夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

文章を書いて考えを確かめる

2009年05月02日 | 言葉
 まずは kojitanさんからのコメントを御紹介。私のきのうの「新型インフルエンザの呼び名がそんなに重要か」に対するものである。そのタイトルとは別に、現在、ネットがメディアのチェックをしていて、その暴走を心配する学者の考えに対して、権力を握っているメディアの暴走と個人の暴走は違うと私は批判をし、個人の力こそが物を言うのであり、政党だって要らない、と述べたのである。

夏木さんいつも面白い記事をありがとうございます。
 拝読して、一番最後の辺りの政党不要説ですが、賛成です。しかし、政党というとレッテルになってしまいますが、人を選びやすいですね。選挙ともなると選挙演説はどうしても耳に心地よいことしかいえませんしね。現実的には難しいけど、やっぱり選挙が人を選ぶ制度であるならば、できれば政党というものはなくしたほうがいいですね。院内会派はまた別ですが。
 それと、ネットの暴走と東京新聞が書いていたそうですが、ネットで個人のジャーナリストとか有志のブロガーが増えたと思います。それこそ百家争鳴みたいで、いろいろな主張や意見があります。でもメディア側から見たら、いままで情報を独占してきた業界なので気に入らないのだろうなって、思います。自分たちが隠してきた情報なんかも、個人だと遠慮なく書いてしまう。メディアが国民を煽動してきたことがよくわかります。
 また、いろいろと書いてしまいましたが、結論から言えば、夏木さんの主張に対して、政党の話は半分賛成、メディアの暴走に関しては、大賛成と言うことが言いたかっただけです。

 私は面白い記事が書けているとは思っていない。それを面白いと言ってくれるのはブロガー冥利に尽きる。私は自分の考えを確認するためにブログを書いている。と言うのは、ある事を考えてみたのだが、どうも単なる感じに過ぎないような気がする。そこできちんと取り組んでみる。そのためにはどうしたって文章にしなければならない。
 前にも書いたが、私はパソコンの入力で親指シフト入力にこだわっている。なぜなら、ローマ字入力に比べて、ほとんどの場合に半分の労力で済むからだ。例外は母音と拗音だけ。母音は同じで、拗音は3分の2の労力になる。更には、慣れれば無意識で出来るのだろうが、今の私はローマ字なら常に仮名をローマ字に変換する必要がある。そこで一瞬とは言え、時間の遅れが生じる。思った事が即文字になるのではない。それが考えに支障を来す。
 昨日、「何があってもコマンド+S」の鉄則をまたまた守らずに大失敗をした。2000字ほどの文章が一気に消えてしまった。私が常に使っているソフトは、自動保存の機能があるので、2分おきに保存する事にしている。だからたとえフリーズしても、損害は最少限度に抑えられる。ほんの少し前に入力したばかりの文章だから、思い出すのは難しくはない。これに慣れてしまうと、ついつい、途中で保存する事を忘れてしまう。そして多くのソフトで自動保存の機能が無い。エディターもその一つ。そして自動保存機能のあるエディターを見付けてそれに切り替えた。
 書いていた文章をなんとか思い出して再構成する事は可能だが、とてもやる気が起きない。その文章は一応はブログの原稿のつもりだったのだが、どちらかと言えば考え方の検証だったから、まあいいや、とあきらめたのである。

 で、考えを確認するために書いているとの話に戻る。文章にして考えを煮詰める事で間違いや勘違い、いい加減な部分などが明確にあぶり出されて来る。そうしないと、論理が飛んでいたり矛盾しているのに気が付かない事がある。いや、文章にしてもまだ気が付かない事さえある。書いて、何度も読み返して、更には次の日に再び読み返して、あれっ、これはおかしいぞ、と思う事が何度もある。
 そうした事から、他人の事だが、おかしな論理の文章は多分、読み返しが完全に出来ていないのだろうと思っている。書く事に必死になっている場合には、読み返す余力が失われるのかも知れない。ベストセラーになっている本に、そうした欠陥が少なくない事を私は知っている。ある三冊のベストセラーに対して、ほとんど全部と言って良いくらい、私は反論と言うか、批判の原稿を書いた。それぞれ一冊分ずつの分量になるほど筋の通らない批判すべき所がある。
 考え方の違いだよ、と言ってしまえばそれでおしまいだが、単に考え方の違いでは済まされないのである。考え方の違いではなく、筋道の違いなのである。筋道も人によって違うだろうが、個人の日記のような物ならいざ知らず、公に出版して人々に真実を訴えようとする本が独りよがりの筋道であって良いはずが無い。と言うか、間違った筋道に引っ張られてしまうのは危険である。
 でもおかしいではないか。そうした本ではもちろん編集者が居るし、校閲者だって居る。そうした人達が何でおかしな論理に気が付かなかったのか。これはどう考えても分からない。多分、普段から論理的に考える習慣が無いのだろう。そしてもう一つ。論理的に考える事が出来ないのかも知れない。そうした人は確実に存在する。

 文章ではないが、具体的な事で例を一つ。私は何人かでグループを作り、担当の仕事を変えて行くスタイルの仕事をしている。だから仕事の順番は大切だ。ある日、一人がこう言った。「順番から言えば○○さんなんだが、私がやる」。それでおしまい。私は呆気に取られた。
 何でこんな理屈が通ってしまうのか。「私がやってもいいかな」でも「私にやらせてもらえないかな」でもない。「私がやる」なのだ。順番とは言っても、そんなに厳密なものではない。だからと言って、順番を無視するとなると、「順番」の意味が問題になってしまう。ある辞書には「順序を追ってその番になる」とある。本質的な意味はどの辞書でも変わらない。順序を追わないのなら「順番」とは言わない。
 つまりその人の頭の中には「順番」と言う言葉はあっても、その正しい意味は入っていないのである。そうでなければ、あまりにもでたらめで自分勝手な人間だとしか言いようが無い。うっかりすると、勝手な人、で終わりになる。確かに勝手なのだが、そこには筋が分からない、論理的に考えられないと言う根本的な欠陥がある、と私は見ている。

 kojitanさんの「政党不要には半分賛成」との御意見を読んで、もう一度彼の文章を読み返した。多分「人を選びやすい」との理由が「半分賛成」になるのだと思う。でもkojitanさん、耳に心地よい選挙演説はあまり信用出来ませんよね。そうすると選ぶ根拠は候補者個人の人柄とか普段からの実績とかしか無い訳です。つまりは、実績は政党に属しているからこそ、あり得るのだ、と言う訳でしょうか? 良いヒントを下さったので、これから文章を書いて、そこの所を検討したいと思います。