只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

明るい暗い性格などは本来にありません。

2018-04-30 08:52:56 | 日記
心配、迷い、不安、苦悩、恐れることはどうにも
ならないのですから、綺麗サッパリと忘れることです。

厳密に言うと、事実にはそんなもの“無い”からです。

“無い”ものを「在る」とする私(自我) から、操られて
いるのですね。

それは、おわかりのとおり「幻想」ということです。

事実の瞬間なる“喜・怒・哀・楽”そのものが、尾を
引いて様々な物語が模様されているのが人生ですね。

ですが生きている、死んでいるも“無い”のが
“真の自分”で、個でない全体の“ひとつ”ということです。

このことは私(思考)を使ったら、「何のこと言っているのやら」
になるのですが、思考世界と離れる“只なる実践”を
持続されている方でしたら直ぐわかるでしょう。

繰り返し述べていますが、思考世界は「何でも在り」の
創作する幻想ということです。

例えば、「地球」と言えば瞬時に丸いものが浮かぶのです。
そして次々と「地球」に関するものを創作し、さも
事実であるが如くにするのです。

『じゃ、それを持って来て見せてくれ!』になると、
「お前アホか?」になるのです。(笑) 
 
私(思考)もわかっているのですが、「幻想」を見せることは
出来ないのですね。 (笑)
 
ですから一旦、頭の中を“空っぽ”にリセットして、
その位置から物事を“只、眺める”のです。

只とは思考無く!ということです。

只、見る!”ことを “体得”すると、それが
“只、眺めている”存在の“真の自分”です


弛まぬ“只なる実践”の持続は、偽の自分から一刻も
早く抜け出し、本来の“真の自分”に還る道です。



今日も種から育ったレタスを山畑に植え替えます。

2018-04-29 08:48:26 | 日記
私(自我)は、思い考えて答えを出すのですね。

つまり問題が無いから、問題を創りそれを解決しようと
努力するのです。(笑)

これを正に「無駄な努力」というのですね。

では、なぜこんなことをするのか??
ということですが、幻想である私(自我)は自分であり
続けたいからです。

それはそれでいいのですが、私(思考)が姿かたちの無い
幻想であることを知っておかなければ、
永遠に苦悩になってくるのです。

既に、このことを約2600年前にお釈迦様が苦行の末
解明され、多くの人々を導き救っておられます。

正し、それはお釈迦様と言えども明くまで“教え”で
あって、そのものに取り組みなさいと仰っているのです。

それはここで言う、空から浮かんで来る念を掴まないこと
かも知れません。

とにかく、幻想である私(自我)は言葉と思考が命です。

ですから、言葉と思考を頭の中から削ぎ落としたら
一巻の終わりです。

繰り返し述べていますが、生きている以上その時その場の
想念の付いて無い、必要な言葉と思考はあるのですね。

“只なる実践”を持続して行って、他人となんら
変ることなどありませんが、ただ肝心な内面が
穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地になることには
間違いありません。



今朝も早くからお客様が訪れます、あり難いことです。

2018-04-28 09:54:50 | 日記
「思考癖」は、私としている自我の癖ということです。

自我の癖は、頭の中で自分勝手に動き回り苦悩に
なってくるのです。

本来は純粋無垢と言われ、汚れの無い“綺麗な真水”に
例えられています。

その“綺麗な真水”の中に、汚れのひとつでも入れば
純粋な水ではなくなってしまうわけですね。

同じく、純粋な頭の中は自我なるものは無いのですが、
その「思考癖」が入ると迷いになって来るのです。

『思考』は人生上での大切な道具です。
また『食事』も、身体には必要なものです。

どちらとも生きている以上、欠かすことの出来ないものです。

『思考』は、使い終われば忘れて置けばいいのであって、
必要なときは瞬時に活動するのです。

『食事』も、お腹が空いたときに戴くものであって、
年から年中勝手に食べているものではありません。

しかし「思考癖」は、頭の中で年から年中自分勝手に
苦悩を創り回り迷っているのです。

ですから心というものは、それに翻弄されて苦しんで
いるのです。

一刻も早く助けを待っているのが実情ですが、如何せん
「思考自我」がそれを覆い隠してわからないように
しているのです。

只なる実践”の持続は、自分勝手に動き回って悩みを
創る「思考自我」を捨て去り、完全なる支配下に置く
ことです。

それにより、穏やかな安らぎのある“絶対安心”境地が
訪れるのです。

瞬間、瞬間その時その場しかありません。

2018-04-27 09:25:50 | 日記
我見は、私(思考) の創作です。

そもそも私(自我)が居なければ、我見というものは
ありませんね。

ですから我見は問題を創る元なんです。

私(自我)が存在していると思うから、私に問題が
起こるのです。

ご承知のとおり事実には、私(思考)というものは
姿かたちというものはどこにもありません。

しかし姿かたち無いものが、この自分を支配していること
には間違いありません。

このことを説明するために、あらゆる方向性を使って
いるのです。

でもこれには限界があり無理ということですから、
”が必要ということです。

それが、空から浮かんだ念に取り付かない“只なる実践”の持続です。

これにより、「思い込み」という幻想に操られて、
少しの楽と多くの苦悩を創りだしていることが
わかります。

そして様々なものを創り出して 一喜一憂していることも
わかってくるのです。

存在しない私や僕等を創作し、さも事実であるが如く
にしているのもわかってきます。

ですからそれらの思いをすべて捨て去り、事実の“今”
に還って、穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地で
過ごすのです。

時折、浮かび上がって来る雑念も、一瞬で切り捨てる
“実践”の持続です。

はやる心を落ち着かせるのです。

2018-04-26 09:49:11 | 日記
家庭で、各種類の野菜の種から苗作りをしています。

苗が生えて来れば、狭いですが山畑に植え替えて
育てています。

何事でも一緒ですが、土を耕し、種をまき、水をやり、
太陽が降り注いでやっと芽(結果)が出てくるのです。

ですから実践したつもりの思い考えは、頭の中から
放り出し“只、やる!”のです。
 
そして“やったこと”は、結果として現れるのです。

それは思考の目に見えるものではなく、“心眼”に
はっきりと映るのです。

それが繰り返し述べています通り、
穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地です。


話は変りますが、テレビの画面に写っているニュース等は
幻想で、頭脳が事実として創作しているのです。

事実はテレビの画面です。

でもほとんどの方が、事実と妄想が滅茶苦茶になっていて、
それをまず見極めることはないのですね。

なぜなら頭脳が思考を使うから、事実と幻想の区別がつかないのです。

“只なる実践”の持続は、事実と幻想を見極めるために
“行”っているのです。

つまり、思考を使わなければそのまま事実ですから、
本来のそこに還ればいいのです。

野菜作りも自然に沿って、この身体も心も自然に沿って
流れて行くのが“大自然界”ということでしょう。