桐生スバル☆☆☆座   

映画好きの座長がWEB劇場・桐生スバル座を始めましたが
東日本震災で故郷FUKUSHIMAが悲惨な状況で帰れないネ~

平成版「大正ロマン」を創れない団塊世代の醜悪ブザマさ!!

2012年08月23日 | 団塊決別
 さてさて、座長一族の長オサである「釜藤のオバサン」から戦争の話を聞けて、長年の心の重石が除かれた気分。 もしも10年前に実父からも戦時話が聞けたのなら、より充実した一族伝承の物語が描けたのだが・・・・戦後50年経ったあの頃と言えども、座長自身の「聞く覚悟」がマダマダ定まっていなかったのだ。
 なにしろ座長らの団塊世代は、占領軍GHQから「後を頼む!」と前科モノ日本人を贖罪させる事を託された世代ではあったのだが、肉親親族の前科を暴く事には躊躇していた。

(A)幸いにも座長芝居の観客の中に、戦死した仲間から「後を頼む!」と戦後日本を託された戦中世代の88歳老人がいて、その苦労話を色々と聞く中で座長の「聞く覚悟」が段々と固まり始めたのが10年前で、座長は「88老人」と名付けて童謡替え歌にした位に感動したものだ。

 H24/08/23 Utatteru #68  OZUの謡←クリック 
  「八十八老」 元歌:「茶摘み」
   YOUTUBE映像で謡えます←クリック
 童謡ドーヨーと同い年 八十八老~よ~、
   ・・・・・・・・・・
   俺の生き様 世に曝すさらす
 

      
(B)座長は元歌の「摘めよ 摘め摘め 摘まねばならぬ 摘まにゃ日本の茶にならぬ」歌詞が大好きで、明治時代の4大輸出品(生糸、緑茶、米、水産物)に依存した立国振興策←クリック)に共鳴するものだ。
 そんな苦労の中から生み出された大正ロマンの世界は、座長の文化原点と言ってもよいかもしれない。幼少の頃から身の回りには教師だった父親が集めた大正モノがあって、今でも心の奥底から大正ロマンの泡粒が噴き出す事が時々あり、思わずウットリとしてしまう座長。
 特に大正7年に始まった「赤い鳥」童謡運動の余波は田舎学校のオルガンにも反響していたので、父のオルガンに合わせて大声で歌ったものだった。
  (それは吃音ドモリの治療の意味もあったのだが・・)

(C)時節柄なので怪談めいた話になるが、6月に亡くなった父が座長の枕元に立ってオルガンを弾き始めたのは8月の始めの事・・・・成長してからは対話の少なくなった事の恨みか、夜中にブカブカと童謡を歌い始めて座長を不眠状態にしてしまった。
 そこで亡父に提案して、対話代わりに平成時代の有様を童謡替え歌を創る事にしたのだが、嗚呼!!団塊世代が創り上げた平成時代の薄っぺらさは、とても大正ロマンと比較にならないのだ。
 それにしても大正と平成の時代は(不況、地震、政局)と似た事が起こるものだ。




コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。