夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「危ないです」は良くて、「あぶないですから」は駄目だと言う

2010年02月07日 | 言葉
 4日の東京新聞の夕刊コラムに多和田葉子さんと言う作家がタイトルのような事を書いている。
 「危ないですから黄色い線の内側にさがってお待ちください」との言い方が文法的に間違っているように感じられるのだそうな。ハンブルクで日本語を教えていて、形容詞に「ですから」をつけるのはだめ、と教えた覚えがあると言う。「です」だけならいい、と言うのだが、そうだろうか。
 彼女は「嬉しいです」「寂しいです」はかすかにナイーヴな響きを持ち、微笑ましいと言うが、「から」と続けると違和感があるのだそうだ。「ですから」の前が名詞なら良い、とも言う。
 「今は朝ですから」とか「あれは富士山ですから」なら良いと言う訳だが、「ですから」は「だから」の単に丁寧な言い方に過ぎないし、名詞に「だ」が付くのは当然ではないか。それに「です」は良くて、そこに「から」が付くとなぜいけなくなるのだろうか。
 「形容詞+ですから」が駄目なのではなく、「形容詞+です」が違和感のある言い方なのだ。なぜなら、形容詞は何も付けずに言い切りで用が足りている。元々は「山高し」とか「花美し」などの言い方が標準だったはずだ。口語になって、「山が高い」「花が美しい」となっても、それだけで良かった。しかし、それでは丁寧さが欠けると考えて「ございます」を付けるようになった。「美しくございます」が音便の形を取って「美しゅうございます」となった。だから本来、それは「美しいです」ではないのである。
 「美しいです」なら大威張りで良い、と言う作家の感性を私は疑ってしまう。

 また、彼女は「コクテツ」と聞くと自然と「スト」と繋がるが、「JR」はおしゃれなロボットの名前のように聞こえるとも言う。JRという響きには、人間などいなくても機能しそうな無人の響きがあると感じるとも言う。こうした事は感性の問題だから他人がとやかく言う事ではない。
 しかし「コクテツ」が「スト」と繋がるのは、そうした経験があるからだ。それに対して「JR」には何の経験も無い。ある時突然に旧国鉄が我々は民営化したのだから「JR」と呼んで欲しいと言ったのである。耳新しい言葉なのだから無人の響きがあるようにも感じるだろう。おしゃれなロボットのようにも聞こえるだろう。それは彼女の感性だ。
 だが私の感性は全く違う。「JR」の響きに「金儲け」を感じてしまう。何の先入観も無かった所に突然現れた言葉だから、当初は無色透明だった。しかしそれが旧国鉄そのままで、多少サービスは向上したが(と言っても今までが悪過ぎたのだ)、採算に合わないと見るや、地元に取っては死活問題の路線であろうと、遠慮会釈無しに廃止か第三セクターに譲り渡してしまうさもしい根性を見せ付けられるたびに、汚さを嫌でも感じさせられてしまう。

 この作家のような人々が大勢居る事をJRは見越していた。横文字で、片仮名語で、しかも過去の繋がりが全く無い言葉が喜んで受け入れられると踏んでいた。まさに新発足にふさわしい、と考えていた。その新鮮な名前の下で何でも出来ると。私は公共交通機関としてのプライドも使命感も何も無いJRを蔑んでいる。彼等の頭の中にあるのは、スピードと金儲けだけである。それが図らずもJR西日本のあの福知山線脱線事故で明瞭に世間に知れてしまった。事故後の対処も、何とか責任を逃れようとじたばたした事がすっかりばれてしまった。
 彼女は「JRという名前は定着した」と認めている。確かに定着した。しかし「JR」とは一体何の意味なのか。もちろん、Japan Railwayの略である。だが、日本語の正式社名は「旅客鉄道」である。「北海道旅客鉄道」から始まって、「東日本旅客鉄道」「東海旅客鉄道」「西日本旅客鉄道」「四国旅客鉄道」「九州旅客鉄道」である。そのどこにJapan Railwayがあると言うのか。これが「日本鉄道東日本」とか言うのならJapan Railwayだと言っても良い。
 日本語の正式社名とはまるで無縁の英語名を持ち出し、その省略語を使って、あたかも最新鋭の親しみ易い鉄道会社に生まれ変わったかのように振る舞うのは、はっきり言って詐欺である。「日本国有鉄道」ではなくなったのだから、「国有」を外した「日本鉄道」が正解なのである。

 JRの響きを賞讃するこの作家の作品を読んでみたいものだ。
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朝青龍と相撲の品格

2010年02月05日 | 社会問題
 朝青龍がついに引退した。彼にはずっと以前から品格が欠けているとの評があった。相撲は国技である。だから横綱には品格が必要だ。そうした気持は分からなくはない。しかし相撲とて格闘技だ。そこには勝つか負けるしかない。いくら品格があったって、弱ければ横綱にはなれない。当たり前だ。
 横綱に武士道精神を云々する人も居る。しかしその武士道だって、平和な時代にはそうは言えても、いざ闘いになったら、そんな事言っていたら殺されてしまう。闘いを目的としている武士にとっては勝つか負けるかは、生きるか死ぬかの問題である。品格を保って殺されて、それであなたは良いのだと思いますか。もちろん、殺すか殺されるかの世界に問題があるのは承知の上。
 朝青龍は言っている。土俵の上では、特に体の小さい彼にとっては、闘魂しか無いのだと。相手を倒すのが目的の勝負で、何で品格が必要とされるのか。そんなに品格が大切なら、相撲などやめてしまえ。品格のある順に横綱、大関、関脇、と決めて行けば良いではないか。

 相撲協会が駄目な組織である事は今回の安治川親方の件で分かってしまった。そして親方が悪い。朝青龍はモンゴル出身だ。高校生の時に相撲留学として日本に来た。それを見い出したのが今の親方だ。日本の文化も伝統も知らない少年にそれを教えるのが親方の務めだろう。あれよあれよと言う間に出世してしまった朝青龍に教える間が無かったとでも言うのか。
 そうじゃない。カネを稼いでくれる彼をちやほやしたに違いない。協会にしたって、彼で相撲人気が盛り上がるのだから、躾をしようなどとは思いもしないだろう。いいように使って来て、品格が無い、は無いだろう。外野にしたって同じだ。朝青龍で相撲の醍醐味を覚えながら、品格が無い,とはよくも言えたもんだ。

 一度、相撲とは何か、国技とは何か、品格とは何か、を徹底的に考えるべきだ。以前『国家の品格』と言う藤原正彦氏の本がベストセラーになった。私も読んだが、よく分からない。最も象徴的だと思うのが,「人を殺しては駄目だから駄目なのだ」と言うような事が「品格」だと言う事にある。
 多分、多くの読者も明確に分かった訳ではなかろう。何となく曖昧でそれで分かったと思ってしまう。そうした日本人の曖昧さがすべての事の元凶となっている事に気付くべきだ。分かったような格好の良い事を言って、それですべて解決が付くなどと、とんでもない。この際、大いに反省すべきだろう。
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恵方巻きを私は食べない

2010年02月04日 | 暮らし
 昨日は節分。今日は立春。これでなくちゃあ季節感は味わえない、と思う。私は豆まきをした。しかし近所のどこからも「おにわーそと、ふくわーうち」の声が聞こえて来ない。昔は一人が豆をまき、もう一人があわてて戸を閉めると言う事をどこの家でもやっていた。もしかしたら、子供が学校とか幼稚園などでやっていて、親はそれで済んだと思っているのかも知れない。そうだとすれば寂しい事だ。
 しかし商魂だけは逞しい。スーパーではどこも豆まき用の豆を売っているし、中でも恵方巻きは盛大に売り場を占領している。恵方に向かって太巻きを丸かじりすると言う,それが決して恰好良い物ではないから、と言うよりむしろ醜いから私はやらない。なぜか二三年前から東京でも流行って来た。もちろん、商魂のしからしむる所である。
 どこだったか、鬼を追い払うのは避けて、「ふくわーうち」としか言わない所があったが、心優しい風習だと思う。そうした豆まきの風習に比べて、恵方に向かって太巻きを食べるだけ、と言うのは好きにはなれない。多分、立春も何も無いのだろう。

 今年は今日が立春で、14日が旧1月1日である。そうした季節感があってこその豆まきだろうと思う。
 太巻きについては、私にはショックだった事がある。小学生の遠足の時だった。弁当の時間になって、みんなが取り出したのは、細ーい海苔巻きだった。具はかんぴょうだけ。そんな海苔巻きを私は見た事がなかった。母は東京の芝で生まれて神田で育ったから江戸っ子だと威張っていた。その母が作る海苔巻きは具のたくさん入った太巻きだったのだ。それが海苔巻きだと思い込んでいたから、細い海苔巻きを見てショックを受けた。そしてそれが東京の海苔巻きだと知った。
 そんな日常の食べ物だった太巻きが仰々しく恵方巻きだなどと銘打って売られており、それを縁起を担いで喜んで食べているのが私には馬鹿馬鹿しいのだ。昔は豆だって自分の家で煎った。商売人の作った海苔巻きを食べて幸運を招こうと言うのではあまりにも御都合主義だろう。せめて自分で作った海苔巻きで幸福を招きたい。
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相撲協会の素顔がはっきり見えてしまった

2010年02月03日 | スポーツ
 立浪一門の安治川親方が理事選で貴乃花親方に投票した事で、所属の立浪一門の意向に反したとして、相撲協会を退職すると言う。一体何のために選挙をしたんだ? 彼は貴乃花親方の勇気と心意気を持って出馬した、との言葉を聞いて投票を決めたと話している。それは何を意味するか。協会には勇気も心意気も無いのだと言う事を如実に示している。
 立浪部屋では造反者は誰だ、と「犯人捜し」に夢中になった。造反、つまりは選挙には自由は無かった。選挙ばかりではない。協会にはどこを探しても「自由」などほんのひとかけらも無いのである。それが国技である相撲の協会だと言うのか。
 馬鹿な親方連中が考えを改めない限り、相撲ファンだって付いて行きはしないだろう。もしもそうではないとするなら、相撲ファンは目の見えない連中ばかりだ、と言う事になってしまう。

 造反者を捜し出すなどと言う馬鹿げた事をしなければ、これほどまでにはっきりとその腐った内容が世間に知られる事は無かっただろう。薄々と感じてはいても、証拠が無い。それなのに、こんなに明確に証拠を示されてしまえば、嫌でも内容を知る事になる。
 でも本当に何でそんな分かり切った事が分からないのだろう。多分、自分達の体質にすっかり馴れてしまって、それがどんなに世間とはかけ離れているかが分からないだけの事だろう。
 これは相撲協会だけの話ではない。毎日世間を騒がせている出来事も同じだ。
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日本はまさに米国の52番目の州。いや、それ以下だ

2010年01月31日 | 政治問題
 私のブログ、「三権分立に本当になっているのだろうか」に、流蛍さんが「証拠をお見せします」とコメントを送ってくれた。ところが、「証拠」が消えていた。再度送ってくれたが、それもまた消えている。そこでメールで送り直してくれた。様々な問題を含んでいるし、私一人で読むのはあまりにももったいないので、ここに御紹介したい。

小沢氏は夏木さんが説くように、金権政治家かもしれませんが、それは何の証拠も無く、マスゴミが一方的に流している噂にすぎません。同じことをやっている政治家はたくさんいると思われるのに、なんで今、小沢だけが狙われるか、なのです私が疑問に思うのは。
それに倫理的にいえば、金権政治はけしからんのであって、夏木さんに同感なのですが、法律で罪とならないものは、罪ではないのです。悔しくてもそれが法治国家というものです。
小沢の場合は政治家が4億円ももっているなんて、ということだけで、彼ほどのベテランが法律を抜け道にして金儲けをしたとバレるようなことをするはずがありません。
「なんとなく、けしからん」ばかりが先行しており、それだけをマスゴミが煽ってるのが露骨です。

以下もまた妨害されるかもしれませんが、
検察がなぜ法律で取り締まれない話をでっち上げるかを理解できる話なので、お送りします。

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[小沢一郎ネタ] 福島県前知事・佐藤栄佐久氏が語る?検察の暴走と恐怖

「知事は日本にとってよろしくない。抹殺する」
取り調べ中の検事の言葉です


「私の事件では、特捜部の過酷な取り調べによって、弟の会社の総務部長と私の支援者、そして東急建設の支店長2人が自殺を図りました。総務部長は一命を取り留めましたが、今も意識は戻らないまま。ベッドの上で男性の声を聞くと、検事の声を思い出すのか、険しい表情を浮かべ、顔を背けるのです。よほど取り調べがツラかったのでしょう……」

<東京地検に出頭した佐藤氏の後援会の幹部たちは「栄佐久氏の悪口を何でもいいから言ってくれ」「15分以内に言え」「想像でいいから言え」「もう図は完成していて、変えられないんだ」と執拗に迫られたという。>

「いま『取り調べ可視化』が取り沙汰されていますが、検察の恫喝には抜け道がある。弟は拘置所に向かう車中で『中学生の娘が卒業するまで出さない』と脅されました。相手は今から取り調べを受ける検事ですよ。あまりに卑劣です」

<佐藤氏も約50日間に及んだ拘置中に精神的に追い込まれ、ほぼ全面的に供述してしまった。>

「逮捕後2日間は検事と怒鳴り合っていましたが、次第に『私が自供すれば支持者は解放される』『早く“火の粉”を消さなければ…』『検事に身を任せよう…』と思うようになったのです。私は“ストレイシープ(迷える羊)”になっていました」

<一方で検察は有利な証言をした人物を手厚くもてなすようだ。>

「検察に『私から“天の声”を聞いた』と証言した元県幹部は、私の事件に絡み、競争入札妨害罪で特捜部に逮捕されましたが、起訴を免れました。公判の過程では、この人物の口座に約3000万円の出所不明な入金記録があることが発覚。特捜部はこのカネの流れを取引材料に県幹部を締め上げ、“天の声”をデッチ上げたのではないかと思っています」

特捜部長の出世と引き換えに私は政治生命を絶たれ、4人が自殺を図った
<東大法卒、参院議員を経て知事5期。「改革派知事」として霞ヶ関と戦ってきた佐藤氏には、今の検察の動きこそ、「霞ヶ関官僚の行動原理の縮図」と映る>

「ダム建設や原子力行政と同じで、一度決めた方針を覆そうとしない。いかにムチャな方針だろうと、保身に走って突っ走ってしまう。完全に『経路依存症』に陥り、捜査そのものが自己目的化しています。検察の正義は国民にとっての正義であるべきなのに、国民不在の捜査が今も続いています。政権交代を選んだ国民の意思を踏みにじってまで、強引に小沢捜査を進める必要はあるのか。はなはだ疑問です」

<佐藤氏の事件については、「当時の大鶴基成特捜部長が『これができるかどうかで自分の出世が決まる』と息巻き、乗り気でない現場を怒鳴りつけていた」と報じられたものだ。>

「特捜部長の出世と引き換えに、私の政治生命は絶たれ、弟の会社は廃業し、100人以上の社員が路頭に迷うハメになった。今後、私の無実が証明できても自殺した人々は戻りません。検察と一体化したマスコミも共犯です。『知事は日本にとってよろしくない、抹殺する』。弟の取り調べ中に検事が吐き捨てた言葉です。事件の犠牲となった人を思う、その発言のあまりの軽さに驚かされます。強大な捜査権力は実に気まぐれで、特捜検事にとっての“おもちゃ”に過ぎないのです」

<佐藤氏の裁判は現在上告中だが、検察の強引な筋立てと捜査が、いかに多くの悲劇を招くか。
小沢事件を指揮する大鶴最高検検事と佐久間特捜部長は、肝に銘じておいた方がいい。>

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小沢捜査?何が目的で誰のためにやっているのか


検察の捜査を見ていると、つくづく、こう感じてしまう。とにかく、その執念のすさまじいこと。政権交代前から、執拗に小沢を追いかけ、まさしく、政治生命を抹殺しようとしているのが歴然だ。

ターゲットは小沢ひとり、それも狙い撃ちではないか。小沢が角栄のごとく、誰が見ても黒幕、巨悪であるのならば、それも分かる。しかし、政治団体が不動産を買うのはおかしいだとか、岩手ではゼネコンは小沢に逆らえないとか、“この程度”で巨悪か?

小沢がクリーンな政治家だとは言わないが、少なくとももっと露骨で、金に汚い政治家はゴマンといる。検察の捜査には大きな疑問符がつくのである。
(中略)

本来であれば、特捜部が暴走すれば、検事総長がストップをかける。しかし、樋渡利秋検事総長は赤レンガ組の法務官僚で捜査の現場経験がない。それが佐久間の暴走を許している。

「それと、誰が指示したわけではないが、霞ヶ関全体が検察を応援しているという側面もあるでしょうね。小沢幹事長の政治生命を潰せば、永田町は混乱する。政治が混乱すれば、役人の出番になる。そんなアウンの呼吸が検察を後押ししているのです」(政治ジャーナリスト・鈴木哲夫氏)

よこしまな野心や怨念、権力闘争。さまざまな側面が見え隠れするのだが、少なくともそこに正義はない。これが小沢捜査なのである。

(日刊ゲンダイ 2010/01/27掲載)

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デフレ大不況下で国民は苦しんでいるというのに、国会は予算そっちのけで政治とカネの問題に明け暮れているが、事態はそんな状況ではない。
検察の狂奔、暴走捜査のおかげで国民は殺されかけようとしている。

また、コメントによる情報提供を紹介します。

★週刊朝日、検察リーク認める!! (⇒2010/01/26 「日々坦々」)

★石川知裕議員逮捕は違法逮捕だった! (⇒2010/01/26 「トニー四角の穴を掘って叫ブログ」)

ということで「週間朝日 2/5号」を買ってみました。
ジャーナリスト魚住昭氏と郷原信郎元検事の対談記事の最後で、魚住氏はこう言っています。
<(小沢氏の)弁護士はおそらく公判対策上、小沢氏に説明するなって言っているんじゃないかな。説明したら、検察にその矛盾点を突かれますからね。
その事情はわかるんですけど、もうそんなことを言っている場合じゃない。検察と相討ちになるくらいの覚悟でやらないと、日本の政党政治がダメになってしまいますよ。
小沢氏が日本に真の議会制民主主義を根付かせるために働いてきたというのなら、多少向こう傷を負ってでも、その気持ちに殉じてほしい。>
“これはヒドイ!”というのが分かります。買う価値はあると思います。



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検察と小沢氏の問題で、私は間違って考えているらしい

2010年01月28日 | 政治問題
 検察の謀略に私が気づいていないとコメントを頂いている。確かに私は甘過ぎるらしい。私は国家権力は非常に危険で恐ろしい存在だとは思っているのだが、今回、小沢氏の何か庶民を馬鹿にしたようなやり方に目をくらまされた。これは言い訳になってしまいそうだが、小沢氏に目を奪われるとそうなってしまうのではないか。
 小沢氏対検察で、小沢氏の肩を持てば検察が悪くなる。検察の肩を持てば、小沢氏が悪くなる。我々は「正邪」の戦いだと思っている。まさか「正正」の戦いとも、「邪邪」の戦いとも思わない。本当は、私は「邪邪」の戦いで、「邪」の程度が大きいか小さいかの違いだと思っている。

 以前、当時の橋本首相に現金1億円を提供したとの話で、本人は知らぬ存ぜぬで通し、村岡長官が罪人になってしまった。この時、裁判長は村岡氏無罪の判決を下し、せめて今日一晩くらいはゆっくりと桜を楽しんで下さいと口頭で付言をした。その後またまた有罪となってしまった。
 この事件でも、多くの人々は1億円もの現金を知らぬはずが無い、と思った。今回はもっと多額の金だ。事務責任者に任せたから自分は全く知らない、との話は通らないと庶民は思う。だから小沢氏対検察の構図が正しく見えなくなる。人の善意を信じている庶民も少なくない事を考えれば、小沢氏のだんまりは判断を誤らせる危険があると思う。
 真実、公明正大だと言うのなら、堂々と詳細を公表すべきではないのか。政治資金には庶民の税金も入っている。我々の台所情況などは、個人であれ法人であれ、洗いざらい出す事になる。大金を使って「合法的」な節税方法を編み出す事など不可能だ。だから、思慮の浅い人間はざるのような脱税をして捕まっている。
 小沢氏のような立場の人ならどのような「合法的」な手段をも手にする事が可能だ。「合法」なのだから、何も躊躇する必要は無い。

 世の中の汚い仕組みをよく知らない人間を誤解させるような事をして、一体、何の得があると言うのだろうか。真実、小沢氏に何の後ろ暗い所が無いと分かれば、そんな事を突っついて小沢氏を陥れようとした検察に対する世間の非難はそれこそごうごうたる物になるはずだ。それほど我々は馬鹿じゃない。私は馬鹿だが、それほどの馬鹿ではない。
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政治資金の収支報告書を国会議員が見ないなんておかしい

2010年01月27日 | 政治問題
 鳩山氏も小沢氏も大臣達も、みなさん、信頼出来る人に任せているから報告書など見ないとおっしゃる。そして、その信頼出来る人がミスを犯したら、その責任はミスを犯した「信頼出来る人」に被せられる。それで良いのだろうか。信頼出来る、と判断したのは任せた議員である。結果としては信頼出来なかった訳で、それなら、信頼出来ると判断したのが間違いだった訳で、その責任は議員が取るしかないではないか。任せる、とはそうした事である。
 自分が出来ないから他人に任せる。しかしだからと言って、任せっぱなしで良いと言う事には絶対にならない。細かい事柄は任せるが、大本の所はしっかりと握っているはずだ。大本の所まで他人に握られてしまうようなドジな事を議員たる者がするとはとても思えない。そんなお人好しのタマじゃないんだから。一癖も二癖もあるような人間が議員になっているケースが圧倒的に多いんだから。

 それにしても国会での菅大臣の答弁には本当に頭に来たね。私は彼が好きだし,この人なら何かやってくれると期待している。それなのに、自民党の森まさこ議員が、「全大臣にお尋ねします。収支報告書を見ているかいないか」と質問したら、彼は何と「私は全大臣と言う名前ではない。ちゃんと菅と言う名前を持っている。だからそんな質問には答えられない」とぬけぬけと言ったのだ。
 馬鹿を言うもんじゃない。そんな形式的な事にこだわっているから、せっかくの民主党政権に対する失望感はますます高まってしまうのだ。自分の駄目な所をそうやってごまかそうとする所など、彼自身が暴いた旧厚生省の役人の腐敗と全く同じではないか。

 人の本質は本当に何気ない所に現れるものである。無防備な部分だから、何の対策もしていない。しかし、庶民はそうした部分に敏感に気付く。多くの人が本音で生きているからどうしたってそうなる。裏の世界とか難しい事を考えなくても、いや、そんな事はとても考えられないから、自分の分かる事だけで判断している。それについて誰も批判など出来ない。
 そうでしょう。そうした言うならば「無知で善良な」庶民によって議員は選ばれているのだから。我々は「無知で善良」であってはならない。悪い奴らが権力を持ってのさばっている世の中では、「善良」は通じない。奴等に立ち向かうためには「ずるく、悪く」なる必要がある。それは方便であって、悪い奴らが一掃されれば、我々は元の「善良」に戻ればいい。「ずるく、悪く」なるには知恵が要る。それは「無知」では出来ない。

 新聞もテレビも見なければ始まらない。でも見たそのままを信じてはいけない。こう書いているけど、こう言っているけど、本当かな、と思う必要がある。それは少しずつやって行けば、いつかは「習い性」になる。自分の都合の悪い事だけに疑いの目を向けるのではなく、都合の良い事にも、あるいは何の関係も無さそうな事にも目を向ける事で、そうした習慣は身に付くと思う。
 だから私は「騙されないために」と言う単行本一冊分の原稿を書いた。テレビは証拠が残らないので、新聞や書籍、辞書などの書いている事柄を対象にしている。我々は年中、そして至る所で騙されている。どこか世を憂える出版社が出してくれないかなあ。
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三権分立に本当になっているのだろうか

2010年01月25日 | 社会問題
 確か三権分立は小学校で習った。立法、司法、行政の三分野がそれぞれ独立している事だ。で、愚かな私は現在の政治での立法と行政の分立が出来ているのかがよく分からない。立法の府である国会議員の中から選ばれた人々が行政の府である政府を作るのだから、それが分立しているとは思えないのである。
 国会で与党の議員が多数であれば、政府の出した法案はいとも簡単に通ってしまう。それを分立とは言わないと私は思う。
 だから、分立しているのであれば、選挙で選ばれた政党人ではなく、政府は政党色など払拭して、真実、国民のための政治に邁進すべきだろうと、思っている。

 そして、司法。これは人の生殺与奪の権を持っている。菅家さんはその権力によって辛い日々を過ごさなければならなかった。あの時点では有罪と決めるのに間違いは無かった、などと言われても、現実に間違いだったのだから、責任者はきちんと謝るべきである。いい加減だった証拠が、その当時はいい加減ではなかった、などと言ってもそれは通らない。人の運命はもちろんの事、命までも左右する決定なのだから、慎重過ぎて悪い事はない。念には念を入れ、だからこそ、疑わしきは罰せずの不文律がある。
 それを自分達の捜査に絶対の自信を持ってしまった。裁判所は自らは捜査も何もしないくせに、安易にその結論に乗った。菅家さんが検察官に「絶対に許さない」と言うのは当然なのだ。
 取り調べでの録音テープが再生されたと言う。しかしテレビでは全く別の人間が吹き替えているし、新聞では要旨だけしか伝えない。そんな物で微妙なやりとりが解明されるはずも無い。そうした情報を与えられると、かえっておかしな判断をしてしまう。まるで菅家さんが犯人のようにさえ聞こえる。取り調べは長い期間に渡って行われただろう。そのほんの一部だけを取り出して公開するのは非常に危険である。テレビも新聞もそんな危険な事を平気で、と言うか考えもなくやっているように思える。

 で、話は変わるのだが、小沢事件に関して、司法は堂々とその職責を果たして当然だろう。菅家さんに加えた司法の卑怯さは、現在のような国民の注目の的となっている情況では、当然ながら発揮出来ない。だから正々堂々と振る舞うしか無い。三権分立なのだから、立法府も行政府も変な横車を押す事は出来ないはずだ。
 そして、きちんとそれぞれが任務を果たしているかを採点するのが我々国民なのだ。

●話は違うが、この所ブログが書けていない。知人の居る会社に原稿を持ち込んで、どこか良い出版社を紹介してもらえないだろうか、と頼んだ所(この世界はコネが物を言う。コネが無ければ顔が無いのも同じ)、前向きに対処してくれている。だから私としても原稿の書き直しなどに夢中になる。時間がいくら有っても足りない。そして自慢げな言い方になるが、書き直せば、自分自身、あれっ、と思えるような出来映えになっている。
 以前の原稿が未熟だったとも言えるが、それだけ進歩しているのだとも思える。それくらい自信を持たなきゃ、やって行けない。
 それで、ブログの毎日の更新は出来ないかも知れないが、心を込めて書きたいと思っている。と、言い訳をしております。
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安心して歩けない歩道

2010年01月22日 | 暮らし
 新聞に投書があった。歩道が凸凹していて安全に歩けないと。歩道は車道より一段高くなっている。しかし家々の車の出入りのために、家の前だけくぼんでいる。それに気が付かずに歩いていると、ガクン、と足にショックを受ける。私は何度もそうした目に遭っている。いつも通っている道でさえ、ついうっかりほかに気を取られていて足下がおろそかになって、ガクン。怖いし危ない。
 前々から思っているのだが、なんで歩道だけ一段高くしなければならないのか。今はたいてい歩道と車道との境には柵が出来ている。車が乗り入れて来る心配は要らない。だから車道と歩道を同じ高さにして、間に柵を設ければそれで済む。段差が無いから、柵を植え込む場所にも苦労はせずに済む。現在は段差があるために、車道から10センチとか入り込んだ所に柵を作る。その分だけ歩道は有効面積が狭くなる。馬鹿げている。ただでさえ狭い歩道なのに、更に狭くしてどうなると言うのか。

 自分の家の前が低くなって、車道との出入りがスムーズに出来るのを好むのは分かる。しかし車の出入りは一日に何度もある訳じゃない。しかしその歩道を歩く人は何百人にも達していて、中には私のように一日に数回も歩く人間もいる。どちらを優先すぺきかは簡単に分かる。
 これはまた別の話だが、歩道は補修とかガスや水道の工事の後,何であんなに継ぎはぎだらけのままにしておくのか。車道はもっときれいに舗装し直しているぞ。多分、車からは税金が取れるが、歩行者から税金が取れないのが理由なのだろう。

 道一つ歩くのにこんなにも難関がある。政治家は多分、移動には送り迎えの車を使っているから、歩行者の悩みや苦しみなんてとんと分からないに違いない。だからこそ私は思う。金持でぬくぬくと育ってしまったような連中に政治をやらせてはいけないのだ。だが、選挙運動にもカネが掛かる。余程の有名人でない限り、カネを使わない限り当選は難しい。だから、裕福な人間ばかりが当選して、政治家のための政治になってしまっている。
 私がこんな事を言うと、小沢は正しい,検察は民主党を潰そうとしているのだ、と言う人々が居るが,4億円もの大金を知らぬ存ぜぬで通るとは庶民は思ってはいない。
 道の話から小沢問題にまで発展してしまったが、これこそ現在の日本の抱えている大問題なのだと思う。我々の身近な所にまで変な思惑と金儲けが入り込んでいるのである。
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世の中みんなどこか似ている

2010年01月21日 | 社会問題
 今、日本の古代史に関する疑問の原稿を書いている。同時進行で万葉集の解釈の原稿を書いている。同じく同時進行で日本語の表記の原稿を書いている。いずれもほとんど完成している。私にとっては「本」と呼びたい存在だが、悲しい事に現在は「原稿」に過ぎない。
 古代史では、昔から常識では考えられないような論理が展開している。例えば、卑弥呼は大和朝廷の神功皇后である、倭の五王は武王を雄略天皇とする大和朝廷の五人の天皇である、隋に朝貢した多利思比孤は聖徳太子である、などなど。
 いずれも無理無謀な論理の展開をしてやっとの事でそうした結論に達している。我々を騙すために、検証の途中部分を省いてしまう。こうと決まっているんだから、文句を言わずに従え、と言う態度である。なぜそうなるのか。学者は師匠の考えには逆らえないからである。逆らえば抹殺される。それでは生きて行けない。仕方が無いから,渋々従っている内に、自分でもそうだと思い込んでしまう。かわいそうに。

 そこに突然、新しい事を言い出す人が現れる。おお、これは素晴らしいと見ていると、何と、とんでもない新説を打ち出すのである。従来のおかしな論理の上に乗って、新しい事を言っているに過ぎない。基礎にしている論理が従来の物だから、新しい事が言える訳が無い。
 ほかの事でも同じである。私の研究している日本語の表記では、従来の考えに盲従している。こちらも飯の食い上げになるらしい。そうだろう、慣用として通用している表記に逆らえば,編集長からは怒られるし、フリーの立場なら、まず、仕事は来なくなるだろう。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の世界なのである。

 政治の世界がそうだ。今までずっと自民党の独裁政権でやって来た。そして今回民主党の政権になった。我々は、おお、やっと新しい政治が開かれるのか、と期待して見守っている。官庁の仕事の仕切り作業など、その最たる物だ。
 ところが、相も変わらず、やれ利権だの献金だのとの話の花盛り。新しい事を打ち出しても、その根底にあるのが古くさい利権構造であれば、何をか言わんや。
 学問の世界なら、古い学閥の体制を一度ぶっ壊す必要がある。そこから新鮮な学者を輩出する必要がある。それと同じく、古い政界の体質をぶっ壊す。どなたか、自民党をぶっ壊すなどとかっこいい事をほざいて、我々を騙し、尻つぼみに終わった。
 民主党は元はと言えば自由党と同じ仲間である。そこから分かれて、一体どれほどの新鮮な党に生まれ変われると言うのか。確かに、そこには新しい流れも入って来てはいる。いるが、それは基礎の部分ではない。何事も基礎が物を言う。
 世間のみんなは、それこそ常識で、自分の生きて来た筋道で、今回の騒動を見ている。人よりも日の目を見る事の多い立場に居るからと言って慢心していれば、絶対に足下が崩れる。それは検察も民主党もマスコミもすべて同じ。
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