只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

焦らず、慌てず、しっかり地に着いて歩きます。

2017-05-22 09:52:50 | 日記

只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

この「隔たり」に拠って自我が発生するからだ。
 すると精神は取り留めもなく浮遊し、目的とは関係のない
 事柄に翻弄される。何に翻弄されるのかと言えば、
 大抵は自己満足の為の要求であり、見る物聞く物、
 感情に踊らされての妄念が殆どである。だからその様に
 させるなと言うのだ。けれども雑念に振り回されて自己を見失しなう
 大きな心の癖がしっかり付いてしまっているのが普通である
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
この「隔たり」とは、眼には見えませんが心と身体が
離れたということです。

つまり思考した瞬間から、偽りの自分というものが
発生したということです。

これを有りもしない「思考・自我」と言っているのです。

これは嘘でも本当でもありませんから何と表現しても
いいのですね。

「隔たり」はすべて過去から来ていて、無い未来から
来るということはありません。

1秒後、昨日、50年前、過去生、1万年前から
来ているのです。

また、これも嘘でも本当でもありませんから
どう捉えようと構いませんね。

思いは「太陽」と来れば瞬間に幻想出来ます。
「幼少の頃」と来れば瞬間に幻想出来ます。

話は変りますが、野菜の極小の種から、その種の
野菜が出来ます。決して栗が出来るということはありません。

栗の木から栗がなり、これは何時頃からかというと
栗と言う物質が発生したときからです。

何千年前か、それはわかりませんが、現在まで種が
引き継がれてきたということです。

人間も同じですね。
人間の誕生もおおよそ1000万前とも幻想されています。

これも永遠と種が引き継がれてきたということです。

ですが人間は脳も有り、永遠と引き継がれ成長してきた中に、
「汚れ」も混じってきたのですね。

この「汚れ」が、本来“ひとつ”だったものが
心と身が離れた考える癖です。

つまり、頭の中で勝手に妄想する「思考癖」で、
「思考癖」が無ければすべては自然と“ひとつ”で
何も無いのですね。

本来の“純粋意識”に還るべく、コツコツと弛まぬ
只なる実践”の持続です。

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