え゛へへ。(^^;)ゞ
「50の手習いシリーズ」復活です。
でもって、補足のその②って、一体なんじゃぁ~???ってなカンジですが、おもしろいものがあったことを、思い出したので。
これは、中学1年と2年の春休み(1974年と75年)に、「東日本少年少女合唱連盟合同演奏会」というのが東京であって、参加したときの、プログラムです。
東京杉並の「普門館」というところでやりました。
そしてこれは、 じゃぁ~ん!!!
そのときの、全参加団体の演奏が一曲ずつ録音された「LPレコード」!!
今のように、誰でも手軽にCD録音できるような時代ではないので、「自分たちの歌声がレコードになって残る。!!」というのは、ものすごく嬉しかったです。
74年は、所属していた少女合唱団は、少年合唱隊の「補助」として出たので、プログラム等には「Y少年合唱隊」(長野)としか載ってないのが、ちょぃ残念ですケド。
歌ったのは『ひかるこみち』(メラー作曲・小林秀雄編曲・中村知子作詞)と、
『ジェリコの戦い』(黒人霊歌・川合恒夫(私たちの先生)編曲←って、今知ったよォ~。知らなんだー・汗・平井多美子作詞)の2曲です。
録音されているのは『ジェリコの戦い』で、団員ではないがピアノの先生(私の習ってた人ではないです)の息子さんだった、中学の2つ上の先輩がティンパニーの演奏に加わってくれ、迫力あるものになったのが嬉しかったのをよく覚えています。
75年(プログラムがちょぃ、見えにくいですケド・汗)は、少女合唱団として明記があるので、少女のみかもしれません。(少年はその前年の夏、なんと沖縄に演奏旅行にいったんですよ!!だから、こちらの方はやめたのかもしれませんね。)
曲は『ホフマンの舟歌』(松坂直美訳詩・オッフェンバック作曲)と
『村の娘』(藤村閑夫訳詩・ラッアロ作曲)で、こちらが録音されました。
この年は参加団体が多かったのか、別に小さなレコードも一枚ついており、その中には、合同演奏(参加団体が全員で歌うもの)の『ハレルヤコーラス』(ヘンデル編曲)、『今日の日はさようなら』、『越天楽(えてんらく)』(日本古謡)、『みんなのマーチ』(山本直純作詞作曲)の4曲が、別に収められています。
(前年は、合同演奏は『ハレルヤコーラス』と『越天楽』のみが、LPのほうに一緒に収められている)
だが、『越天楽』は古臭い歌で、好きになれなかったなぁー。
ちなみに、私が合唱をやってみたいなぁーと最初に思った『流浪の民』(シューマン作曲・石倉小三郎訳詩)は、自分ではついに歌うことは叶いませんでしたが、(74年に佼成中野ジュニアコーラスという東京の合唱団が歌ったと記録に残っている。覚えてないが、たぶん聞けて感動したと思う)
代わりに、この合同演奏会でいつも歌うというので、『ハレルヤコーラス』はよく練習したし、自分たちの発表会でも歌ったりして、大好きでした。
出だしの、いきなり全員が「ハーレルヤ」と発するハモリのところで、いつも体がゾクゾクッとして、その後は「ハレルヤ」が繰り返され、英語で神を称える言葉が延々と続くだけなのだが(子供心には意味不明 )、歌っていてとても気持ちのいい曲でした。
(そうそう、ちなみに私のパートは「メゾ・ソプラノ」です。
小学校の頃、音楽の時間に先生に「猫田さんはきれいなソプラノね」と褒めてもらったことがあったので、自分はソプラノだと信じていたのだけど、合唱団で最初に声を出させてパートを振り分けたときに、メゾだと言われたときは少なからずショックを受けた。
で、自分は、高い音も低い音も出ないので、音域が狭いのだとずっと思いこんでいたら、ミュージカル教室で、「それは音域が狭いんじゃなくて、高いのも低いのも多少は歌えるんだから、音域が広いって事なんだよ。ソプラノは高いのしか歌えないし、アルトは低いのしか歌えないんだから。」とソプラノの人に言われて、「え゛~!?そうだったの?」 と、ビックリした記憶がある。
以来自分でメゾだというのを誇りに思えるようになった。へんなの・笑。)
それから、この合同演奏会で、ついに憧れの西六郷少年少女合唱団と共演?を果たしました。本物の歌声が聴けて、見られて、とても嬉しかったです。 さすがに実績があるためか、両年ともトリか、トリから2番目に出演しています。
ですが、それよりももっとびっくりして印象に残っているのは、
川崎少年少女合唱団(神奈川)と、そのアニキ分のヤング川崎少年少女合唱団。
合唱団なのに楽器演奏も交えながら、確か、間奏の間とかに簡単に振りがついてたような気がする。明るくて華やかな、今まで聞いたこともないような現代風の曲を歌っていたのも新鮮でした。
一緒の合唱団からいったメンバーの中には、「あいつら、うるさい。あんなの合唱じゃない。」などという人もいましたが、私には、全身で音楽を感じて、歌う喜びに満ち溢れているような彼らが、すごくイキイキとしていて、とても羨ましく思えました。
ちなみに、ヤング川崎少年少女合唱団というのは、中学や高校に進んで川崎少年少女合唱団を卒業したメンバーが、続けて歌いたい、とできた、OB、OG会のようなものだそうで、そういうことからも、この合唱団がいかに楽しいかがわかるようでした。
でも、川崎少年少女合唱団より年上なんだから「ヤング」はヘンだよね、川崎少年少女合唱団の方がよほどヤングじゃん、といってた人にはナルホド、と思いましたが・笑。
* * * * *
このときの逸話がいろいろあって、演奏は「普門館」という、回り舞台のある大きなホールで、それも感激しましたが、
2日がかりの演奏会だったので、みな隣の「立正佼成会館」という所に泊まりました。そこは、大きなお風呂があって、赤や青のライトがついたジャグジーバスだったのが当時はもちろん珍しくておもしろかったのと(でも、ライトは意味不明・笑 )、
そのとき初めて、会館内にある自販機で売っていた『ドクターペッパー』という飲み物を知ったこと。
初めにそれを飲んだメンバーが「おいしい」といって広まったらしく、へーえ、東京には珍しくて洒落た飲み物(名前が変わっていた)があるんだな」と思って、その、ちょっと薬くさい味も変わっていたけどおいしい気がした。それで学校と違って、飲食や買い物が自由だったせいもあり、ちょっとハマる味だったので、1本、また1本と買って飲んでいたら、飲みすぎて下痢をしてしまった ことなど。 (以降、ドクターペッパーは飲んだことがありません。嫌いになったというより、あまり売ってるところを見ないような気がするのだけど、今でもあるんだってね。)
そして後日談があって、子ども時代に合唱をやっていて東京の「普門館」で発表会をしたことがあって、というようなことを夫(当時はまだ夫になる前だった人)に話していたら、「そこ、俺も行ったことある」とな。でもって、やっぱり「立正佼成会館」に泊まったんだそうな。子どもの頃、祖父が立正佼成会をやっていて(今でも義父はやっている)、一緒に行かないかと誘われたらしいのだが、お小遣いがもらえて東京にいける、というので喜んでついていったんだそうな。
ということで、それぞれ長野と新潟にいて、同じ頃に東京の同じ場所に行っていた、なんて、何か不思議な縁(えにし)のようなものを感じて喜んだものであるが、しかし、夫の祖父って同居してないんだよ。(義父の兄の家族と同居であった)内孫と行かずに外孫と行くというのは、よほど気に入られていたのか、それとも家ではあまり相手にされなかったのか(?)、高校時代もよく祖父が道楽でやっていた畑の仕事を、義父に「俺の言うことは聞かなくても、じいちゃんの言うことだけは聞け」と頼まれていたせいもあったと思うが、お小遣いも目当てか、孫の中で唯一手伝ってあげてたんだそうな。(義父は男ばかり6人兄弟の次男、夫は4人兄弟の次男坊であるが、他にも孫は大勢いたと思うのだが それとも要領のいい次男坊ゆえ、にか・笑。 )
ちなみに、アルフィーというグループが結成されたのは1973年。
『夏しぐれ』という曲でレコードデビューしたのは翌年の1974年のことでした。
つまり、私が最初に「東日本少年少女合唱連盟合同演奏会」に参加して、LPレコードに録音してもらった年が74年なので、
なんとーーー!!
私はアルフィーと一緒の年にレコードデビュー(!?)してたんですねぇ・笑。
えへへ。
こっちは勝手にこじつけて、ヨロコブ。
しかし、ここまで書いてきて思うのは、子どもの頃、合唱をやりたいと思っていたら町内に合唱団ができたり、大人になってKに戻ってからですが、バレエをやりたいと思っていたら町内に教室ができる、など、
なぜか、望んでいたことが向こうからやってくる、という強運のところが私にはあるよーな気がする。
ま、また歌ってみたいなぁーと思ってから、「チャンスは寝て待て」を通して既に10年がたってしまったわけなのだが、いつかそんな日が、向こうからやってくることが、あるのだろーか???
当時の楽譜やお便り、発表会のプログラムなどは、全部とってあります。(ピアノの発表会のプログラムは処分してしまったのになぁー。←今になって後悔してるケド )
よほど楽しかったんだね。
★注:「チャンスは寝て待て」
・・・世の中には、自分から積極的に取りに行かなくてはならないもの(「幸せは歩いてこない だから歩いていくんだよ♪」←大好きな『365歩のマーチ』的なもの)と、
向こうからやってくるチャンスを待っていたほうがよいものと、2種類あるような気がするのです。
積極的に取りに行かなくてはならないものは、私にとっては「書くこと」に関すること。
なのでそれ以外のことは、力を入れすぎないように、と一応は、考えてます。
でないと、あれもこれもと、トンデモナイことになるのが目に見えてるんで。
と、ゆーわけで、次回から、やっと「現代編」へ突入です。(まわりくどいなぁ~ )
「50の手習いシリーズ」復活です。
でもって、補足のその②って、一体なんじゃぁ~???ってなカンジですが、おもしろいものがあったことを、思い出したので。
これは、中学1年と2年の春休み(1974年と75年)に、「東日本少年少女合唱連盟合同演奏会」というのが東京であって、参加したときの、プログラムです。
東京杉並の「普門館」というところでやりました。
そしてこれは、 じゃぁ~ん!!!
そのときの、全参加団体の演奏が一曲ずつ録音された「LPレコード」!!
今のように、誰でも手軽にCD録音できるような時代ではないので、「自分たちの歌声がレコードになって残る。!!」というのは、ものすごく嬉しかったです。
74年は、所属していた少女合唱団は、少年合唱隊の「補助」として出たので、プログラム等には「Y少年合唱隊」(長野)としか載ってないのが、ちょぃ残念ですケド。
歌ったのは『ひかるこみち』(メラー作曲・小林秀雄編曲・中村知子作詞)と、
『ジェリコの戦い』(黒人霊歌・川合恒夫(私たちの先生)編曲←って、今知ったよォ~。知らなんだー・汗・平井多美子作詞)の2曲です。
録音されているのは『ジェリコの戦い』で、団員ではないがピアノの先生(私の習ってた人ではないです)の息子さんだった、中学の2つ上の先輩がティンパニーの演奏に加わってくれ、迫力あるものになったのが嬉しかったのをよく覚えています。
75年(プログラムがちょぃ、見えにくいですケド・汗)は、少女合唱団として明記があるので、少女のみかもしれません。(少年はその前年の夏、なんと沖縄に演奏旅行にいったんですよ!!だから、こちらの方はやめたのかもしれませんね。)
曲は『ホフマンの舟歌』(松坂直美訳詩・オッフェンバック作曲)と
『村の娘』(藤村閑夫訳詩・ラッアロ作曲)で、こちらが録音されました。
この年は参加団体が多かったのか、別に小さなレコードも一枚ついており、その中には、合同演奏(参加団体が全員で歌うもの)の『ハレルヤコーラス』(ヘンデル編曲)、『今日の日はさようなら』、『越天楽(えてんらく)』(日本古謡)、『みんなのマーチ』(山本直純作詞作曲)の4曲が、別に収められています。
(前年は、合同演奏は『ハレルヤコーラス』と『越天楽』のみが、LPのほうに一緒に収められている)
だが、『越天楽』は古臭い歌で、好きになれなかったなぁー。
ちなみに、私が合唱をやってみたいなぁーと最初に思った『流浪の民』(シューマン作曲・石倉小三郎訳詩)は、自分ではついに歌うことは叶いませんでしたが、(74年に佼成中野ジュニアコーラスという東京の合唱団が歌ったと記録に残っている。覚えてないが、たぶん聞けて感動したと思う)
代わりに、この合同演奏会でいつも歌うというので、『ハレルヤコーラス』はよく練習したし、自分たちの発表会でも歌ったりして、大好きでした。
出だしの、いきなり全員が「ハーレルヤ」と発するハモリのところで、いつも体がゾクゾクッとして、その後は「ハレルヤ」が繰り返され、英語で神を称える言葉が延々と続くだけなのだが(子供心には意味不明 )、歌っていてとても気持ちのいい曲でした。
(そうそう、ちなみに私のパートは「メゾ・ソプラノ」です。
小学校の頃、音楽の時間に先生に「猫田さんはきれいなソプラノね」と褒めてもらったことがあったので、自分はソプラノだと信じていたのだけど、合唱団で最初に声を出させてパートを振り分けたときに、メゾだと言われたときは少なからずショックを受けた。
で、自分は、高い音も低い音も出ないので、音域が狭いのだとずっと思いこんでいたら、ミュージカル教室で、「それは音域が狭いんじゃなくて、高いのも低いのも多少は歌えるんだから、音域が広いって事なんだよ。ソプラノは高いのしか歌えないし、アルトは低いのしか歌えないんだから。」とソプラノの人に言われて、「え゛~!?そうだったの?」 と、ビックリした記憶がある。
以来自分でメゾだというのを誇りに思えるようになった。へんなの・笑。)
それから、この合同演奏会で、ついに憧れの西六郷少年少女合唱団と共演?を果たしました。本物の歌声が聴けて、見られて、とても嬉しかったです。 さすがに実績があるためか、両年ともトリか、トリから2番目に出演しています。
ですが、それよりももっとびっくりして印象に残っているのは、
川崎少年少女合唱団(神奈川)と、そのアニキ分のヤング川崎少年少女合唱団。
合唱団なのに楽器演奏も交えながら、確か、間奏の間とかに簡単に振りがついてたような気がする。明るくて華やかな、今まで聞いたこともないような現代風の曲を歌っていたのも新鮮でした。
一緒の合唱団からいったメンバーの中には、「あいつら、うるさい。あんなの合唱じゃない。」などという人もいましたが、私には、全身で音楽を感じて、歌う喜びに満ち溢れているような彼らが、すごくイキイキとしていて、とても羨ましく思えました。
ちなみに、ヤング川崎少年少女合唱団というのは、中学や高校に進んで川崎少年少女合唱団を卒業したメンバーが、続けて歌いたい、とできた、OB、OG会のようなものだそうで、そういうことからも、この合唱団がいかに楽しいかがわかるようでした。
でも、川崎少年少女合唱団より年上なんだから「ヤング」はヘンだよね、川崎少年少女合唱団の方がよほどヤングじゃん、といってた人にはナルホド、と思いましたが・笑。
* * * * *
このときの逸話がいろいろあって、演奏は「普門館」という、回り舞台のある大きなホールで、それも感激しましたが、
2日がかりの演奏会だったので、みな隣の「立正佼成会館」という所に泊まりました。そこは、大きなお風呂があって、赤や青のライトがついたジャグジーバスだったのが当時はもちろん珍しくておもしろかったのと(でも、ライトは意味不明・笑 )、
そのとき初めて、会館内にある自販機で売っていた『ドクターペッパー』という飲み物を知ったこと。
初めにそれを飲んだメンバーが「おいしい」といって広まったらしく、へーえ、東京には珍しくて洒落た飲み物(名前が変わっていた)があるんだな」と思って、その、ちょっと薬くさい味も変わっていたけどおいしい気がした。それで学校と違って、飲食や買い物が自由だったせいもあり、ちょっとハマる味だったので、1本、また1本と買って飲んでいたら、飲みすぎて下痢をしてしまった ことなど。 (以降、ドクターペッパーは飲んだことがありません。嫌いになったというより、あまり売ってるところを見ないような気がするのだけど、今でもあるんだってね。)
そして後日談があって、子ども時代に合唱をやっていて東京の「普門館」で発表会をしたことがあって、というようなことを夫(当時はまだ夫になる前だった人)に話していたら、「そこ、俺も行ったことある」とな。でもって、やっぱり「立正佼成会館」に泊まったんだそうな。子どもの頃、祖父が立正佼成会をやっていて(今でも義父はやっている)、一緒に行かないかと誘われたらしいのだが、お小遣いがもらえて東京にいける、というので喜んでついていったんだそうな。
ということで、それぞれ長野と新潟にいて、同じ頃に東京の同じ場所に行っていた、なんて、何か不思議な縁(えにし)のようなものを感じて喜んだものであるが、しかし、夫の祖父って同居してないんだよ。(義父の兄の家族と同居であった)内孫と行かずに外孫と行くというのは、よほど気に入られていたのか、それとも家ではあまり相手にされなかったのか(?)、高校時代もよく祖父が道楽でやっていた畑の仕事を、義父に「俺の言うことは聞かなくても、じいちゃんの言うことだけは聞け」と頼まれていたせいもあったと思うが、お小遣いも目当てか、孫の中で唯一手伝ってあげてたんだそうな。(義父は男ばかり6人兄弟の次男、夫は4人兄弟の次男坊であるが、他にも孫は大勢いたと思うのだが それとも要領のいい次男坊ゆえ、にか・笑。 )
ちなみに、アルフィーというグループが結成されたのは1973年。
『夏しぐれ』という曲でレコードデビューしたのは翌年の1974年のことでした。
つまり、私が最初に「東日本少年少女合唱連盟合同演奏会」に参加して、LPレコードに録音してもらった年が74年なので、
なんとーーー!!
私はアルフィーと一緒の年にレコードデビュー(!?)してたんですねぇ・笑。
えへへ。
こっちは勝手にこじつけて、ヨロコブ。
しかし、ここまで書いてきて思うのは、子どもの頃、合唱をやりたいと思っていたら町内に合唱団ができたり、大人になってKに戻ってからですが、バレエをやりたいと思っていたら町内に教室ができる、など、
なぜか、望んでいたことが向こうからやってくる、という強運のところが私にはあるよーな気がする。
ま、また歌ってみたいなぁーと思ってから、「チャンスは寝て待て」を通して既に10年がたってしまったわけなのだが、いつかそんな日が、向こうからやってくることが、あるのだろーか???
当時の楽譜やお便り、発表会のプログラムなどは、全部とってあります。(ピアノの発表会のプログラムは処分してしまったのになぁー。←今になって後悔してるケド )
よほど楽しかったんだね。
★注:「チャンスは寝て待て」
・・・世の中には、自分から積極的に取りに行かなくてはならないもの(「幸せは歩いてこない だから歩いていくんだよ♪」←大好きな『365歩のマーチ』的なもの)と、
向こうからやってくるチャンスを待っていたほうがよいものと、2種類あるような気がするのです。
積極的に取りに行かなくてはならないものは、私にとっては「書くこと」に関すること。
なのでそれ以外のことは、力を入れすぎないように、と一応は、考えてます。
でないと、あれもこれもと、トンデモナイことになるのが目に見えてるんで。
と、ゆーわけで、次回から、やっと「現代編」へ突入です。(まわりくどいなぁ~ )
ほんとですか?73年のものを所有しているということは・・・Nabuさんもどちらかの合唱団に所属されていて、この音楽会に出られていた、ということですよね?
73年と言えば、私の持っているものの1年前・・・
そして、なぜゆえ、他の年代のレコードもお持ちになりたいのか、と言ったら失礼かもですが・・・(^^;
レコードは記念に買ったものなので各1枚ずつしか持っておらず、また、手放せませんので、ご期待には添えないかと思いますが・・・
レコードをCD化するならできるかもですが、たぶん「レコード」としてほしいのですよね?
それにしても!!
いやぁ、ビックリしました。そのような方がおいでとは・・・しかも、今頃。(^^;ネットって便利だなぁ~。
よかったら、所属されていた合唱団のお名前(場所)など、お聞かせ願えませんか?
合唱は、今はもうされていないのですか?73年ということは、同世代くらいの方なのかなぁ~。
ブログにも書かれている通り川崎少年少女合唱団とヤング川崎少年少女合唱団が変わった事をしていた、という事を噂に聴きまして関連のレコードをずっと探しておりました。昨年ようやく73年を手に入れました。聞いてみたところ川崎の2つの合唱団はもちろんのことすべての合唱団が一つの作品としてとても面白かったです。
他の年代も気になる‥と探していたところこちらに辿り着いたという訳です。
自分はレコードを集めており、おっしゃる通りレコードとして探しているんです^_^; また時間を掛けて他の年代も探してみます。手に入れたら報告しますね(^ ^)
そうすると音大生さんで、何かを調べていらっしゃるとか?
川崎少年少女合唱団・・・私もこれを書くにあたりユーチューブか何かで探したような気がします。本当に振り付きだったか楽器演奏もしていたか確かめたくて。(^^;
でも、見つけられたかどうかよく思い出せません。
一番いいのは、川崎少年少女合唱団を訪ねてみてはいかがでしょうね?まだあったような・・・
「すべての合唱団が一つの作品としてとても面白かった」ですか。なるほど。今の学生さんの見方ですね、たぶん。 興味深い発言です。
あの頃、児童合唱団は、ちょっとしたブームだったかもしれませんね? 今のダンスユニットや地方アイドルグループみたいに。
あのころビデオなんてなかったですから、映像で残っていたらもっと面白かったでしょうね。
また何か新しい発見があったら教えてください。楽しみにお待ちしております。