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光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 永観律師に帰依し奉ります。

理の一念三千と事の一念三千

2012-05-26 07:10:41 | 日蓮・富士門流
 白隠禅師に「遠羅天釜」と云う絶妙の著書がある。これを読むに禅宗で得られる悟りも法華経の真意と変わらないことがよく分かる。この著書の中で白隠さんは法華宗の尼さんにお題目を讃嘆して、日常生活の中ででも声を出さずとも唱え続けて行きなさいと指導しています。とどのつまり、お題目も禅定と共通しているものがあると看破していたんですね。法華経と云う経典は釈尊が随自意で説かれた仏法の奥義を表わしているとされています。法華経が説く教理はまさに人間の営みそのものです。哲学者の梅原猛さんが、「地獄の思想」で平家物語が天台の教理に基づいて構成されているとした説を挙げているが、ご説御尤もと云う感じですね。人間界の盛衰・様々な心理の変動は天台教理で云う一念三千そのものです。

 他の経典での修業方法・観法は人為的でありますが、法華経はもろに人間の本当の姿を見つめさせようとしています。遠羅天釜には明遍僧正が体験した弘法大師の霊験も載っています。曰く「西方の一方を指すは方便なり。九域を簡して乱心を止む。畢命を期として名を称せば、心眼即開の大益を得ん」。高野山の明遍僧正は念仏三昧に余念がなかったんですが、お前さんがやっている西方浄土のみ志向する瞑想修業は間違ってるよ。菩薩から地獄の九界の心相を如実に感じて心を制御するんだよ。とお大師さんが言ったと云うんですね。これはまさに摩訶止観もどきの教理指導ではありませんか。

 本当の観法とは諸法実相なんですね。それでなくては人間がこの世に生まれて生活する中で修業する意味がありません。おそらくは実生活の中にこそ禅定があるんでしょうね。そう考えると釈尊が悟りを開いた淵源がヨーガなんで、世間一般人が行う就労や行動が禅定に直結しているわけでもないんでしょうけど。釈尊が菩提樹のもとで悟った瞑想法は諸法実相観と考えられます。所謂、理の一念三千法門です。この観法を成就するための淵源が何か?大聖人さんが苦悩して探し求めたのはこれです。それが事の一念三千で、具体的には三大秘法と呼ばれています。それならそれは何処に記されて、どういうものなのか?

 正味、これが具体的に経文を引用して解説して書かれている書はホント少ないですね。馬鹿のひとつ覚えみたいに「三大秘法の南無妙法蓮華経だ!」ばかり書いてあるんで益々分からないです(笑)。断片的に書かれているんですね、事の一念三千の真意は。しかも昔の法華僧侶が書いているんで解釈するのに難渋します。比喩的にそれを示唆する経典文証は法華経如来神力品です。ぱーっと読んだだけでは全く分かりません。例えば神力品に「南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏」って唱える箇所がありますよね。これは口唱唱題を表わしています。唱題は立派な観法なんです。ここで示されている釈尊は久遠実成釈尊です。所謂、妙法蓮華経体なんですね。(南無)釈迦牟尼仏ーこれを妙法蓮華経に替えると、南無妙法蓮華経となります。なんかこじつけの説明みたいですが。・・・

 本門八品の御本尊は久遠の釈尊に主人公が変わっています。しかも本尊の形体が神力品では具体的に示されています。ただ肝心の寿量法体を除いて。・・・仏陀になると云うことは法体と同じ境地に至ると云うことです。法体とは諸法実相、妙法蓮華経体ですから仏像では示せないわけです。神力品では虚空で声を聞いた仏陀に帰依する諸々の衆生たちが、娑婆世界に向って「南無釈迦牟尼仏」と唱えたのは凡即仏の意味と法体が御本尊であることを示唆します。久遠実成釈尊の仏像作成は殆んどなされていません。比喩的な意味合いを含んでこれに一番近いものは比叡山根本中堂にある薬師如来がそれです。法華八巻を置き、或いは仏像の体内に経文を入れて法華経に説かれている久遠仏、霊験を示そうと意図する計らいはあるが、もろに法体を示した御本尊はありませんでした。

 神力品の解釈の続きですが、娑婆世界と云うのは現実の世界です。般若心経で云う色即是空の「色」=「物質」の世界です。仏陀の信者さんらが娑婆世界に向って念仏したと云う意味は、観念・イマジネーションでの観法ではない観法の存在を示唆しています。所謂「理」ではない「事」=「物質」「目に見えるもの」「現実にある空間」です。事の一念三千とは瞑想を主体とする観法ではなく、目に見える・音が聞こえる等五感に訴えかける観法なのではないでしょうか?また仏の座というものも「色」=「物質」で表し観心を容易ならしめる本尊・戒壇も示唆しています。法華経には大聖人さんが主張した三大秘法を末法に行いなさい、何てことはハッキリと書いていません。しかし、意味合いとして三大秘法の教理に等しいことが比喩的に説かれています。

 法華経には仏に縁することが仏道成就の基であることが方便品にはっきりと明記されています。なのに法華教理の否定は一切の仏種を断つと経文に述べられています。これは取りも直さず仏法とは法華教理そのものであると云うことに他なりません。禅宗で云う悟りを開いたは六即で云う観行即の位に当たります。概ね日蓮系教団で云う法華信徒とは事の一念三千を信じ、信仰として取り入れる信者さんを指します。この信者さんの位を一念信解名字の位と云います。この位こそが人をして観行即、牽いては仏陀に至る淵源であるとしています。大きな目で見ると漸次的なんですね。阿頼耶識に浸透させて薫習後の悟道を期す考えです。他宗派はいきなり観行即や霊験を期待します。所謂頓悟派です。

 ここではどれが優れているか?それを述べるのは止めますが、法華経には頓悟ばかりではなく漸次的に仏道成就を説く箇所があり、末法衆生の機根に合わせた観法を大聖人さんが経典から解釈して世間に流布したんですね。「理」は「事」を体得・経験して実践可能です。例えば人生の苦悩を体験して人の痛みが分かるのと同じです。ヘレン・ケラーはサリバン先生からウオーターの意味が分かるまで砂を噛む日々でした。意味が分かってからの彼女の学習理解は驚くほど進歩して行きました。仏道もこれと同じです。大聖人さんは末法衆生は機根も揃わない仏教徒が増えることを予期して正道を示されました。「理」の前には必ず「事」の修業が必要なのです。

 御本尊の中心に南無妙法蓮華経と書いてありますが、この五字・七字が既に法界を顕しており本尊の意義が込められています。中心のお題目の左右に釈迦・多宝如来が書かれており境智冥合を顕します。漢字字体がすでに漢字の意味合いを通り越して、仏画・仏像と同じく観法の役割を果たします。御本尊に向かう時「妙法」の部分に視線を集中するのが一般的ですが、一幅の曼荼羅に書き加えられた数々の仏・聖者・神は、人が信仰対象とする段階で仏と同等の意味合いを持つことになります。ここに戒壇の意味合いが生じて来るんですね。神力品に法華経がどこにあってもそこに仏がいると書いているのは戒壇を意味します。日蓮義で大切なのはこの信仰と付随して下種仏法の学習を行うことや折伏と称する化他行など「事」の実践を尊びます。

 折伏の化他行は常不軽菩薩品に比喩的に説かれています。ただ他宗は六即で云えば観行即から化他行を実践するのに対して、大聖人さんの教義は名字即から化他行を行います。法華経の本文からは観行の位から相似の位に進む内容になっているんで、この辺りは日蓮義の他宗とは違う大きな特徴です。何故化他行をしないといけないかと云うと、自分ばかりの修業だと行位が進まないと云うことが説かれているからです。大智度論で過去世に於いて阿難と釈尊はその始め同等の行位だったのが、阿難は聞法好きで釈尊は実践好きだった。ために未来にはこれ程の大きな差になったと云う箇所があります。仏法は自行化他の両方が必要のようですね。

 S学会、K会、M講など化他行と称して会員勧誘、選挙応援、無償での就労に等しい行為をマインドコントロール的な手法で信者に刷りこみ、人をオモチャにするのが得意ですからこの点注意が必要ですよ(笑)。まあ、僕から云わせれば宗教の大半はそうですけどね。法華系の宗教団体に限らず、例えばT教も黒い法被を着せられて床掃除に余念がありませんしね。



 
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今の日本仏教 (茉莉花)
2012-05-26 22:32:25
こんばんは。
今の日本仏教では、『死んだら皆極楽に逝って成仏する』という考え方が強い様です。地獄や輪廻すらも否定して居る様です。
智山の僧侶が言うには、『日本人は先祖供養だけを求めて居るのであって、釈尊や仏法、宗派の教えは求めて居ない』だそう。
挙句の果てには、『日本仏教は葬式仏教で良いのだ。それこそが日本の仏教なのだ』と開き直る始末。
私としては、『おい!!ちょっと待てや!!』と言いたくなりました。
随分とご都合主義な仏教思想に呆れて空いた口が塞がりません。
輪廻の否定は仏法の否定に等しい。悪い事をすれば、裁かれなくてはならない事は当たり前。
日本人の嫌な部分を見た気がしてなりません。『死んだら皆極楽で成仏。地獄は無い。地獄はあってはならない』という身勝手な仏教解釈にも程があります。
死に行く人、その家族には、その言葉は耳触りは良いかもしれませんが、だからといって、日本人の勝手な都合で仏教を捻じ曲げて良い訳がありません。
私はそんなぬるま湯な仏教を断じて認める訳にはいきません。人間は甘やかせば駄目になる事は当然の流れ。時には厳しくしなければなりません。
あの世の思想で見れば、地獄を否定することは、甘やかすに等しい。
地獄というのが在るからこそ、人は良くなろうと努力するのです。輪廻とて同じ。輪廻を脱する為に人は努力する。
誠の仏教者ならば、地獄の否定、輪廻の否定はあってはならず、ぬるま湯につかってないで、頭をシャキッとすべきです。常に精進然るべし。
私はこの先の日本の仏教が心配でなりません。
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末法の僧侶 (探玄)
2012-05-27 13:29:31
こんにちは、茉莉花さん。久々ですね。私もブログのカキコは久しぶりですが。・・・今日は日本ダービーなので朝から馬券を買いに行き、先程家に帰って来たばかりです。

>地獄や輪廻すらも否定して居る様です。
僧侶たちのこの現象と云うか、考え方の波及は30年前からと聞きます。私が耳にしたのは真言宗僧侶、それも学生が多かったですね。

>智山の僧侶が

智積院を本山とする真言宗智山派(新義)の僧侶のことですよね。

>『日本人は先祖供養だけを求めて居るのであって、釈尊や仏法、宗派の教えは求めて居ない』

智山の禿人・売僧が戯言を(笑)・・・

>挙句の果てには、『日本仏教は葬式仏教で良いのだ。それこそが日本の仏教なのだ』と開き直る始末。

私はホント神に願います。こんな禿人は早く死ねと。

以前、水上勉氏の原作で映画化もされた「白蛇抄」があります。ご覧になったことはありますか?水上氏は坊さんの世界に詳しいんですけど、僧侶らの世界も娑婆と同じく、色と欲の世界であることを表現しています。そうでなければ水上氏のような道心を持つ賢者が僧侶になっていない訳がありませんからね。
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本当に (茉莉花)
2012-05-27 18:12:19
仏教を愚弄するのもいい加減にして頂きたいものです。
日本人は、昔からなし崩しが大好きな国民の様で困ります。仏教迄なし崩しにするのはどうかしてます。
第一、真言宗は即身成仏を説く宗派である筈。なのに、あの世での成仏を願うとは真言宗の恥です。お大師様の顔に泥を塗るつもりでしょうか。これでは、真言宗の名が廃れます。誠にお大師様の教えを尊ぶのであらば、そんな頓珍漢な台詞が出るわけがない。私は在俗の身であれども、本来の真言宗の在るべき姿は護り通します。
お世話になっている真言宗寺院にはその事を訴えて行くつもりです。
兎に角、仏法は生きて居る者に説いてこそ価値のあるもの。そのことを仏教者たる者は心得なくてはならないでしょう。
余談ですが、昨日、ブックオフにて、法華三部経なるものを買いました。
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道心の賜物 (探玄)
2012-05-27 21:08:59
>真言宗は即身成仏を説く宗派である筈。なのに、あの世での成仏を願うとは真言宗の恥です。お大師様の顔に泥を塗るつもりでしょうか。

ホント、その通りだと思います。真言では覚鑁上人が念仏を取り入れましたが、浄土門のように他力本願を願う思想ではなかったはずです。霊験のあるなしに関わらず、真言門は浄土で云う聖道門であるべき法門です。

>余談ですが、昨日、ブックオフにて、法華三部経なるものを買いました。

法華経に関心を持たれた由、誠に尊いことと存じます。
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法華経 (茉莉花)
2012-05-28 20:18:29
こんばんは。法華経に関しては、前々から興味があり、この本を購入する前にも、『法華経要品』を購入して読んでいました。
こちらは、抜粋の形ですが、法華経というのはどういうものかというのは大体掴めます。ただ、ルビの振りが古いので、読誦するには難しいです(^_^;)
今回購入したこの本は、読誦し易い感じのルビ振りで、尚且つ三部経全て全文で入っていますので、非常に都合良かったです(^^)
読誦用に編集するのにも良い資料になります。
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日蓮聖人の御真意 (三千具足)
2012-06-03 01:28:52
ご無沙汰しております。

ROM専と言っておきながら、今回のエントリの素晴らしさにコメントせずにはいられなくなりました。改めて、探玄様の博識さと深い洞察力に感服いたします。

私は日蓮宗寺院の檀家で、加藤清正公や波木井実長公と縁続きの者ゆえ日蓮義には強いシンパシーを感じているのですが、正直、理・事の一念三千については具体的にどう解釈したら良いか迷っておりました。

>「三大秘法の南無妙法蓮華経だ!」ばかり書いてあるんで益々分からないです(笑)

本当にその通りです(笑)
昔、立正佼成会の創設者である庭野日敬氏が、日蓮宗の偉い僧侶と会って話を聞いたところ、とにかくお題目は有り難いんだから、それを唱えていればいいんだという話ばかりなので疑問を感じ、日蓮宗の傘下に入らなかったというエピソードがありますが、事の一念三千ーお題目についてきちんと解説している人や本は少ないですね。

今回のエントリを拝見し、読経・唱題にも更に力が入りそうです。有り難うございました。
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大聖人さんの凄さ (探玄)
2012-06-03 13:56:39
三千具足さん、こんにちは。

大聖人さんほど世間で誤解されている宗祖はいないと思います。2ちゃんねるの天台スレを読むと宗祖のことをボロクソに書いています。内容的にまあ、我々日蓮信徒も反省させられるべき点はありますけどね。

天台の学者に尋ねても大聖人さんの三秘を掻い摘んで解説してくれる方はいませんでした(中にはいてるのかも知れませんけどね)。日蓮系でも僕の浅はかな見識ですが、やはり興門(かなりヤバイ教理・偽書の類もありますが)・隆門の教理が一番纏まっていると感じています。

御本尊は漢字で書かれているんですが、豈はからんや漢字にも観心の対象足り得るんです。おまけに御本尊には何重にも如来・諸尊を描いて法体たる意義を持たせています。富士の伝承では日興上人が弟子入りしたきっかけは、大聖人さんの摩訶止観の講義を聞き、その素晴らしい内容に感銘したからだと窺ったことがあります。

例えば上古の富士門流の僧侶らも恐らく僕達と同じ様な疑問・疑いを持ったんでしょう。再度天台教学を見直し、殊にその核心部分を中古天台に求め、その理論の正否を確認したと考えられる書物があります(日眼上人)。ホント、日蓮義は難しいです。
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