猫のやぶにらみ

こよなく猫にあこがれる中年オヤジのブログです

一念発起のフォアグラとエスカルゴ

2007-05-19 | 食べ物
友人宅に夫婦二人で押しかけて、プロ顔負けの料理の腕前をもつ友人が渾身の腕をふるった最高級フランス料理のフルコースを堪能させていただきました。5本のワインがあっというまに空いてしまうという、至福の一夜でした。

ご馳走になるだけでは申し訳ないので、手土産に持って行ったのが、

これと、
青森県産フォアグラのテリーヌ。真ん中の黒いのはトリュフ!


これ。
三重県産エスカルゴ

どちらもネットの通販でゲットしたものですが、そもそもこんなものを日本の青森や三重県で作ってるということ自体が驚きではありませんか。

フォアグラは「シェフ桑原」というサイトで手に入れました。若い頃フランスで修行した桑原さんというシェフがフォアグラに魅せられて、一念発起、青森県で鴨とガチョウの飼育を始めたというんですね。今では、カモ、ガチョウあわせて年間25万羽以上を飼育するほどの大成功を収めていらっしゃるそうです。
ネットで簡単に手に入るこのフォアグラのテリーヌ、最高に旨いです。

続いてエスカルゴ。

これは三重県の「エスカルゴ牧場」で養殖している最高級エスカルゴです。ここの社長さんは世界で初めて、最高級エスカルゴ(ブルゴーニュ種)の養殖に成功した方だそうです。しかもこの人、本職は鉄工所の社長さんなんですと。

最高級エスカルゴ⇒天然モノは絶滅の危機に瀕しており現地フランスでも手に入らない⇒フランスでは多くの関係者が養殖を試みたがことごとく失敗⇒三重県の鉄工所のオヤジがなぜか一念発起して養殖に取り組む⇒世界で初めて最高級エスカルゴ(ブルゴーニュ種ポマティア)の養殖に成功

ネットで注文すると上の写真のように生で送られてくる、わけではもちろんありません。完璧に調理済みのエスカルゴを冷凍し、トレーにたこ焼きのように並べた格好で送られてきます。そのままオーブンで5分間加熱するだけで、トレビアン!!

青森と三重で二人の日本人が「一念発起」してくれたおかげで、九州の田舎に居ながらにしてこういう楽しみを満喫できるわけです。まことに感慨深いではないですか。

今後は是非、このお二人に続いて、どなたか「一念発起」していただいて、フランスやイタリアに負けないようなチーズを、日本で(もっと安い値段で)作ってくれることを、強く願うものであります。。。



※『フランス料理に使われる高級食材として知られるエスカルゴ。中でもブルゴーニュ種のポマティアは最高級のエスカルゴとされており、本来「エスカルゴ」とはフランス原産のポマティアのことを指していた。しかし、乱獲の度が過ぎたこと、自然破壊で棲息する森が少なくなったことなどが重なり、ブルゴーニュ種はほとんど絶滅してしまった。養殖に挑んだ農家もあったが成功には至らず、アフリカ東部原産の「アフリカマイマイ」などを代用品として食すようになった。現在、フランス料理で出されるエスカルゴは、ほとんどがこのアフリカマイマイであり、本場フランスでも、「本物」のエスカルゴであるポマティアがテーブルに並ぶことはない』






高級スピーカー聴き比べ

2007-04-14 | 音楽
オーディオ趣味が嵩じてきた。

【世界の高級オーディオを一堂に集めたハイエンド・オーディオショップ。総床面積280坪の2フロアに、様々な試聴スペースが設けられた体験・提案型スタイルの店舗です】という宣伝文句に釣られて、「レフィーノ&アネーロ」というお店に行ってきました。

押尾コータローの華麗なギターの音、アンドラーシュ・シフの美しいピアノの音、そしてパイプオルガンの圧倒的重低音という、三種類の音を代表するお気に入りのCDを持参して、各種スピーカーの試し聴きをさせていただきました。



今回、試聴させていただいたスピーカーは次の通りです。

まずはリンのコムリ

2本セットで735万円!

次にソナス・ファベールのアマティ

380万円也!

続いて、同じくソナス・ファベールのガルネリ

185万円 

この日試した唯一の日本製、ソニーの「SS-AR1」

170万円・・・

最後に、お店の方が、是非にと試聴を勧めてくれたルーメン・ホワイトのシルバー・フレーム

548万円(ピュア・ダイヤモンド・ツイーター付)


まあ、値段からいえば、BMWとカローラを試乗してみたようなもので、ずいぶんポリシーのない試聴をするものだと思われるかもしれませんが、オーディオ製品の場合、話はそれほど単純ではありません。

何しろ、あくまで趣味の世界のことですから、世間体や、実用性などはあまり重要ではありません。人が何と言おうと、世間がどんな目で見ようと、「おお、これほんとにいいやん!」と、自分が納得するものを探し求める、これが趣味に生きる道だと思います。

値札の問題は勿論重要ですが、どんな音が聴こえるかの方がはるかに大切です。気に入った製品のお値段が、たまたまとてつもなく高かった場合は、以下のように対処するだけです。

①宝くじを買う
②死ぬほど働く
③仏教に帰依して煩悩を捨て去る

今回は長時間かけてあれこれと試聴させていただきました。嫌な顔ひとつせず、親切に対応して下さったお店の方に感謝です。おかげさまで、とてもいい体験(勉強)ができました。

初老

2007-04-09 | ネコ的思索
久しぶりに夫婦二人で東京に行ってきました。知人の結婚披露宴に出席という、いかにも順当な理由です。

空いた時間に二人で銀ブラ、日比谷公園でお散歩。ああ、本当に順当過ぎるほどに順当な初老の夫婦二人の時間の過ごし方、春の陽射しがとても心地良く感じられました。

思い返せば三人の子育てに追われ、変転極まりない夫の気まぐれに翻弄されて、うちの奥さんは苦労した。

家に帰れば三匹の猫ちゃんたちがお出迎え。こいつらを見ていると肩の力が抜ける。

辞書を引くと、「初老」というのは40歳のことだという。

【初老】
(1)老境に入りかけの人。老化を自覚するようになる年頃。
(2)四〇歳の異称。

これは知らなかった。初老という言葉で私が思い浮かべるのは、もっとずっと年配の人々のことだった。昔の言葉だから、現代にそのまま当てはめる必要はないのだとも思うが、ちょっと考えさせられる。

昔風にいえば初老をとっくに過ぎて中老(50歳の異称)に達しようという私は、猫のように穏やかでひそやかに、やりたいことだけをやって、したくないことはせず、やることがなければ昼寝し、たまには飼い主にごろにゃんと甘えたりなどして、過ごすことを楽しみとしている。。。

押尾コータロー

2007-03-19 | 音楽
カラオケとギター演奏を趣味とする友人にすすめられて、押尾コータローのCDを買った。

生ギター一本とは信じられないような華麗なテクニックで、豊かでシャープな演奏を聴かせてくれる。

「浪速が産んだ世紀の天才ギタリスト」ということで、すでに相当有名な方らしいのだが、例によって、私はまったく知らなかった。こんな素晴らしいギタリストのことを教えてくれた友人に心から感謝している。

最近私は、オーディオ趣味が嵩じてきており、「曲」を聴くというより、「音」を聴いて楽しむという傾向が強くなりつつある。

どういうことかというと、例えば、私の大好きな井上陽水。「夢の中へ」や、「帰れない二人」などの名曲がやはり最高だ。しかし、家ではまったく聴かない。家でCDを聴くときは「永遠のシュール」という、大したヒット曲など収められていないCDをよく聴いている。というのも、このCDはとても「音」がいいので、聴いていて大変心地よいからだ。

こういう聴き方をしだすと、ちょっとやっかいなことがおこる。発作的に、「力強く、シャープで、しかも繊細なアコギの音が聴きたい!」とか、「壮麗なパイプオルガンの音を大迫力で聴きたい」などと思ったりし始めるのだ。

我が家のCDラックには、奥さんがピアノ弾きという影響から、クラシックのピアノ曲が圧倒的に多い。そうすると、作曲者や演奏家による好みもさることながら、そのCDの録音状態や、使用ピアノの方に関心が向くようになってきた。

ある時、どうもこの音色は演奏者の弾き方だけの違いとは思えない、という音に出くわして、それがベーゼンドルファーの音だったということを突き止めたときは、我ながら、「うむ、わしの耳もかなり良くなってきたわい」と自画自賛したものだ。

さて、押尾コータローだ、私が買ったのはデビューアルバムの「Starting Point」と、「Dramatic」の二枚。

普通ならとりあえずデビューアルバムだけ買って様子を見るところだが、私の友人が一生懸命練習して聴かせてくれた「太陽のダンス」という曲が「Dramatic」の方に入っていたので、こちらも合わせて購入した。結果は、大正解! 二枚とも素晴らしいCDです。感動しました。

しかし、一つ頭にきたことがある。この二枚のCDともに、CCCDというロゴ付なのだ。何のことだか知らずに、注意書きを見てみると、なんと、このCD、パソコンに取り込むことは不可、ということらしい。CCCDとは、コピーコントロールCDの略なんだそうだ。要するに不法コピーを禁じるために、パソコン取込を出来なくする処理が施されたCDというのだ。

ということはiPodで聴くことができないということ!!

私は、まあ、iPod持ってないので、別にいいけど、息子と娘が相当がっかりしてます。iPodのヘッドフォン、ちょっといいやつに取り替えて携帯音楽ライフを満喫している彼らの落胆振りはよく理解できます。

あまりにセコいぞ、東芝EMI!!






宮城まりこさんの文体

2007-03-07 | 経済・社会
日経新聞の人気連載「私の履歴書」を執筆中の宮城まりこさんの文章が、素晴らしい。

企業経営者や学者、政治家、芸術家等々、各界で功なり名を遂げた有名人が自ら筆をとって、その半生を振り返る「私の履歴書」は私も長く愛読している。中には退屈極まりない連載もあるけれど、現在進行中の宮城まりこさんの「私の履歴書」は出色である。

私は宮城まりこさんのことはほとんど何も知らない。「ねむの木学園」園長という肩書きで書いておられるが、それがどういう「学園」なのかということも知らない。

そんな宮城さんの連載に目を奪われたのは、その文章が、というより、その文体が素晴らしいと感じたからだ。

文体とは何か、と言われても明快な答を持ち合わせている訳ではない。しかし、いろんな書き手の書いたものを読んでいると、その内容とは別に、書き手に特有の、一貫した「文体」というものがあるように思えてくる。

では、「文体」と内容というものは截然と区別できるのか、というと決してそうではなくて、これは渾然一体、不即不離の関係にあると思う。頭の中に何かしら表現したい内容というものがあって、それを直接取り出して見せるわけにはいかないので、例えば文章というかたちで表現する。

それを読む人が最初に目にするのは、文章であって、内容ではない。あるいは文章というかたちで表現されようとした内容、と言ってもいい。

私を見る人は洋服を着た私を見るのである。素っ裸の私こそが本当の私だとどうして言えよう。私が選ぶ服装には私の何か「内容」にかかわるものが大なり小なり表現されているのに違いない。

文体のことを英語では Style という。宮城まりこさんのスタイルは上品で、気高い。丁寧だがすましていない。優しげだが、決して弱くない。凛とした美しさに満ちた文体である。

日経新聞という、面白くもおかしくも無い経済専門紙の紙面に、このような文章が掲載されるというのは、画期的なことである。毎日、この連載がとても楽しみだ。

・・・ということを奥さんに話して聞かせたら、「宮城まりこね、吉行淳之介と暮らしてたんだから、きっとそれで文章が上手いのよ」と言った。

そうなんですか、それは全然知りませんでした。しかし、そんなこと関係ないと思いますね。夫が野球選手だったら奥さんまで野球が上手になりますか?逆の場合もありますよ。うちの奥さんはピアノの先生だけど、私は全然、弾けないし。。。

ということで、宮城まりこさんのあの素晴らしい文体は、彼女の素晴らしい人格の発露によるものであると、私は信じて疑いません。もちろん、その人格形成において吉行淳之介氏が何らかの影響を及ぼした可能性は否定できませんが、そのあたり、この連載でどのように扱われるのか、ますます楽しみになってきました。

不都合な真実

2007-02-27 | 映画
昨日、アカデミー賞(ドキュメンタリー賞)を受賞した、話題の映画、「不都合な真実」を、先週、観てきました。

この映画は、アメリカの元副大統領アル・ゴアが、全米を中心に世界各地で1000回を超えるスライド・プレゼンテーションを行いながら地道に訴えてきた、地球温暖化問題についてのドキュメンタリー映画です。

アル・ゴアといえば・・・

・クリントン政権の8年間、副大統領として実績を積む。
・「情報ハイウェイ構想」など、インターネットやIT産業の重要性にいち早く気づいていた数少ない政治家
・環境問題への取り組みをライフワークとする
・優秀だがエリート臭い、まじめで堅物すぎると評され、クリントンやブッシュに比べて、庶民的人気に欠ける。
・2000年の大統領選挙では、ジョージ・ブッシュに対し、一般得票総数では上回ったものの、ブッシュの実弟が知事をつとめるフロリダ州での開票問題が泥沼化し、結果としては敗北
・多くの支持者の期待にもかかわらず、2004年の大統領選挙には出馬せず

とうことで、アル・ゴアは、2000年の大統領選挙に敗れて以降は、ビジネスの世界に没入するわけでもなく、元副大統領という肩書きのまま、政治的には浪人生活としか言いようのない立場で、こつこつと地道に、地球温暖化の危機を訴えて、全米を、世界を行脚してきました。

この映画は、こうしたゴアの訴えに接して心を打たれた人々の努力と情熱によって製作されたドキュメンタリー映画です。

「温暖化によって引き起こされる数々の問題に心を痛めた彼(アル・ゴア)は、人々の意識改革に乗り出すべく、環境問題に関するスライド講演を世界中で開き、地球と人類の危機を訴えてきた。そして、その真摯で、ユーモラスな語り口に共感した製作者が、彼を主人公にした映画の製作を決意。現代人にとって耳の痛い問題を正面から描き、見る人すべてに大きな衝撃と感動を与えるヒューマン・ドキュメンタリーの誕生となった。」

さて、内容は観てのお楽しみということにしておいて、私の感想を・・・

私は、政治家アル・ゴアのファンである。2004年の大統領選に出馬してブッシュを破って欲しかったし、2008年も、是非挑戦して欲しいと思っている。

このような立場からこの映画を観れば、彼は「やる気」だと希望的観測をもったとしてもおかしくないだろう。

地球温暖化問題の深刻さをこれだけ鮮やかに描いてみせるプレゼン能力はさすがだ。しかし、この際それは重要ではない。政治家ゴアを批判するにしても、彼の能力を槍玉に挙げる人はいないのだから。

問題は彼のエリート臭さであり、能力ゆえの傲岸不遜さであり、庶民的でないところだ。要するに優等生過ぎて人気に欠ける点であったのだ。

そしてこの映画は、まさにそうしたゴアの弱点に対して一つ一つ手を打った作品に仕上げてある。

プレゼンの合間に挿入された、彼の人となりを紹介するいくつかのエピソードは、彼のイメージを再構築するために選りすぐられたものに違いない。たった一人で、キャリーバッグを転がしながら空港から空港へと旅を続けるゴアの後姿は、孤独なエバンジェリスト(伝道師)の姿であって、白人のエリート、エスタブリッシュメントの一員というイメージを打ち消す効果を狙ったものだろう。

昨年、米国で公開されたこの映画は大きな反響を呼んだ。ドキュメンタリー映画としては歴代3位の興行成績を記録し、アカデミー賞を獲得した。公開のタイミングもきちんと計算されている。2008年の大統領選挙に向けて、ゴアはついに確固とした一歩を踏み出した、と考えたい。

現時点での民主党の有力大統領候補はヒラリーとオバマの両上院議員。どちらも、米国史上初の「白人男性でない」大統領を目指している。

そこに、ちゃきちゃきの「白人男性」ゴアが手を挙げるのか、挙げないのか・・・。アカデミー賞授賞式後のインタビューに応えて、ゴアはいつものように、はっきりと大統領選への出馬の意思のないことを明言している。そしてこれもいつものことだが、多くの支持者はそれを信じようとしないし、少なからぬ識者も可能性はあるという見方を変えない。

本人がどれほど否定しようとも、この映画は、ゴアとゴアの支持者による、大統領選挙出馬のための布石である。少なくともそうみなされることを承知の上で世に問うた作品である。

映画は成功した。ゴアへの期待はいやでも高まる。

米国大統領選挙という世界最大の公開権力闘争に、自ら再び身を投じるガッツがゴアに無いとすれば、それこそが、この映画を観て心打たれた多くの人々にとっての不都合な真実であろう。


「ホンダレーシングF1チームは26日、青を基調に「地球」をイメージした07年レース用マシンのデザインを発表した。これまでは、たばこ会社などスポンサー企業のロゴを大々的にデザインすることが多かったが、環境保護を訴えようと、初めてロゴの露出を抑えた」

勉強を選んだ若者は、社会とどう向き合うか

2007-02-09 | 経済・社会
「ハンカチ王子」こと斉藤祐樹君、卓球の福原愛ちゃん、アイススケートの浅田真央さん・・・。全国に名をとどろかせ、多くの人々の賞賛の声を一身に受けるスーパー高校生。

スポーツや、音楽などの世界ではこういうことは珍しくはない。いつの時代でもその時のヒーローやヒロインとなる、若きスポーツ選手や音楽家はいる。

高校生くらいの年回りで全国的に有名になる、そうした傑出した選手や音楽家たちは、生まれながらの才能に加え、幼少の頃からかなりストイックに、厳しい修練を積んできたに違いなく、そのことがまた、惜しみない賞賛の的になる。

それらスーパー高校生の地元でも、彼らの存在とその成功が、地元の誇りであり、皆で応援しようという機運が盛り上がる。甲子園への出場権を得た野球部員たちは学校の誇りであり、郷土の誇りだ。校長はもちろん、市長や県知事が激励し、学校関係者のみならず、市民や県民の熱い声援を背に、勇躍、甲子園に向けて旅立つのだ。

スポーツなどでは、このようなことが普通に行われているのに、「勉強」の世界ではこういうことがないのはなぜだろうか?

たとえば、
学校で一番の成績を修めた生徒が全校生徒の前で校長先生から誉められたり、全県模試でトップの成績を修めた生徒が、県庁に招かれて知事から祝福されたり。全国模試でトップレベルの成績を修めた地元期待の俊英が、最難関といわれる大学受験に臨む時は、駅頭で母校の同級生・先生らはもちろん、地元テレビ・新聞記者などにもみくちゃにされながら声援を受けて、大勢の人々に見送られ・・・!

勉強の方面で、天賦の才に恵まれ、しかも人並み外れた努力を続けて、最高得点を叩き出した若者も、学校の誇り、地元・郷土の誉れという賞賛に値するのではないだろうか。

ところが、実際はそうではない。上記のような発想は、受験競争をあおり、学歴差別を助長し、子供たちへの負担を一層増やすことになる、ということで、否定されているからだ。

このような環境のもとで大人になっていく、勉強の世界で頑張った優秀な若者は、どのような気持ちでその後の人生を歩んでいくのだろうか。

わき目も振らずに勉強一筋に頑張ることは「かっこ悪い」という価値観が浸透している。もっと踏み込んで、そんなことは「好ましくない」とさえ断じる教育関係者は少なくない。

練習一筋と勉強一筋。同じように努力して人並みはずれた結果を叩き出しても、世間的には、前者は賞賛され、後者は賞賛されない(というか誰がトップだったかすらよく分からない)。これは一体なぜだろうか?

社会や世間の注目を浴び、賞賛され、期待されることによって、人は初めて、世間や社会に恩返しをしようと思うのではないだろうか。

若き秀才たちの多くが、長じて、手に入れた資格や権力を、世のため人のためというよりは、金儲けや利己的な栄達のために使うことに汲々とするようになるのは、これが原因と言ってもよいのではないか。

優秀な人間は社会において枢要な地位を手に入れる確率が高い。そうであるならば、若いうちから、蝶よ花よとおだてあげた方がいい。郷土の誇り、国の誉れと、大きな期待を背負わせるのだ。本人にとっては大きなお世話かも知れないが、世間や社会として、素直に、そのような扱いをすることが大事だと言いたい。

そうすることによって、初めて、若き秀才たちの心のうちに、何か、優秀であるがゆえの社会に対する責任感、らしきものが芽生えてくるのではないだろうか。

「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(ルカによる福音書)



機械と原料と工業生産物

2007-02-05 | 経済・社会
「女性は子を産む機械」という発言で、非難を浴びている柳沢厚労相。今日の報道では以下のように安堵していらっしゃるそうだ。

「柳沢伯夫厚生労働相は5日午前、東京都内で記者団に対し、愛知県知事選と北九州市長選が与野党の1勝1敗となった結果を受け『(愛知で)大激戦を制した神田(真秋)知事の力を本当にうれしく思った』と安堵(あんど)の表情を見せた。自身の進退については『前から申し上げている通り、私は与えられた任務を全力を挙げて頑張りたい』として、辞任しない考えを改めて強調した。」

別に自分の信任選挙で再選されたわけでもなし。柳沢大臣などあずかり知らぬ、地方の首長を選ぶ選挙結果について、「安堵」するというのも変な話だ。この選挙の有権者たちは柳沢氏の信任投票を行ったわけではないのだ。愛知の有権者は、いい迷惑だと感じているのではないか?

なるほど、「与えられた任務」をまっとうするということか。要するに、文句があるなら任務を与えてくれた人に言ってくれ、ということか。

女性は「産む機械」発言について、

①私の母は女性なので、母という出産機械から産まれた私も、ひょっとするとやはり機械ということになるのか?それとも女性という機械は、女の子という機械と、何か機械ではなさそうな男の子というものを産み分ける能力をもっているということだろうか。

②柳沢大臣は少子化問題を論ずる中で、女性は子を産む機械である、と言った。つまり、子供を何か工業生産物とみなして、その生産高をいかに向上させるかというたとえ話だ。子供という生産物の生産高が伸びないのは女という「産む機械」の性能が悪いからだ、とは、柳沢大臣は言っていない。だとすると何が問題だと彼は言いたかったのか。工場で働く人なら誰でも言うだろう。機械に問題がないのなら、原料でしょ。原料を投入しない限りどんな最新鋭の生産機械があっても、そりゃ、モノはできませんから。女性が産む機械なら男性は原料か!?

女性を生産機械にたとえることは男性を原料にたとえることと同じだし、産まれる子供を工業生産物とみなすことと同じである。

不妊に悩むカップルは柳沢発言をどのように受け止めているのだろうか。野田聖子議員はもっと毅然とした態度で発言すべきではないか。「私は故障してる機械だということですか」と柳沢大臣に詰め寄ったらどうだろうか。子供ができなければ三行半、という時代から、大臣にだってなれる時代になってきたのだ。野田元郵政相には、厚労相には私こそふさわしい、と安倍総理に直訴するくらいの気概を見せて欲しい。

たとえ子供は産んだとしても、それが男の子ではなくて女の子だったからというだけで、大変なプレッシャーを受け、今現在もひどいストレスから立ち直れないでいる女性のことを我々はみんな知っている。

雅子様は立派に子供を産んだが、それが男の子ではなく、女の子だったので、大変ひどい扱いを受けたようだ。まるで、皇太子妃は「世継ぎを産む機械」であって、男子を産まない皇太子妃は、その性能に欠陥があると言わんばかりの冷たい視線にさらされたのだ。さぞかし、つらかっただろう。機械には「つらい思い」などという人間的な感情は持ち得ないという認識だからこその中傷だったろう。こんな馬鹿な話はないと私は思う。これも実は同根の話なのだ。

柳沢発言は単なる「失言」として、謝罪とともに水に流す話ではない。まして愛知県の県知事選挙での結果をもって、「みそぎ」が終わったという話では、全く無い。

柳沢大臣の発言の背景には、私自身も例外とは言えない日本の男社会に浸透した根深い差別感情がある。これは彼一人の問題ではないからこそ、目をそらすべきではないと私は思う。

安倍総理は柳沢大臣を一刻も早く罷免すべきと思う。

伊藤若冲はすごい!

2007-01-22 | 音楽
「若冲と江戸絵画展」、ついに行ってきました。昨年の夏、東京の国立博物館でやってましたね。気になりつつも行けずじまいで、残念に思っていましたが、九州も捨てたものではありません。この展覧会、大宰府の九州国立博物館にやってきてくれました。

奥さんと二人で、朝8時に我が家を出発、高速を利用して予定通り10時前に到着。しかしすでに博物館の駐車場は満杯。やむなく付近の民間駐車場へ。ボラれるかと思いきや、これが一日500円という物分りの良さ。九州はやっぱり、いい!


鳥獣花木図屏風
伊藤若冲筆
エツコ&ジョー・プライスコレクション

もうとにかく、感動しました。これは見るしかない、です。


紫陽花双鶏図
伊藤若冲筆
エツコ&ジョー・プライスコレクション

これ↓はもしかして手塚治虫の火の鳥のモデルでは!?



我々夫婦は二人とも江戸絵画について何の知識もなく、すこしの絵心も持ち合わせてはいませんが、素晴らしいひと時を過ごすことができました。うまく言葉に出来ませんが、とても貴重な体験が出来たと嬉しく思っています。

本当に行って良かった!


オードリー

2006-12-04 | 経済・社会
オードリー・ヘップバーンといえば、私などよりも、ちょっと上の世代のおじさまたちにとって「あこがれのヒロイン」、ナンバーワンでしょう。

思えば「あこがれのヒロイン」という言葉自体、今や死語じゃないでしょうか。映画や舞台の大女優とお茶の間の距離感が、テレビや雑誌のおかげでぐっと近づいてしまって、「あこがれ」という言葉のもつ、やるせない距離感を奪ってしまったような気がします。

何を隠そう、私はオードリー・ヘップバーンに淡いあこがれを抱いているファンの一人です。

彼女は1929年生まれ、つまり、昭和4年生まれで、私の父親の一つ年下、母親の五つ年上です。自分の両親と同世代の女優に「あこがれる」というのもどうかと思いますが、「銀幕」の中の彼女の美しさ、清楚ではつらつとした動作は、時空を超えて私のような者の脳内にまで、しっかりとインプットされているのです。

そういう、私にとって数少ない「あこがれ」の対象であるオードリー・ヘップバーンが、テレビのCMに使われているのをみて、非常に不愉快でなりません。

彼女が主演した映画の名場面を切り取って、彼女のセリフにあわせて、あろうことか、「ローンは三井住友よ」みたいなセリフを吹き替えている。

これは絶対に許し難い暴挙である

なぜこのような醜悪なことが可能なのだろうか?

①彼女の主演した映画の著作権はもう切れてしまっていて、誰がどう使用しても勝手である

②著作権をもっている会社が高額の使用料と引き換えにOKした

しかし、映画の著作権とは別に、彼女のイメージが損なわれる可能性ということは考慮されないのであろうか?例えば彼女の遺族が、異議申し立てをするという道はあり得ないのであろうか?

もう一つの可能性として、晩年、国連児童基金特別大使などを務め、ユニセフの活動などに献身的に貢献した彼女の遺志を汲んで、彼女関連の映像やグッズの販売から上がる収益はそのような基金に寄付される、というような仕組みができている、ということもあり得ると思う。そういう事情なら私も賛成だ。

いずれが本当の事情かは分からないけれど、それにしても、どうせやるなら、もう少し配慮してもらえないものか。イメージ広告として、ただ名場面を再現するだけで十分でしょ。私の脳内で勝手に作り上げた「あこがれの彼女」は、たとえどんな大金を積まれても、銀行のカードローンの宣伝文句など決して口にしたりはしない。

吹き替えで下世話な宣伝文句を言わせるようなことは、頼むからやめてくれ!