猫のやぶにらみ

こよなく猫にあこがれる中年オヤジのブログです

不都合な真実

2007-02-27 | 映画
昨日、アカデミー賞(ドキュメンタリー賞)を受賞した、話題の映画、「不都合な真実」を、先週、観てきました。

この映画は、アメリカの元副大統領アル・ゴアが、全米を中心に世界各地で1000回を超えるスライド・プレゼンテーションを行いながら地道に訴えてきた、地球温暖化問題についてのドキュメンタリー映画です。

アル・ゴアといえば・・・

・クリントン政権の8年間、副大統領として実績を積む。
・「情報ハイウェイ構想」など、インターネットやIT産業の重要性にいち早く気づいていた数少ない政治家
・環境問題への取り組みをライフワークとする
・優秀だがエリート臭い、まじめで堅物すぎると評され、クリントンやブッシュに比べて、庶民的人気に欠ける。
・2000年の大統領選挙では、ジョージ・ブッシュに対し、一般得票総数では上回ったものの、ブッシュの実弟が知事をつとめるフロリダ州での開票問題が泥沼化し、結果としては敗北
・多くの支持者の期待にもかかわらず、2004年の大統領選挙には出馬せず

とうことで、アル・ゴアは、2000年の大統領選挙に敗れて以降は、ビジネスの世界に没入するわけでもなく、元副大統領という肩書きのまま、政治的には浪人生活としか言いようのない立場で、こつこつと地道に、地球温暖化の危機を訴えて、全米を、世界を行脚してきました。

この映画は、こうしたゴアの訴えに接して心を打たれた人々の努力と情熱によって製作されたドキュメンタリー映画です。

「温暖化によって引き起こされる数々の問題に心を痛めた彼(アル・ゴア)は、人々の意識改革に乗り出すべく、環境問題に関するスライド講演を世界中で開き、地球と人類の危機を訴えてきた。そして、その真摯で、ユーモラスな語り口に共感した製作者が、彼を主人公にした映画の製作を決意。現代人にとって耳の痛い問題を正面から描き、見る人すべてに大きな衝撃と感動を与えるヒューマン・ドキュメンタリーの誕生となった。」

さて、内容は観てのお楽しみということにしておいて、私の感想を・・・

私は、政治家アル・ゴアのファンである。2004年の大統領選に出馬してブッシュを破って欲しかったし、2008年も、是非挑戦して欲しいと思っている。

このような立場からこの映画を観れば、彼は「やる気」だと希望的観測をもったとしてもおかしくないだろう。

地球温暖化問題の深刻さをこれだけ鮮やかに描いてみせるプレゼン能力はさすがだ。しかし、この際それは重要ではない。政治家ゴアを批判するにしても、彼の能力を槍玉に挙げる人はいないのだから。

問題は彼のエリート臭さであり、能力ゆえの傲岸不遜さであり、庶民的でないところだ。要するに優等生過ぎて人気に欠ける点であったのだ。

そしてこの映画は、まさにそうしたゴアの弱点に対して一つ一つ手を打った作品に仕上げてある。

プレゼンの合間に挿入された、彼の人となりを紹介するいくつかのエピソードは、彼のイメージを再構築するために選りすぐられたものに違いない。たった一人で、キャリーバッグを転がしながら空港から空港へと旅を続けるゴアの後姿は、孤独なエバンジェリスト(伝道師)の姿であって、白人のエリート、エスタブリッシュメントの一員というイメージを打ち消す効果を狙ったものだろう。

昨年、米国で公開されたこの映画は大きな反響を呼んだ。ドキュメンタリー映画としては歴代3位の興行成績を記録し、アカデミー賞を獲得した。公開のタイミングもきちんと計算されている。2008年の大統領選挙に向けて、ゴアはついに確固とした一歩を踏み出した、と考えたい。

現時点での民主党の有力大統領候補はヒラリーとオバマの両上院議員。どちらも、米国史上初の「白人男性でない」大統領を目指している。

そこに、ちゃきちゃきの「白人男性」ゴアが手を挙げるのか、挙げないのか・・・。アカデミー賞授賞式後のインタビューに応えて、ゴアはいつものように、はっきりと大統領選への出馬の意思のないことを明言している。そしてこれもいつものことだが、多くの支持者はそれを信じようとしないし、少なからぬ識者も可能性はあるという見方を変えない。

本人がどれほど否定しようとも、この映画は、ゴアとゴアの支持者による、大統領選挙出馬のための布石である。少なくともそうみなされることを承知の上で世に問うた作品である。

映画は成功した。ゴアへの期待はいやでも高まる。

米国大統領選挙という世界最大の公開権力闘争に、自ら再び身を投じるガッツがゴアに無いとすれば、それこそが、この映画を観て心打たれた多くの人々にとっての不都合な真実であろう。


「ホンダレーシングF1チームは26日、青を基調に「地球」をイメージした07年レース用マシンのデザインを発表した。これまでは、たばこ会社などスポンサー企業のロゴを大々的にデザインすることが多かったが、環境保護を訴えようと、初めてロゴの露出を抑えた」

勉強を選んだ若者は、社会とどう向き合うか

2007-02-09 | 経済・社会
「ハンカチ王子」こと斉藤祐樹君、卓球の福原愛ちゃん、アイススケートの浅田真央さん・・・。全国に名をとどろかせ、多くの人々の賞賛の声を一身に受けるスーパー高校生。

スポーツや、音楽などの世界ではこういうことは珍しくはない。いつの時代でもその時のヒーローやヒロインとなる、若きスポーツ選手や音楽家はいる。

高校生くらいの年回りで全国的に有名になる、そうした傑出した選手や音楽家たちは、生まれながらの才能に加え、幼少の頃からかなりストイックに、厳しい修練を積んできたに違いなく、そのことがまた、惜しみない賞賛の的になる。

それらスーパー高校生の地元でも、彼らの存在とその成功が、地元の誇りであり、皆で応援しようという機運が盛り上がる。甲子園への出場権を得た野球部員たちは学校の誇りであり、郷土の誇りだ。校長はもちろん、市長や県知事が激励し、学校関係者のみならず、市民や県民の熱い声援を背に、勇躍、甲子園に向けて旅立つのだ。

スポーツなどでは、このようなことが普通に行われているのに、「勉強」の世界ではこういうことがないのはなぜだろうか?

たとえば、
学校で一番の成績を修めた生徒が全校生徒の前で校長先生から誉められたり、全県模試でトップの成績を修めた生徒が、県庁に招かれて知事から祝福されたり。全国模試でトップレベルの成績を修めた地元期待の俊英が、最難関といわれる大学受験に臨む時は、駅頭で母校の同級生・先生らはもちろん、地元テレビ・新聞記者などにもみくちゃにされながら声援を受けて、大勢の人々に見送られ・・・!

勉強の方面で、天賦の才に恵まれ、しかも人並み外れた努力を続けて、最高得点を叩き出した若者も、学校の誇り、地元・郷土の誉れという賞賛に値するのではないだろうか。

ところが、実際はそうではない。上記のような発想は、受験競争をあおり、学歴差別を助長し、子供たちへの負担を一層増やすことになる、ということで、否定されているからだ。

このような環境のもとで大人になっていく、勉強の世界で頑張った優秀な若者は、どのような気持ちでその後の人生を歩んでいくのだろうか。

わき目も振らずに勉強一筋に頑張ることは「かっこ悪い」という価値観が浸透している。もっと踏み込んで、そんなことは「好ましくない」とさえ断じる教育関係者は少なくない。

練習一筋と勉強一筋。同じように努力して人並みはずれた結果を叩き出しても、世間的には、前者は賞賛され、後者は賞賛されない(というか誰がトップだったかすらよく分からない)。これは一体なぜだろうか?

社会や世間の注目を浴び、賞賛され、期待されることによって、人は初めて、世間や社会に恩返しをしようと思うのではないだろうか。

若き秀才たちの多くが、長じて、手に入れた資格や権力を、世のため人のためというよりは、金儲けや利己的な栄達のために使うことに汲々とするようになるのは、これが原因と言ってもよいのではないか。

優秀な人間は社会において枢要な地位を手に入れる確率が高い。そうであるならば、若いうちから、蝶よ花よとおだてあげた方がいい。郷土の誇り、国の誉れと、大きな期待を背負わせるのだ。本人にとっては大きなお世話かも知れないが、世間や社会として、素直に、そのような扱いをすることが大事だと言いたい。

そうすることによって、初めて、若き秀才たちの心のうちに、何か、優秀であるがゆえの社会に対する責任感、らしきものが芽生えてくるのではないだろうか。

「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(ルカによる福音書)



機械と原料と工業生産物

2007-02-05 | 経済・社会
「女性は子を産む機械」という発言で、非難を浴びている柳沢厚労相。今日の報道では以下のように安堵していらっしゃるそうだ。

「柳沢伯夫厚生労働相は5日午前、東京都内で記者団に対し、愛知県知事選と北九州市長選が与野党の1勝1敗となった結果を受け『(愛知で)大激戦を制した神田(真秋)知事の力を本当にうれしく思った』と安堵(あんど)の表情を見せた。自身の進退については『前から申し上げている通り、私は与えられた任務を全力を挙げて頑張りたい』として、辞任しない考えを改めて強調した。」

別に自分の信任選挙で再選されたわけでもなし。柳沢大臣などあずかり知らぬ、地方の首長を選ぶ選挙結果について、「安堵」するというのも変な話だ。この選挙の有権者たちは柳沢氏の信任投票を行ったわけではないのだ。愛知の有権者は、いい迷惑だと感じているのではないか?

なるほど、「与えられた任務」をまっとうするということか。要するに、文句があるなら任務を与えてくれた人に言ってくれ、ということか。

女性は「産む機械」発言について、

①私の母は女性なので、母という出産機械から産まれた私も、ひょっとするとやはり機械ということになるのか?それとも女性という機械は、女の子という機械と、何か機械ではなさそうな男の子というものを産み分ける能力をもっているということだろうか。

②柳沢大臣は少子化問題を論ずる中で、女性は子を産む機械である、と言った。つまり、子供を何か工業生産物とみなして、その生産高をいかに向上させるかというたとえ話だ。子供という生産物の生産高が伸びないのは女という「産む機械」の性能が悪いからだ、とは、柳沢大臣は言っていない。だとすると何が問題だと彼は言いたかったのか。工場で働く人なら誰でも言うだろう。機械に問題がないのなら、原料でしょ。原料を投入しない限りどんな最新鋭の生産機械があっても、そりゃ、モノはできませんから。女性が産む機械なら男性は原料か!?

女性を生産機械にたとえることは男性を原料にたとえることと同じだし、産まれる子供を工業生産物とみなすことと同じである。

不妊に悩むカップルは柳沢発言をどのように受け止めているのだろうか。野田聖子議員はもっと毅然とした態度で発言すべきではないか。「私は故障してる機械だということですか」と柳沢大臣に詰め寄ったらどうだろうか。子供ができなければ三行半、という時代から、大臣にだってなれる時代になってきたのだ。野田元郵政相には、厚労相には私こそふさわしい、と安倍総理に直訴するくらいの気概を見せて欲しい。

たとえ子供は産んだとしても、それが男の子ではなくて女の子だったからというだけで、大変なプレッシャーを受け、今現在もひどいストレスから立ち直れないでいる女性のことを我々はみんな知っている。

雅子様は立派に子供を産んだが、それが男の子ではなく、女の子だったので、大変ひどい扱いを受けたようだ。まるで、皇太子妃は「世継ぎを産む機械」であって、男子を産まない皇太子妃は、その性能に欠陥があると言わんばかりの冷たい視線にさらされたのだ。さぞかし、つらかっただろう。機械には「つらい思い」などという人間的な感情は持ち得ないという認識だからこその中傷だったろう。こんな馬鹿な話はないと私は思う。これも実は同根の話なのだ。

柳沢発言は単なる「失言」として、謝罪とともに水に流す話ではない。まして愛知県の県知事選挙での結果をもって、「みそぎ」が終わったという話では、全く無い。

柳沢大臣の発言の背景には、私自身も例外とは言えない日本の男社会に浸透した根深い差別感情がある。これは彼一人の問題ではないからこそ、目をそらすべきではないと私は思う。

安倍総理は柳沢大臣を一刻も早く罷免すべきと思う。