只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

爽やかな、のんびりした天気です。

2017-02-19 09:28:40 | 日記
大宰府天満宮の梅の花が見所でしたね。





私(思考)は姿形の無い、例えば解説者です。

そして、在ること無いことを都合よく
自分勝手に想像したり喋ったりします。
また人の言った事に、肯定したり否定したりします。

それに腹が立ったり、怒ったり、恨んだり、
感謝したり、嬉しかったり、それはそれは様々に
するのですね。

これが「人間模様よ~」と言って、はぐらかすのが
自分に成りきっている、私と言う「思考自我」です。(笑)

それは、すべての人の中に居るものです。

ですから、人間社会には「思考」が無ければ
人との交流もできません。

それ以外は必要無いとも言えますね。
「思考」を使うときは使い、必要ない時は忘れて置くと
いうことです。

必要ない時は忘れて置くとは“今、そこ”に“只、いる”ということです。
つまり“心身一体”の身体にお任せして
生きていくということです。

が、しかしどうしようもない「思考癖」が、
その空間に忍び寄って頭の中を占有して
しまうから厄介なのですね。

ですから、この「思考癖」を極小にするのが
只なる実践”の継続ということです。




只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


見ることも聞くことも自分も知らないことです。
 これが本当に見ていることであり聞くことです。
 自分と言うことも知らないとは、何時もその物自体に
 なっていて万物と「隔たり」が無いことです。
 一切問題が起こらないことです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
「隔たり」とは、身体は今の事実にいるが
心が今の事実にいないということです。

つまり脳が思考している状態であり、
身体と心が分離(遊離)しているということです。

本来は身体と心が“ひとつ”ですから問題が起こらないのです。

この世は、身体がここに間違いなくあるのです。
それに誰ひとりとして、心があちこちにある人はいません。

でも「思考癖」がある限り、心が必ず連れ出されるのですね。
ですから、お解り通り「思考癖」を落とせば、
身体と心が“ひとつ”に成りお気楽な人生となるのです。


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