4日の東京新聞の夕刊コラムに多和田葉子さんと言う作家がタイトルのような事を書いている。
「危ないですから黄色い線の内側にさがってお待ちください」との言い方が文法的に間違っているように感じられるのだそうな。ハンブルクで日本語を教えていて、形容詞に「ですから」をつけるのはだめ、と教えた覚えがあると言う。「です」だけならいい、と言うのだが、そうだろうか。
彼女は「嬉しいです」「寂しいです」はかすかにナイーヴな響きを持ち、微笑ましいと言うが、「から」と続けると違和感があるのだそうだ。「ですから」の前が名詞なら良い、とも言う。
「今は朝ですから」とか「あれは富士山ですから」なら良いと言う訳だが、「ですから」は「だから」の単に丁寧な言い方に過ぎないし、名詞に「だ」が付くのは当然ではないか。それに「です」は良くて、そこに「から」が付くとなぜいけなくなるのだろうか。
「形容詞+ですから」が駄目なのではなく、「形容詞+です」が違和感のある言い方なのだ。なぜなら、形容詞は何も付けずに言い切りで用が足りている。元々は「山高し」とか「花美し」などの言い方が標準だったはずだ。口語になって、「山が高い」「花が美しい」となっても、それだけで良かった。しかし、それでは丁寧さが欠けると考えて「ございます」を付けるようになった。「美しくございます」が音便の形を取って「美しゅうございます」となった。だから本来、それは「美しいです」ではないのである。
「美しいです」なら大威張りで良い、と言う作家の感性を私は疑ってしまう。
また、彼女は「コクテツ」と聞くと自然と「スト」と繋がるが、「JR」はおしゃれなロボットの名前のように聞こえるとも言う。JRという響きには、人間などいなくても機能しそうな無人の響きがあると感じるとも言う。こうした事は感性の問題だから他人がとやかく言う事ではない。
しかし「コクテツ」が「スト」と繋がるのは、そうした経験があるからだ。それに対して「JR」には何の経験も無い。ある時突然に旧国鉄が我々は民営化したのだから「JR」と呼んで欲しいと言ったのである。耳新しい言葉なのだから無人の響きがあるようにも感じるだろう。おしゃれなロボットのようにも聞こえるだろう。それは彼女の感性だ。
だが私の感性は全く違う。「JR」の響きに「金儲け」を感じてしまう。何の先入観も無かった所に突然現れた言葉だから、当初は無色透明だった。しかしそれが旧国鉄そのままで、多少サービスは向上したが(と言っても今までが悪過ぎたのだ)、採算に合わないと見るや、地元に取っては死活問題の路線であろうと、遠慮会釈無しに廃止か第三セクターに譲り渡してしまうさもしい根性を見せ付けられるたびに、汚さを嫌でも感じさせられてしまう。
この作家のような人々が大勢居る事をJRは見越していた。横文字で、片仮名語で、しかも過去の繋がりが全く無い言葉が喜んで受け入れられると踏んでいた。まさに新発足にふさわしい、と考えていた。その新鮮な名前の下で何でも出来ると。私は公共交通機関としてのプライドも使命感も何も無いJRを蔑んでいる。彼等の頭の中にあるのは、スピードと金儲けだけである。それが図らずもJR西日本のあの福知山線脱線事故で明瞭に世間に知れてしまった。事故後の対処も、何とか責任を逃れようとじたばたした事がすっかりばれてしまった。
彼女は「JRという名前は定着した」と認めている。確かに定着した。しかし「JR」とは一体何の意味なのか。もちろん、Japan Railwayの略である。だが、日本語の正式社名は「旅客鉄道」である。「北海道旅客鉄道」から始まって、「東日本旅客鉄道」「東海旅客鉄道」「西日本旅客鉄道」「四国旅客鉄道」「九州旅客鉄道」である。そのどこにJapan Railwayがあると言うのか。これが「日本鉄道東日本」とか言うのならJapan Railwayだと言っても良い。
日本語の正式社名とはまるで無縁の英語名を持ち出し、その省略語を使って、あたかも最新鋭の親しみ易い鉄道会社に生まれ変わったかのように振る舞うのは、はっきり言って詐欺である。「日本国有鉄道」ではなくなったのだから、「国有」を外した「日本鉄道」が正解なのである。
JRの響きを賞讃するこの作家の作品を読んでみたいものだ。
「危ないですから黄色い線の内側にさがってお待ちください」との言い方が文法的に間違っているように感じられるのだそうな。ハンブルクで日本語を教えていて、形容詞に「ですから」をつけるのはだめ、と教えた覚えがあると言う。「です」だけならいい、と言うのだが、そうだろうか。
彼女は「嬉しいです」「寂しいです」はかすかにナイーヴな響きを持ち、微笑ましいと言うが、「から」と続けると違和感があるのだそうだ。「ですから」の前が名詞なら良い、とも言う。
「今は朝ですから」とか「あれは富士山ですから」なら良いと言う訳だが、「ですから」は「だから」の単に丁寧な言い方に過ぎないし、名詞に「だ」が付くのは当然ではないか。それに「です」は良くて、そこに「から」が付くとなぜいけなくなるのだろうか。
「形容詞+ですから」が駄目なのではなく、「形容詞+です」が違和感のある言い方なのだ。なぜなら、形容詞は何も付けずに言い切りで用が足りている。元々は「山高し」とか「花美し」などの言い方が標準だったはずだ。口語になって、「山が高い」「花が美しい」となっても、それだけで良かった。しかし、それでは丁寧さが欠けると考えて「ございます」を付けるようになった。「美しくございます」が音便の形を取って「美しゅうございます」となった。だから本来、それは「美しいです」ではないのである。
「美しいです」なら大威張りで良い、と言う作家の感性を私は疑ってしまう。
また、彼女は「コクテツ」と聞くと自然と「スト」と繋がるが、「JR」はおしゃれなロボットの名前のように聞こえるとも言う。JRという響きには、人間などいなくても機能しそうな無人の響きがあると感じるとも言う。こうした事は感性の問題だから他人がとやかく言う事ではない。
しかし「コクテツ」が「スト」と繋がるのは、そうした経験があるからだ。それに対して「JR」には何の経験も無い。ある時突然に旧国鉄が我々は民営化したのだから「JR」と呼んで欲しいと言ったのである。耳新しい言葉なのだから無人の響きがあるようにも感じるだろう。おしゃれなロボットのようにも聞こえるだろう。それは彼女の感性だ。
だが私の感性は全く違う。「JR」の響きに「金儲け」を感じてしまう。何の先入観も無かった所に突然現れた言葉だから、当初は無色透明だった。しかしそれが旧国鉄そのままで、多少サービスは向上したが(と言っても今までが悪過ぎたのだ)、採算に合わないと見るや、地元に取っては死活問題の路線であろうと、遠慮会釈無しに廃止か第三セクターに譲り渡してしまうさもしい根性を見せ付けられるたびに、汚さを嫌でも感じさせられてしまう。
この作家のような人々が大勢居る事をJRは見越していた。横文字で、片仮名語で、しかも過去の繋がりが全く無い言葉が喜んで受け入れられると踏んでいた。まさに新発足にふさわしい、と考えていた。その新鮮な名前の下で何でも出来ると。私は公共交通機関としてのプライドも使命感も何も無いJRを蔑んでいる。彼等の頭の中にあるのは、スピードと金儲けだけである。それが図らずもJR西日本のあの福知山線脱線事故で明瞭に世間に知れてしまった。事故後の対処も、何とか責任を逃れようとじたばたした事がすっかりばれてしまった。
彼女は「JRという名前は定着した」と認めている。確かに定着した。しかし「JR」とは一体何の意味なのか。もちろん、Japan Railwayの略である。だが、日本語の正式社名は「旅客鉄道」である。「北海道旅客鉄道」から始まって、「東日本旅客鉄道」「東海旅客鉄道」「西日本旅客鉄道」「四国旅客鉄道」「九州旅客鉄道」である。そのどこにJapan Railwayがあると言うのか。これが「日本鉄道東日本」とか言うのならJapan Railwayだと言っても良い。
日本語の正式社名とはまるで無縁の英語名を持ち出し、その省略語を使って、あたかも最新鋭の親しみ易い鉄道会社に生まれ変わったかのように振る舞うのは、はっきり言って詐欺である。「日本国有鉄道」ではなくなったのだから、「国有」を外した「日本鉄道」が正解なのである。
JRの響きを賞讃するこの作家の作品を読んでみたいものだ。









