けてから、2015年の忘年会には来なかったが2016年には参加した方などを中心に新たに取材を増やしました。



 明けた2017年1月14日 H5 上條 雅也 君。

H5のレギュラーメンバーの方で取材辞退された方がいらしたため、忘年会に参加はしていないけれど、どなたか近場でレギュラーだった方を、と紹介していただきました。

上條君は現在伊那市在住で、その日は朝から大雪でしたがうまく会うことができました。

当時のことを懐かしそうに話しながら、野球が自分を救ってくれた、控え選手の人が頑張ってくれたので僕らが試合に打ち込めた、
あの学年、全員で1つのチームだ、と強調していたのが印象的でした。

帰り際のひと言も忘れられません。

上條君、雪の中をわざわざお時間を作っていただきましてどうもありがとうございました。



 1月24日 H4 降旗 哲也 君で2016年参加組。

仕事でたまたま本木に会って、たまには忘年会に来いよ~、というから出たのに、あいつ来ないんですよ・笑。

久しぶりに行ったら、小沢と池本が誰だかわかんなかった。(笑)

など、まじめでとてもおとなしそうな、この人が野球をやるのかしら、と思うほどもの静かな中にもユーモアのにじみ出る降旗君。

とてもいいエピソードも聞けて、お会いできて本当によかったです。ありがとうございました。



 1月30日は、中原英孝監督 に、
この本を電子書籍化しようと思った2015年の12月、誰よりも最初に会っていただいてから1年がたち、
ウェルネス野球部も始動し、それらも含めての 2度目の取材 をさせていただきました。

今回は 『とうげの旗・スポット』 での取材にいつも同行していただいていた、とうげの旗編集長でカメラマンの 松永 ひろし さんに写真を撮っていただきました。

松永さんは3人で歓談したのちあちこち要所の写真を撮り、私より先に退室したのですが帰り際、

「監督、最後に一つだけ聞いていいですか?」 と、監督のベンチでの采配について質問し、その受け答えに感激した模様、

戻ってからのメールで
「中原監督のお人柄には感服いたしました。
たいした人ですね。」

と、一言。
あれだけの短い時間でそれを悟った松永さんにも恐れ入りましたが

私はこの日、ずっと聞けなかったあることをお聞きしたり、これまで自分が思っていた以上に監督の凄いところを感じ入ることができ

本当に本当に感服いたしました。     


中原監督は、これまでもそうでしたが、それ以上に、とてもとても スゴイ人     というのを改めて再認識しました。

それをうまく言葉にできるようにと願います。    




監督さんとのツーショット。   たぶん、本には載らないと思いますので、こちらに。



 2月5日 H4 小沢 智治 君。

彼も2016年の忘年会だけ参加組で、増やした人です。

とても面白くて、ある意味お調子者? の小沢君。

「以前にも一度会ってますよね?」 の問いに 「いや、初めてだと思いますよ~。」 と答えましたが

思い出しました 
1992年、松商学園高を尋ねたときに多分会ってます。

証拠写真となったのは、こちら。





金森写真さんのアルバムからですが、後列左右どちらからも3人目、草田アナの真上が小沢君。

何年か後にこのアルバムを見ていた時に、突然  「うわぁ、たぶんこの人、あの時のアイツだぁ~ 」 と思ったものですが、何分にも忘れていたんです、大昔のことですから。

そして、今回初めて小沢君に会った時にも思いだせなかったのだけど・・・
小沢君に会った後にまたもや偶然このアルバムを見て、これだっ  と思い出しました。
で、次に会った山口君に 「この人は誰ですかね?」 と聞いたらやっぱり小沢君だというので・・・
やっとつながったというわけです。(意味、わかりますかね? 

それにしても・・・25年前に逢った時も調子よかったですが、昨年忘年会に出たのは自分だって久しぶりだったくせに、
「自分が今年幹事なんですよ~、猫田さんも忘年会来ればいいのに。招待しますよ」 ですって。 

ねっ? お調子者でしょ  
それにしても小沢君、そのことは抜きにしても、楽しいお話を色々とありがとうございました。   

種明かしエピソードは、もしもまたお会いできたら、その時にでも。(笑)



 25年後の選手たちに出会う旅、最後の取材となりましたのは 42人目、H4の 山口 伸 君。 2016年参加組です。

彼は、H3のチームに入っていなかったのに、下級生で二人だけ10年前の本に名前入りで写真が載った2人のうちの一人 (もう一人は雨宮君) です。





証拠写真。(書籍より)


自分で会社を興し社長となっている彼は、言葉にも説得力があり、本当に生き生きとして自身に満ち溢れていました。

帰り際、ご馳走になったお礼にと仕事用にと持ち合わせていた 「野沢菜漬け」 をお土産にくれて、
待たせてあった迎えの部下の車に飛び乗り、さっそうと去ってゆきました。


控え選手の多くの方々がそうですが、

山口君、あのときの悔しさをバネにして這いあがって行った、典型的な魅力あふれる人でした。



 最後に、3月27日、金森写真館の 金森達夫さん に会っていただきました。





1991年、センバツ準優勝に始まる一年間の松商学園野球部の活躍をまとめた写真集 『夢をありがとう - 青春の軌跡 -』。(写真:金森達夫氏)

青春の 「軌跡」 のアルバムなのですが

前出の小沢君の写真もですが、
本が出る少し前、何度か通っていた松本市内のあるお店にいたスタッフさんが、どうもアルプススタンドに写っている女子生徒とよく似ているなあと思い・・・

もしや、と思ってわざわざアルバムを持って行って聞いてみると、まさしくその人であったりと、

私にとって色んな 「奇跡」 をも運んできてくれました。


そして、アルバム裏表紙となったこの写真





センバツ決勝戦に惜しくも敗れ、準優勝となり、ガックリと肩を落として行進するナインの姿に心を打たれ

元になったカラー写真を探してもらって本の表紙に使わせていただいたのがこちらです。





なので、金森さんとは本当にご縁が深いのです。

お会いするのも10年ぶり。

10年前の二度を合わせて、今回でたぶん3回くらいしかお会いしていないのですが、その熱血感に溢れて男気のあるところ、大変魅力的な方で、

今回も第三部の表紙に使わせていただくこと、
また、この写真集を含めて金森さん撮影の下の2学年の 「卒業記念アルバム」 より何枚か使わせていただくことを快く承諾してくださいました。

本当にありがとうございました。      




写真館が学校近くに建っていることもあり、何十年と生徒たちを見てきているけれど、

あの時のチームのことは今でも覚えている、礼儀から生活態度から野球に対する姿勢など、全てを含めて最高のチームでしたね、
中原監督がすごいということですよねと、

忘年会の写真をお見せしたらぜひ下さいと、昨年、一昨年と2枚とも持っていかれ、
「うわぁ~○○くん、変わっちゃったなぁー」 などと嬉しそうに眺めていらっしゃいましたが、下の学年の人たちのことも本当によく覚えていました。

松本市内なので、たまにメンバーにも会うことがあるようで、 「またみんなに会いたいなぁ」 とおっしゃっていらしたのも印象的でした。


電子書籍化するとお伝えしてからご挨拶が大変遅れてしまいましたが、金森さん、やっと今回お会いできてよかったです。





2016年の忘年会写真です。(2015年のものが表紙になり、こちらは本文中に使わせていただきます)




忘年会に差し入れた (H3幹事の青木君宅に送り、会場まで持って行ってもらったもの) お酒を、
会場ホテル勤務の雨宮君が気を使ってこんなに立派にして提供くださいました。・・・恐縮です。        


これで、当初の予定と若干変わりはしましたが、ほぼ全員の方々の取材が完了しました。

お忙しい中わざわざお時間を作っていただきまして、

また、25年も前のことを一生懸命思い出して、
中にはあまり思い出したくないこともあったかもしれないのに、みなさん色んなことをたくさん語ってくださって

本当にありがとうございました。   


あとはこれを 

どのように料理し、味をつけ、

素材が最も輝く形 で 読者の皆様に提供する こと。   

それこそが私の使命です。         


諸事情色々あったにせよ、発行がここまでズレ込んでしまったことを深くお詫びしますとともに    

夏の選手権(甲子園)大会開催予定 の 8月6日 前 までには、必ず発行  いたします。


どうか温かい目でもう少し待ってやってくださること、

そして、選手の皆さんは、スナップ写真提供や校正にご協力をよろしくお願いいたします。     

   

ネコ、がんばる      





 おまけ・・・



取材ノートは8冊になりました。




『甲子園 素戔嗚神社』 で買った 「トラのおみくじ」 も

なんと   大吉  

こりゃ、縁起がいいなぁ~~~       




おみくじは店の引きだしにそっとしまい、トラさんはPC前に飾りました。

お札は、自宅書斎に飾るつもりです。      











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『平林義男 絵画展 / 日記』 開催のお知らせ

2017年04月05日 | 平林義男アートの世界



高校時代の美術科恩師 平林義男先生 から個展のご案内が届きました。




 今回は

 2017.4.21~5.7  Gallery 忘我亭 信州茅野市 にて開催されます。


 上記他、以下の会場でも開催が決定しました 
 6.1~30   モンシェリ  (信州上諏訪)
 10.10~15  タンバリンギャラリー  (東京)


還暦を過ぎてなお衰えることのない創作意欲と、還暦を過ぎて東京進出を試みた (今回で3度目) 氏の、意欲溢れる静かな闘志を

繊細で暖かい魂の叫びと調和を、ぜひとも会場で体感してみてください  


日程、場所の合う所で、ぜひ一度のぞかれてみてはいかがでしょうか。     



 【 過去個展作品より 】

 

  

  



  




※ すべての展示作品の写真撮影、ブログへの掲載はご本人の承諾を得ております。





 平林 義男 (ひらばやし よしお)

1951年長野県諏訪市生まれ。美術専門学校を経て多摩美術大学油絵科卒。
卒業と同時に帰郷、美術教員の傍らで絵を描き続け、地元を中心に個展、グループ展などに作品を発表し続けてきた。
永年勤務した諏訪二葉高校を退職後の現在、個展やインターネットなどを通して多彩な作品世界を展開中。長野県茅野市在住。

受賞歴:上野の森美術館大賞展入選、同・自然を描く展・自由課題部門、フジテレビ賞、佳作賞、優秀賞、日本放送賞。FUKUIサムホール美術展、準大賞、優秀賞、FBC賞他。

作品収蔵:福井会館








 《 参考ブログ記事 》

当ブログ 『平林義男アートの世界カテゴリー』 をご参照ください。

◆最新記事 『平林義男作品展』 がウェブサイト上でご覧いただけます!!  2015年10月14日


その他

◆今頃、過去のニュース(^^;)ゞ・その③ 「積年の夢、ついに我が手中へ」 2014年08月14日

◆平林義男 作品展 『題名のない日記』10月9日~14日 於:茅野市民館市民ギャラリー 2013年10月12日

◆7th 平林義男 個展 in ナーサリーライム ( 下諏訪町 10/29 ) 2011年11月01日

◆「多面体展」2010年11月09日

◆『伴さんの額』~平林義男・小品展~ 2010年09月18日


など。














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大変遅くなっちゃいまシタが・・・御嶽海3月場所、9勝6敗で勝ち越し!!\(^o^)/

2017年03月31日 | 御嶽海、相撲


「市民タイムス」 3月27日付より


ツイッターの方でつぶやいていたので、つぃブログUPを忘れちゃってたのですが・・・     


大変遅くなりましたが、大相撲3月場所、K出身の力士 御嶽海は、二度目の三役 (東小結) に返り咲いた今場所、

9勝6敗勝ち越し を決めましたぁ~       


                         


しかしながら、今場所は下位力士には負けなしだったものの、横綱、大関には一度も勝てなかったこともあり、ちょっと残念でした。

これについて NHK長野の 『イブニング信州』 にて御嶽海関本人が


立ち合いからして封じ込められ、自分の考えている相撲が取れなかった。

相手も (自分を) 研究してるんじゃないですかね? 


と、落ち着いた表情まで見せる余裕が。    


場所前の、かき回したい、自分が嵐の目になる、

稀勢の里戦を前にした 「みんなが新横綱に土がつくところが見てみたいと思っているだろうから、自分がそれをやりたい」 (惨敗) などの

『やんちゃ発言』 にややハラハラするおばちゃん σ(^^; でしたが・・・ 


御嶽海は周知のとおりハーフさん。

お母様はフィリピンの人で、私の知る限りでは、暖かいお国柄を反映してか、その国の人は皆明るいです。

なので、その血を受け継いでいるのかなぁ~、

おくゆかしい? ニッポンの美学、控えめにするとか、 「横綱に胸を借りる」 などということは絶対言わないのがおもしろい。


ともすれば生意気と取られなければいいがと、やっぱり老婆心をのぞかせる “自称古い人間のおばちゃま” ですが      


今のところ実質が伴っているのと、 「やんちゃ発言」 を可愛いと取る人もいるので (まだ24歳だしね) 救いですかしらん?    


ただ、本人はいたって冷静なのが凄いところで、

その 「相撲に対するカン」 は天性のものらしいです。 (解説者の弁)


あと、上位陣も御嶽海の存在を恐れて研究し始めているなど、取り組みの解説などを聞いていても、全国的に見ても注目されてきた御嶽海関。


来場所での 関脇 昇格の可能性は低いようですが・・・

位よりも、着実に力をつけ、一歩一歩焦らず進んでいってほしいです。   


二週間、5時ころになるとテレビをつけ、家族で応援している相撲シーズンが終わるとなんだかさみしいですが・・・   


来場所は、上位陣へ白星を挙げ、二けた勝ち越し  をめざして


ガンバレ    御嶽海関       




 “御嶽海写真集” 第2弾 が出ます  



『御嶽海 2年目の躍進』 (信濃毎日新聞社編集局)4月15日発売予定 

  Amazon にて、絶賛予約中     

よろしくです~  


 写真集第1弾も 好評発売中 で~す 









 【 追記 】 

今場所は何と言っても、新横綱となった稀勢の里が無敗を続け、もしや全勝優勝?    
と期待した千秋楽3日前の 横綱日馬富士戦 で惜しくも土がついてしまっただけでなく、会場を震撼とさせた肩の負傷、   
出場も危ぶまれるところを押し切って翌日土俵に上がったものの 横綱鶴竜 に惨敗。   

千秋楽は1敗同士の 大関照ノ富士 を見事やぶって、優勝決定戦にもつれ込み、そして勝利、優勝するという
(稀勢の里は二場所連続優勝の上、新横綱での優勝は貴ノ花以来22年ぶり)


ほんとーに   カンドー的 でした          うる。          


あの、どんな時にも冷静かつ無表情を貫く稀勢の里が、優勝の儀で 「君が代」 を歌いながら堪えきれずに涙を浮かべていたのも印象的でしたね。


これぞ 相撲道を極めた王者の風格。 あるべき力士の姿。

ニッポンの美学の極み     


にわか、ファンになっちゃったかもです。         


稀勢の里、最初は 「巡業に行くのも力士の使命」 と来月の巡業に意欲を見せていたようですが (カックいー けど心配) 
その後全治1か月と診断され、巡業は休んで治療に専念するそうです・・・。   ヨカッタ。  


しっかり治して、また5月場所では元気な姿を見せてほしいですね。   

稀勢の里関、これからも応援してますので、ぜひ、頑張ってほしいです       



  

写真右:賜杯を受け取る際、肩が痛いのか思わず顔をしかめる稀勢の里



※ 以上、ネットニュースより写真に撮らせていただきました。   








 





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聖地、甲子園へ・・・松商・取材関連ニュースその7(前編)

2017年03月25日 | 松商、中原監督 関連
関西ツアー3日目の午前中、京都に立ち寄る前にまず向かったのは、前日行かれなかったここです。






25年前の1992年、始めて観戦に行った夏の甲子園

松商 対 近大付属

本にもなったH3のチームではなく、その翌年のH4チームの試合で、でした。


昨年一年間松商チームを応援してきたけれど、テレビ観戦のみで甲子園に行く機会は逃してしまったので

ぜひ一度、甲子園での試合というものを体感してみたかったから。


知り合いもなく、当時住んでいた東京から一人新幹線に乗り、初めての関西(西宮)に到着。

球場で人づてに、どうにか松商側の応援スタンドを探し当て、当時は知る選手もなく、ひっそりと一人で応援。(笑)


甲子園球場は噂通りにとても暑くて、試合は残念ながら負けてしまったけれど、

始めて見た甲子園は、大観衆と、球児たちの若さとエネルギー、それらを包み込むものすごい熱気にあふれ感動的でした。   


そのとき、試合や球場周辺の写真を確かにとったはずなのに、何故かどこを探してもなかったので・・・   

今回はその、写真を撮り直す意味合いも含めて訪れたのですが・・・


   

ガーン    

今は冬。

この壁を覆い尽くしているはずの名物 “甲子園のツタ” は、まだ “ツルだけ” でした。

オー、マイガッ       

ツタって落葉樹だったのね・・・    


せっかくなので、 「甲子園歴史資料館」 目指して歩いていきます。




かなり歩いて、やっとたどりついたかな、と思ったら・・・




ガーン・・・Part2    





『月曜は休館日』ですと。

ちょうどセンバツを控えてか球場整備にあちこち業者の人が入っていたので、その辺にいたオジサンに聞いてみると

「プロ野球自体が月曜日は休みですからね。」 とまた2オドロキの答えが。      


そーだった、そーだった。      

うかつだった。
ホテルでぐだぐだしてないで、やはり頑張って昨日来るべきだったのだ。    


それでちょっと気を取り直して、長い間疑問? だったあることを聞いてみる。

「甲子園駅の構内に神社があると聞いてきたんですけれど・・・。」

「駅の構内にはそんなのはないような気がするけど・・・球場内だったらナントカ神社ってのがありますよ。」

「球場内にあるなら、私の聞き間違いかもしれないので、たぶんそれのような気がします。   


オジサンに神社の場所を聞き、ふと見ると反対側にはこんなものが。




それは、歴代甲子園大会 (夏の選手権大会と春のセンバツ大会) の優勝校を記した碑だった。




あれはもしや・・・



ありました 

選手権大会第14回大会優勝

昭和3年 松本商(松商学園高の前身)(長野)

きゃーーーーー           


そして・・・



あまり見たくはなかったけど          



平成3年 春のセンバツ第63回大会 優勝 広陵(広島)


せっかく決勝まで上り詰め、ここに名前が刻まれなかったことが、何とも残念である。    


あのとき決勝戦で敗れたことが、その後の色んな人たちの人生を変えた。
( といっても、もう一度ここに戻ってきたのだから、どちらかというといい方に、だとは思うが )


もしも優勝していたら・・・


私はこの話を書くことはなかったかもしれない。


それがよかったのかどうかはわからないが

人生狂った? よなぁーと苦笑いをする。    





来た道を戻ると、すぐそれが目に飛び込んできた。

あれに違いない。

今にも駆け出したい気持ちを抑えて、ゆっくりと歩いていく。






甲子園 素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)。     ( ※スサノオ神社というのは全国あちこちにあるらしいです。 )

厳密にいうと球場内ではなく、隣接する場所に建っている。




ドキドキしながら鳥居をくぐる。





水場のすぐ近くには 「夢」 と書かれた野球ボールがバッドで囲われた台の上に載せられている石碑が。




境内の感じ。




神社の方に、まずいわれをお聞きしてみると(ご本人撮影許可済み)、ご神体は 「古事記」 に出てくるスサノオノミコト。

ヤマタノオロチを退治し、その尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち)を姉である天照御大神(アマテラスオオミカミ)に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなるなど

力強くて英雄としての誉れ高いことから

甲子園球場を本拠地とする阪神タイガースファンや、甲子園に憧れる高校球児たちに支持され、祈願される神社としても有名だそうだ。


26年前の1991年、春のセンバツ野球大会に悲願の出場を決め、ここ甲子園の地にやってきた信州松商学園高校。

初戦、鈴木一朗(現メジャーリーガーのイチロー)擁する愛工大名電(愛知)を破り、

二回戦を奈良の天理と戦うことになった4月1日の朝、松商OBの宮坂真一氏がホテルの中原監督が泊まっている部屋を尋ねると、
中原が 『甲子園駅構内にあるナントカいう神社』 のお札を床の間に挙げ、一心不乱に拝んでいる。

「今日、エイプリルフールに起こった出来事は嘘かもしれないが、明日の朝、“松商、天理を破る” と新聞に出るニュースは本物だよ。」

中原は天理に勝つ気でいるのだ・・・

神がかっていた。

恐ろしくなった宮坂は、そっと部屋を出た。


と私は、10年前に発行された自著書 『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』 の中で書いた。


その神社が本当にあるのかずっと知りたかったのだが、若干聞き間違えていたようである。

( 早く訂正しなくちゃ。  知ってた人、間違ってるっておせーてよ、もぉ~~~  )




沢山のお守りや絵馬などが売られていたが、ここは監督と同じお札を買わなくては。    

と思い、



いや、監督のはもっと高いのだったかもしれませんが・・・

お札とご朱印を。




神社のいわれを書いた紙と、甲子園のツタで作ったというお守り(中身は秘密です)

それから、おみくじを一つ買いました。 (のちに載せます)




ご神前に、やっとここまで辿りつけたお礼と、それから本の執筆成就と売れますように祈願。    



せっかくだから絵馬も書こうかなと思い、左にある 「野球塚」 に



ボール型の絵馬を買い求め、本に関するお願い事を書き、吊るしてきました。   



『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』 第三部を、無事書き上げることができますように・・・。

本ができるだけたくさん売れますように・・・。       



月曜日でお休みだったせいか、球場は静かで、それもまた、私にとっては感慨にふけるのに絶好の時間でした。

( 単なるマヌケ    )
 

今日この時に、ここに来れてよかった。



身の引き締まる思いで、沢山の想いを胸に秘めながら薄曇りの球場を後にしました。





 松商関連ニュースその7(後編)へ続きます・・・。      





 『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』(Amazon Kindle版)  は、こちらで買えます。     

( 2006年、郷土出版社刊 の書籍は好評につき完売。絶版となりました。  )


1991年、悲願の春のセンバツに乗り込んだ “松商ナイン”。
無名のダークホースが次々と強豪校をなぎ倒し、優勝まであとひとつ。

エース上田佳範を擁し、甲子園に旋風を巻き起こした「山国の風雲児たち」。
彼らの手から、なぜ、優勝は零れ落ちたのか・・・。

その年長野県じゅうを熱狂の渦に巻き込んだチームの強さと魅力を、補欠を含む全選手に徹底取材。

さらにその15年後を生きる彼らの姿を描いた第二部も必見。
「それぞれが主人公である」球児たちの光と影を追った、著者初めての渾身のドキュメンタリー。

書籍発売から10年、あの感動がついに電子書籍化されました!!

夏の甲子園で球史に残る延長16回を四日市工業と戦った劇的な幕切れの瞬間、
“あの”イチローやゴジラ松井とも戦った名場面など、秘蔵写真も満載。


野球ファンはもちろん、そうでない方にもお楽しみいただける 「人生ドラマ」 です。


まだお読みでない方は、ぜひお買い求めいただきますよう、よろしくお願いいたします。


 書籍の評価はこちら。
猫田ジャレHP 『なんとなく、イナカタル』 より、 書籍ページ


 第三部とは、 「電子書籍化」 に当たり、書籍化よりさらにその10年後を生きる選手たちの姿を

H3のみならず、続けて3年間甲子園に出場し、今でも毎年監督中原の元に集う下の2学年のチームを含めて、
丸一年をかけて総勢40人以上に取材を行った 著者渾身のドキュメンタリー第二弾 

ただ今執筆中       

乞う  ご期待ください      











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弥勒菩薩様に逢いに・・・

2017年03月23日 | お出かけ、レジャー、イベント等
 クラコンの興奮さめやらぬ、明けて3月13日、

と、ある所へまず参りまして (次の項目で書きます)


その後は京都へ。



あいにくの曇り空でしたが


京都駅前からバスに乗り、こちらへ行きました。



 太秦(うずまさ) 広隆寺。


広隆寺には、大好きな 弥勒菩薩(半跏思惟像)様 がいらっしゃるのです。



実は幼稚園の頃、
我が家に 『広隆寺の弥勒菩薩・仏頭』(石膏でできた美術の先生の制作物であったらしいが謎) が来て (※注)、私の部屋の隣にずっと飾ってあり、日夜拝んで大きくなったことから
(ちなみに偶然ではあるが幼稚園は仏教系、中学の時にはお寺主催の2泊三日の禅道会に毎年参加、中高の修学旅行で奈良、京都を尋ねて寺や仏像に夢中になったので、大学は万葉集ゼミ、その後も全くの偶然だが4年間お寺に勤務するなど、なぜか不思議と仏教とのえにしがある)

『広隆寺の弥勒菩薩』 というのは長い間の憧れ (中学の修学旅行で訪れたのは、弥勒菩薩でも中宮寺だったのでなおのこと) だったので・・・(二つ上の姉にとってもそうであったようだ)


2010年、平常遷都1300年の時、友人と奈良・京都の旅をした際、初めて長年の憧れ 『広隆寺の弥勒菩薩様』 にお会いできた時は本当に嬉しく、たいそう感激したものです。

この次お会いできるのはいつだろう・・・   

そんなことを思いながら小雨けぶる晩秋の広隆寺をあとにしたものであるが、 


特急と新幹線でkから2時間もあれば行かれるのに、京都及び奈良は自分にとって特別なので、

ふらりと立ち寄る場所ではなく、何か特別なときに、特別な思いで出かける場所であり・・・

行く機会を逃していた。


今回、人生2度目の大阪へ行くこととなり、めったに行かない関西方面に行くのだから、せっかくだからついでにどこか立ち寄ろう

まずは、2日目の昼間に、あそこだな。


3日目の帰る日には・・・

途中下車ができるなら、京都で降りよう。

自分、色々で疲れていたので癒されたい、

お寺や仏像を見てのんびりしたいな。


時間なさそうだから京都駅近くのお寺にしよう、と思って探したのだが、イマイチピンとこない。


そうだ  

ちょっと遠いけど弥勒菩薩様に逢いに行こう・・・     きらん


何かを成し遂げたとか、何か自分にとって特別なときにでなければ逢いに行ってはいけないような気がしていたけれど、

今、一番お逢いしたい仏様に、逢いたければ逢ってもいいではないか・・・


弥勒菩薩様に逢いたい     

逢って静かに向き合い、清らかな気持ちになりたい。救われたい。


という感じでした。








仁王様のいらっしゃる桜門をくぐり


講堂や太子殿を抜けて



梅の花? がほころび、

久しぶりに感じる境内の、穏やかな時間の流れに身をまかせると開放的な気分に。



弥勒菩薩様のいらっしゃる 「霊宝殿」 前は、心なしか神聖な静寂が漂います。




いよいよ、この階段を上った向こうに・・・


薄暗い殿の中には他の何体もの仏像が祭られており、弥勒菩薩様の反対側には大きな薬師如来像が三体。

はやる気持ちを抑えてそちら側から見ているうちに、もうじきお逢いできるのだと思うと感極まって涙がじわり。


そのせいか、実際お会いした時には、ゼッタイ泣いちゃうと思っていたのに涙は出ず、

ウルウルする瞳とこころで、じっと弥勒菩薩様と対話をさせていただきました。



慈愛に満ちたそのお姿を見ていると、不思議と清らかで素直な気持ちになれるのです。



何事にも代えがたい、弥勒菩薩様だけが持つ厳かで柔らかな空気。



最後にもう一度振り返って、次にお逢いできるのはいつだろうと思いながら霊宝殿を後にしました。






2010年に尋ねたときにいただいた 「ご朱印」 と、買い求めた2種類の絵葉書の中から、お気に入りの一枚を額に入れ、書斎に飾ってあります。





ちょうどパソコンのあるところの正面の本棚には、弥勒菩薩様のお顔写真、奈良・興福寺の阿修羅像お写真とミニ阿修羅像(立体)ほか、

自由の女神、鎌倉の大仏などの実像、アルフィー関連などこの数倍以上のスペースにゴチャゴチャと(笑)、尊敬するもの、好きなものが飾ってあります。


いつかここに、弥勒菩薩様の実像を飾るのが夢です。    

( どうせならちゃんとしたものがほしいので、ネットでも探しているのですが中々ないのと、あってもとても高価なので、時期をうかがっているところです。 )   


今回は、額に入れて飾ってしまったため、 「ご朱印帳」 に貼るためのご朱印をいただいて帰りました。

( 行くことがわかっていたのに、なぜに忘れるご朱印帳。直接書いてもらった方が重みが違うのに残念です。
あと、前回初めてお尋ねした時に、外の売店ではなく、弥勒菩薩様の御前に並べられて売られていたお守りを買って帰り大切にしていたのですが・・・
それを持ってきて、新しいものに買い替えてもよかったかもしれない、と後になって思いました。
残念ですが、今持っているお守りを大切にもう少しいていただくことにします。  )






帰りは京都市内を行きかう路面電車など電車を乗り継いで行ったのですが・・・




「太秦広隆寺駅」



駅のホームのすぐ向こうにお店や民家が建っている不思議な光景がありました。






駅のベンチに座っていた、イケメンの外国人と一緒の、昨日大学を卒業したばかりという可愛らしいお嬢さんに、京都に行きたいのだけれど、この電車の、こっち方面であってますか? と尋ねたところ、

「私たちもちょうど京都に行くんです。」 と、とても愛そうよく答えてくれたので・・・


お若い方に余り話しかけてもウザイおばさんと思われてもやだなぁと思い、距離を置きつつも、2回乗り換えがあって近くにいたため、時々また聞いたりしながら、結局京都まで、つかず離れず? ご一緒していただいちゃいました。

お嬢さんがお一人だったらずっとお話ししていたかもですが、私は英語がわからないし、彼は日本語がわからないようだったので、
私と彼女が話していると彼に悪いと思ったのもあり・・・。    


そういいながらも、聞くところによると、

お嬢さんは大阪生まれの大阪育ち、私が長野県から来たと告げると、長野にスキーによく行きますよ、とか、

日本に来て一年ほどの彼とはSNSを通じて知り合い、大学もそのような勉強をしていたので、卒業後は本当は旅行関係の仕事につきたかったのだが、
母が心配したので郵便局に就職する、3か月は研修がありその後どこに配属されるか、たぶん家から通える範囲だと思うがまだわからない、とのこと。

でも、本当はまだ旅行関係の仕事に未練があるのだとも。

私のような通りすがりのオバサンがあまり差し出がましいことを言うのも何なので、なんてお応えしたかはっきりとは思いだせないのだけど・・・

まずは今の仕事を頑張ってみて、でも夢を捨てずに頑張ってね、とかなんとか言ってお別れしたように思います。    


外国人の彼氏がいるくらいなので英語も堪能だし、明るく愛想もよく、好奇心旺盛で親切な人だったので、ツアコンとか通訳とか向いていそうかな、と思いました。

ほんとに、今どき珍しいくらい感じの良い子だったので、もっとお話ししていたいくらいでした。    


太秦へは 「映画村」 を見に行ってきて、今日はこれから京都で 「水族館」 に行くのだと言ってましたが・・・

若いっていいな       





夕方4時過ぎに、京都駅構内でやっとお昼。

柴漬けやちりめんじゃこ、大葉や削り節などの乗った和風の梅肉パスタでしたが・・・

思ったよりバターがきつくて(それもバターではなくマーガリンのような味)余りさっぱりしてなくて、ちょっとたんまりしたのと

なんと、大根おろしを載せてあった大葉が、おろしを外してみたら黒かった(腐っていたのだと思う)    

ので、残そうかと思ったけど、大葉は大好きなので、腐ってるものをお客に出すはずはないから、もしかしたら私が知らないだけでこれは食べれるのかしら (特に京都では) と思って食べてみたけど  

やっぱり苦かったです。(ちなみに家では絶対に食べません 


ものすごく損した気分になったのと、     
やっぱり 
「これってもしかして腐ってませんか? 私は家では黒くなった大葉は絶対食べませんけど、こちら(京都またはこの店)では食べても大丈夫なものなんでしょうか? それともこれは飾りで食べないものなんでしょうか? 私大葉大好きなので、食べたいし悪いけど替えてもらえませんか?」 と言って替えてもらうべきだったと、後で凄く後悔しました。

おまけに、
おろしを外せばわかるものなのに、腐ったものを出したということはわからない客だと甘く見られたのかしら?

それとも、あら、あの客腐った大葉食べたのね、よく食べられたわね、とあきれられてないかしら、と余計なことまで想像して、すごく悔しかったです。


最後にきてとても残念な思いをしましたが・・・   




京都、めったに行かないのと、せっかく行ったのだからと、
そして二泊もしたので悪いからと 「京土産」 もたくさん買って帰り、楽しい旅行でした。

( でも両親には、どこかへ行くと必ずデパ地下グルメのお惣菜や駅弁などを買って帰るため、夕飯になるので期待していたみたいで、お菓子よりそっちのほうがよかったかも、と、後で後悔しました。
ちなみに「赤福」は伊勢名物ですが親の大好物で京都にもあったので。 )



帰りは新幹線でたった30分で名古屋につき、ちょうど運よく5分の接続で特急しなのが来たため7時半頃にはもう店について? しまいました。

Kからたったの2時間。

京都って近いわぁ~。(とーきょよりも・・・  


ただし、早くついてしまったので(笑)、 疲れていたけど閉店まで店にいて少し仕事をしなくちゃならなかったので、
ちょっと損した気に。


( そして、エスカレーターで歩く人を通してあげるために止まって乗っている人が右側に立っていたり-信州や東京は左側に寄って立つので-、なんとなく馴染めない関西方面に、ちょっぴり東京が恋しくなった私です。 )



でも、とっても楽しい タカミークラコン & 関西の旅でしたよ~     


またいつか、必ず行きたいです。 





※ 注



幼稚園の頃に家に来た 『広隆寺・弥勒菩薩仏頭』。

なんでも美術の先生 (家は中学と高校の近所なのでどちらのかは不明) が広隆寺に行き、弥勒菩薩像に直接石膏をかけて固めて取ったものだからホンモノだ、と言ったそうですが・・・

子供心にそれはすごい  と思ったけど、
よく考えたら国宝の仏像に指一本触れられないものを石膏をかけるなんてできるわけはないので、たぶんその先生のデマ? と思われますが・・・

かなり良くできていると思います。

そしてこの仏頭は、二階にある私の部屋の隣の柱に飾られていたので、じっと見ていると厳かな気持ちになったり、何かあると拝んだりお祈りをして育ちました。

そしていつか、本物の弥勒菩薩様に逢ってみたいものだ、とずっと思っていました。

今でもそれは同じところに飾られています。


家は商売をしていて色んな人が出入りしていたのと、父が絵や飾るものが好きで、おまけに人が良く騙されるのか? あまり価値もわからず妙なものを買い込んでは二階の座敷の床の間を中心に別の部屋や中には押入れ行きのものなど、たくさん飾られていました。   

( 美術工芸品などの高価なものではなく、住んでるとこが山なのでタヌキやリス、鳥の剥製、木の切り株を磨いたもの、熊やカモシカの毛皮の敷物、知人が趣味で描いた油絵、どう見てもまがい品のような妙なもの、などです。 )    












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