私(自我)が居ると認識しているかぎり安心はできませんね。
つまり私(自我)は不安の塊りであるのです。
そもそも、不安とか安心などこの世には“無い”のです。
しかし私(思考)は、“無い”ものを「在る」とする
ものですから苦悩が生じるのです。
当たり前のことですが“無いものは無い”のです。(笑)
それで私(思考)は、このことがわからないから安心を創り、
不安を創って迷いの中へ入っていくのですね。
このブログを読むときは、「なるほどな~」と一瞬わかる
のですが、物を見たらあるいは音を聞いたら幻想世界へと
入っていくのです。
例えば、子猫を見たら「かわいい」となるのです。
そして「カア~、カア~」と、音を聞いたら鴉と認識する
ので、一瞬のうちに思考に繋がるということです。
幼少の頃は、そう簡単に繋がらなかったのですが、長年の
繰り返しにより「思考癖」が完璧に付いたのです。
それが“無い”ものを「在る」とするようになったのです。
当たり前の“無いものは無い”は、「思考癖」が無いという
状態と言えるのです。
ですから「思考癖」を溶かしていくには、“只なる実践”の
持続が必要です。
つまり私(自我)は不安の塊りであるのです。
そもそも、不安とか安心などこの世には“無い”のです。
しかし私(思考)は、“無い”ものを「在る」とする
ものですから苦悩が生じるのです。
当たり前のことですが“無いものは無い”のです。(笑)
それで私(思考)は、このことがわからないから安心を創り、
不安を創って迷いの中へ入っていくのですね。
このブログを読むときは、「なるほどな~」と一瞬わかる
のですが、物を見たらあるいは音を聞いたら幻想世界へと
入っていくのです。
例えば、子猫を見たら「かわいい」となるのです。
そして「カア~、カア~」と、音を聞いたら鴉と認識する
ので、一瞬のうちに思考に繋がるということです。
幼少の頃は、そう簡単に繋がらなかったのですが、長年の
繰り返しにより「思考癖」が完璧に付いたのです。
それが“無い”ものを「在る」とするようになったのです。
当たり前の“無いものは無い”は、「思考癖」が無いという
状態と言えるのです。
ですから「思考癖」を溶かしていくには、“只なる実践”の
持続が必要です。