只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

山での自然薯畑作りは大変ですが、嬉しさも同居しています。笑

2017-01-31 10:52:34 | 日記

嘘か本当か…おわかりになっているとは存じますが、
そんなもの事実にはありません。

「それが無かったら無茶苦茶になるよ~」と言われますね。
その通りで、この世界は正しい見方で瞬間、瞬間
やっていかないと間違いが起こります。

この“正しい見方”とは、正しい間違いを超えた
自己の無い見方です。

私が、私の、私は、私に等が無い見方です。
それを“心眼・真の眼”での見方とも言えますね。

心眼・真の眼”という“”を体得すると
絶対安心”の境地になります。

「おい、おい嘘を言うなよ・・」と言いたくも
なると思いますが、“実践”をやり続けない限り
永遠にわからないことです。

繰り返し述べますが、今での頭脳での理解とは
まったく違いますから、そこを掴まないと
体得できません。

頭脳はいち早く幻想しますから、この頭の中で勝手に
妄想する「思考癖」を落とすため
弛まぬ“只なる実践”の継続ということです。




只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


只管をしっかり錬ることの大切さを言うているのです。
 この事は口では言えないし、言葉では伝えられないし、
 知性では獲得できないものです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
只を守る、只の中に居る、思考癖を入れない、
これを表現することは出来ても、事実は“これそのもの
ですからそこには知性は“無い”のです。

こう言っても「思考癖」が在る限り、
無い”は永遠に受け付けないのですね。(笑)

生きるが在る、死ぬが在るという「思考癖」が在る限り、
それに心が動き回る構図になっているのです。

それが“只、観れる”ようになってくるようになると、
穏やかな安らかな気分になってきます。

ぜひともそこまで還り着いてください。

このブログは考えないで只、目を通し“只、実践”です。

2017-01-30 08:26:53 | 日記

このブログは覚える必要はまったくありません
“実践”の継続ですべてわかるようになってくるのです。

それは、わかるわからないを超えた“体得”によるものです。
簡単に言えば“自己を忘じる”ということです。

”であり“”である心身一体になれば、
すべてが“ひとつ”ということがわかります。

これらの事は、私(思考)から導きだされたものでは
ありません。

おわかりになっているとは存じますが、私(思考)から
生み出されるものはどこまで行っても幻想だからです。

”の境地になって初めて、私(思考)には図り知れない
ものが現れるのです。

そのための弛まぬ“只なる実践”の継続です。

繰り返し述べていますが、その願望だけでは
頭の中で勝手に妄想する「思考癖」ですから、
到底無理ということです。

ですから“実践”するしかないのですね。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


これが禅定であり只管です。これを何処までも錬ることにより
 真箇に徹する時節が来るのです。
 これを軽く見るために開けが来ないのです。
 神秀上座のあの偈を、五祖大満弘忍禅師が、
 「これは素晴らしい頌だ。この通りすれば大きな功徳が有るぞ」と
 誉めたのは、まさにこの事です
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
禅定であり只管とは“”ということです。
空から浮かんだ念に取り付かないのです。

これをどこまでも“只、やる!”しかないのです。
多くの方が勘違いされるのは、“只、やる!”ことが
無意味だからです。

「無意味ならやっても無駄」と、やらない前から
この様に「思考癖」からやられるからです。
意味ある、理屈ある世界が幻想とわからないからです。

ですから、“只なる実践”をやり続けることによって
真実”が明かになってきます。

月日は流れている様に感じますが、事実は“今”しかありません。

2017-01-29 09:45:11 | 日記

例えば、“”というものは“今の心”とも言えます。

空から浮かんで来る“今の心”で、
”そのものです。

ですから、いやば“喜怒哀楽”を体験するために
この世に居るとも言えるでしょうね。

喜怒哀楽”の喜びは、喜んでその時その場で
終るのです。
怒りは怒ってその時その場で終るのです。
哀しみは哀しんでその時その場で終るのです。
楽しみは楽しんでその時その場で終るのです。

別の見方をしますと、喜びは喜んでいる感じで
喜びは“無い”のです。
怒りは怒っている感じで怒りは“無い”のです。
哀しみは哀しんでいる感じで哀しみは“無い”のです。
楽しみは楽しんでいる感じで楽しみは“無い”のです。

人間の表現で、その様に“感じる”ということで
何も無い”ということです。

ですから“今の心”のまま、“喜怒哀楽”のまま
人生を過ごして行きましょう。

そこにイチャモン付けるのが幻想の
「思考自我」ですから、それを落とすため
弛まぬ“只なる実践”の継続です。




只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


自然の様子とは、観念も概念も無く、イメージも言葉も
 感情も無い世界と言うことです。道元禅師の言われた、
[心意識の運転をやめ、念想観の測量をやめ]たところのことです。
 つまり念の無い念、心のない心。
 謂わばからっとした虚の様子が手にはいると言うことです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
頭の中で勝手に妄想する「思考する癖」が、
無いところが観念も概念も無く、イメージも言葉も
感情も無い世界と言うことです…と仰っています。

つまり“”しかない!ということですね。
この様に同じことを繰り返し言うようですが、
”という“真実”を覆い隠す「思考する癖」が
ある限り、苦悩になる世界ということです。

「テレビで流れているニュースは事実だ!」と
している限り、“テレビはテレビ”ということが
わかりません。

それを打ち砕くための“只なる実践”です。


会社の駐車場で小鳥が遊んでいるのでエサをあげています。笑

2017-01-28 08:14:14 | 日記

”に居るとは呼吸を見守るということです。
それは事実の“”に居るということです。

また、空から浮かんで来る念を掴まないことです。
この“実践”を継続していると、思考する癖が
弱体化していくのです。

とにかく本来を覆い隠しているのが、
頭の中で勝手に妄想する強力な「思考癖」ですから、
何としても綺麗サッパリと落とすことが
重要ですね。

そして“”が感じ取られるのは、「思考癖」が
”を覆い隠していないからです。

覆い隠していなければ、自然の様子が生き生きと
感じ取られるようになりますね。
それが“お気楽人生”ということです。

ですから、いろんな事の幻想を綺麗サッパリと
忘れ去ることです。

また幻想が浮き上がって来ないように、
弛まぬ“只なる実践”の継続です。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


朝から晩まで間断なく行じておる内に、
 やがて呼吸と親しくなってきます。
 呼吸を見守り切る力が付いてきますから、
 元もと自然である呼吸の様子が分かってきます
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
元もと自然である呼吸、風、雨、植物、海、山、
その他のすべてのものは同じです。

ですから本来は“ひとつ”とも言われるのです。
“実践”を通じてそのように“感じられる”のです。

ある時、そよ風が吹いてホホにあたり
感じられる”のと一緒ということです。

また、その“感じられる”ものが、間違いとか正解とかは
ありません。
そこには思考も言葉もイメージも“何も無い”からですね。

それに戯言を付けるのが「思考する癖」です。
ですから「思考癖」を削り落とすのが
弛まぬ“只なる実践”の継続ということです。

「思考癖」が落ちたら事実の“”に目覚めるのです。
事実の“”には心配、不安、苦悩、恐れ等は
まったく無く“絶対安心”の境地です。

自然薯はまだ土の中に入っていますが、今年の準備をしています。

2017-01-27 07:09:19 | 日記

「アッ、失敗した!」と言っているのは
思考自我ですね。

本来には失敗も成功もありません。

持っていた物が、手からスルリーと抜け落ちたのは、
物が手から抜け落ちただけで他に意味はありません。

しかし、そこに言葉や意味が付いてくるから
問題となってくるのです。

例えば宝クジ券を買うという衝動が起きてきます。
これは何も無いところから衝動が起きてくるのですね。
いやば体験が起きてくるということです。

そして、宝クジが当たったは当たったです。
それは「当たった」という体験が起きてくるのです。

そこで思考自我が現れてきて「やったぞ!最高!」」と
喜ぶのです。(笑)

また、宝クジが外れたは外れたです。
そこで思考自我が現れてきて
「クソ!また外れた、悔しい!」と嘆き悲しむのです。(笑)

嘆き悲しむぐらいなら買わなければいいのです。(爆笑)

じゃ“真の自分”はどこにいるんだ?ですが、
いつもここに居て意識無く“只、観ている”存在なのです。

ですから意識無かったら、“真の自分”は“”であり
”であり“神仏”そのものです。

“実践”、“実践”その弛まぬ“只なる実践”の継続で
明かになってきます。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


先ずは真剣に一呼吸に没頭することです。
 如何に雑念や煩悩が猛く出ていても、形振り構わず
 がむしゃらに一呼吸に専念することです。これが遂行できればしめたものです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
“実践”の初めての頃は、頭の中が雑念や思考癖で
一呼吸に没頭することができません。

ですが“今、やる!”しかありません。
この一呼吸が「思考癖」を弱体化させる
”だからです。

初めての頃はこの一呼吸に没頭できなくても、
継続してやっていれば一呼吸に慣れてくるのです。

一呼吸に慣れて没頭できるようになると
「思考癖」は消え去ります。

癖が消え去ったら、この世は今しかありませんから
”に目覚めるのです。

ですから、空から浮かんで来る念に取り付かない
実践”の継続です。