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原発利益共同体 追跡編 財界の野望①、② 利益最優先の推進派 モデルは米国

2011-08-11 | 原発利益共同体 ・ 軍事体制

 
  以前の『原発利益共同体』記事の続編です。


 財界の野望①                         赤旗日刊紙2011年7月20日(水)
 
 利権最優先の推進派


 東京電力福島第1原子力発電所の事故を受けて、原発からの撤退を求める世論が高まっています。ところが、原発推進によって特権的利益を享受する【原発利益共同体】は、停止中の原発の再稼動を突破口にして、原発推進体制の再構築を図ろうとしています。
 経団連の米倉弘昌会長(住友化学工業)は11日の記者会見で、「原発の停止に伴う電力供給量の低下が長期化すれば、企業の生産活動、設備投資に悪影響をもたらすことが懸念される」と発言し、停止中の原発を早期に再稼動することを求めました。


 根拠なき『宣言』

 米倉会長は、経済産業省の諮問機関である産業構造審議会の会長を務めています。産構審の産業競争力部会は6月30日、東日本大震災後の『新成長戦略』を推進するための報告書(『中間とりまとめ』)をまとめました。早くもこの時点で『原子力発電所の運転継続及び再起動は安全上支障がない』と【安全宣言】を出していました。
 しかしその後、菅内閣がストレステスト(耐性試験)の実施を発表したことで、この【安全宣言】には根拠がないことが露呈しました。
 報告書はさらに『原子力発電所の再起動について、理解と協力を得ていくことが不可欠である』として、政府が原発立地自治体への説得工作を行うよう求めていました。海江田万里経済産業相が、佐賀県を訪れ、定期検査で停止している九州電力の玄海原子力発電所の再稼動を玄海町の岸本英雄町長、古川康佐賀県知事に対し個別に要請に出向いたのも、これらを受けてのことでした。
 原発推進派が再稼動の理由として挙げるのが、原発の停止による【電力制約】が、日本経済に『打撃』を与えるというもの。『経済への打撃』を口実に国民を脅しつけるのは彼らの常とう手段です。放射能被害から国民と国土を守ることよりも、自らの利権を最優先し、原発の再稼動を迫っているだけです。


  『最大限の努力』  

 産構審の産業競争力部会は、大手原子炉メーカーの東芝の西田厚聰(あつとし)会長、新日鉄の三村明夫会長、パナソニックの大坪文雄会長、トヨタ自動車の渡辺捷昭(かつあき)相談役ら大手製造業の首脳陣が名を連ねています。
 経団連はこれまでも、原発推進勢力の中心に位置してきました。歴代の経団連役員には、東京電力の首脳陣が必ずといっていいほど名を連ねてきました。同会長に、東京電力会長の平岩外四氏が就任したのは、1990年12月のことでした。
 東電会長を務めた那須翔氏が経団連評議員会議長に就任していた時期(1999年5月~2002年9月)には、同会は『エネルギー政策の重点課題に関する見解』を発表(01年5月)。原発について「クリーンなエネルギーである」とした上で、「原子力の着実な推進に最大限の努力を払うべきである」と強調していました。
 このとき、経団連会長は今井敬新日本製鉄会長でした。今井会長は、02年5月に経団連会長職を降ります。その4年後の06年6月、今井氏は日本原子力産業協会の会長に就任します。原発推進のための産業団体である原産協会。その歩みからは、原発を推進する【原発利益共同体】の一端が見えてきます。



 財界の野望②

  大なる収穫を期待

 停止中の原子力発電所の再稼動を求めている日本原子力産業協会(原産協会)が発足したのは、1956年3月のことでした。同会は当時、日本原子力産業会議(原産)と名乗っていました。


 原子力の父 

 設立を呼びかけたのは、初代原子力委員会委員長で『原子力の父』などと言われる正力松太郎氏でした。正力氏は警察官僚出身で読売新聞社社主としてメディア界に君臨した人物です。55年2月、衆議院議員に富山2区から出馬し当選していました。
 東京電力が編さんした『関東の電気事業と東京電力 電気事業の創始から東京電力50年への軌跡』(『東電50年史』)は、この経過についてこう記しています。
 「正力原子力委員長の要請を受けて、電力会社や重電機メーカーを中心に、わが国基幹産業のほとんどすべてを網羅する350社以上の参加を得て、1956年3月に日本原子力産業会議が発足した」
 原産の活動について『東電50年史』は、原子力利用に関する講演会やシンポジウムの開催などのほか、海外への大型使節団の派遣、日米原子力産業合同会議の開催、国際原子力機関への参加などを行った、としています。
 原産の初代会長には、東京電力の菅礼之助会長が就任しました。菅原産会長は、原産発足の意義を次のように語っています。
 「第一に原子力の利用は、総ての分野にわたる産業技術の総合体の上にはじめて可能となるものであり、またその成果は、すべての産業技術に根本的な影響を与えずにおかぬものでありまして、各産業部門、各企業間の連絡、協力と総合的な研究の推進によってはじめて大なる収穫を期待しうるものでありますから産業界の横の結びつきを緊密にし、研究の総合性を確保するよう努力いたさねばならぬと思います」(『原子力産業新聞』56年3月25日付)
 当時の東電会長は戦後の財界・産業界に『大なる収穫』をもたらすものとして原子力を位置づけていたのです。


 モデルは米国 

 この原産のモデルとなった会議が米国にありました。アトミック・インダストリアル・フォーラムです。原子力工業の研究、連絡機関として53年4月発足した組織。現在は、原子力エネルギー研究所(NEI)と名乗っています。
 56年3月8日に開かれた国会で、正力氏は原産について、「日本のは、外国のより少し大じかけになっておる」と答弁しています。さらに、原産発足の狙いについて、「私どもではやはり民間の声を聞きたい。財界の声を聞くというわけであります」と率直に語っています。
 このとき、質問席にいたのが若き中曽根康弘議員でした。後に首相にまで上り詰めます。
 中曽根氏は「何しろ日本の場合は、外国の情報を探り、外国の研究の進行状態を探るというのが、原子力政策の70%くらいの重要性を今日の段階では持つと私は思うのであります。そういう点で、産業会議(原産)というものができて、民間団体においてそういう役目もやるということは非常にけっこうなことだと思っております」と手放しの評価を与えていました。


(つづく)



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