心配、迷い、不安、苦悩、恐れることはどうにも
ならないのですから、綺麗サッパリと忘れることです。
厳密に言うと、事実にはそんなもの“無い”からです。
“無い”ものを「在る」とする私(自我) から、操られて
いるのですね。
それは、おわかりのとおり「幻想」ということです。
事実の瞬間なる“喜・怒・哀・楽”そのものが、尾を
引いて様々な物語が模様されているのが人生ですね。
ですが生きている、死んでいるも“無い”のが
“真の自分”で、個でない全体の“ひとつ”ということです。
このことは私(思考)を使ったら、「何のこと言っているのやら」
になるのですが、思考世界と離れる“只なる実践”を
持続されている方でしたら直ぐわかるでしょう。
繰り返し述べていますが、思考世界は「何でも在り」の
創作する幻想ということです。
例えば、「地球」と言えば瞬時に丸いものが浮かぶのです。
そして次々と「地球」に関するものを創作し、さも
事実であるが如くにするのです。
『じゃ、それを持って来て見せてくれ!』になると、
「お前アホか?」になるのです。(笑)
私(思考)もわかっているのですが、「幻想」を見せることは
出来ないのですね。 (笑)
ですから一旦、頭の中を“空っぽ”にリセットして、
その位置から物事を“只、眺める”のです。
只とは思考無く!ということです。
“只、見る!”ことを “体得”すると、それが
“只、眺めている”存在の“真の自分”です。
弛まぬ“只なる実践”の持続は、偽の自分から一刻も
早く抜け出し、本来の“真の自分”に還る道です。
ならないのですから、綺麗サッパリと忘れることです。
厳密に言うと、事実にはそんなもの“無い”からです。
“無い”ものを「在る」とする私(自我) から、操られて
いるのですね。
それは、おわかりのとおり「幻想」ということです。
事実の瞬間なる“喜・怒・哀・楽”そのものが、尾を
引いて様々な物語が模様されているのが人生ですね。
ですが生きている、死んでいるも“無い”のが
“真の自分”で、個でない全体の“ひとつ”ということです。
このことは私(思考)を使ったら、「何のこと言っているのやら」
になるのですが、思考世界と離れる“只なる実践”を
持続されている方でしたら直ぐわかるでしょう。
繰り返し述べていますが、思考世界は「何でも在り」の
創作する幻想ということです。
例えば、「地球」と言えば瞬時に丸いものが浮かぶのです。
そして次々と「地球」に関するものを創作し、さも
事実であるが如くにするのです。
『じゃ、それを持って来て見せてくれ!』になると、
「お前アホか?」になるのです。(笑)
私(思考)もわかっているのですが、「幻想」を見せることは
出来ないのですね。 (笑)
ですから一旦、頭の中を“空っぽ”にリセットして、
その位置から物事を“只、眺める”のです。
只とは思考無く!ということです。
“只、見る!”ことを “体得”すると、それが
“只、眺めている”存在の“真の自分”です。
弛まぬ“只なる実践”の持続は、偽の自分から一刻も
早く抜け出し、本来の“真の自分”に還る道です。