頭の中の世界はそのままでいいのですが、取り付くと
のちのち苦悩になってくることが厄介ですね。
空から浮かんで来る今の心に、「なんだろう」と
即飛び付くから問題になってくるのです。
浮かんだものを観ないということは出来ませんので、
“見て見ない”という“只、見る!”ことを、行ずるのが
“只なる実践”の持続です。
つまり観たものを“脳に繋がない!”ということです。
「そんなこと出来る訳がない」と私(思考)は即言いますが、
その通りでやってもいないのに出来る訳がありません。(笑)
ですから“只、やる!”持続が目覚めを呼び起こすのです。
でも、私(思考)は同じ事を“只、やる!”のを一番
嫌がるのです。
そして早くやってスッキリ解決したがるのですが、
それは土台無理ということですね。
私(思考)が何も出来ないということを知らないからです。
事実、鉛筆1本も動かすことも出来ません。
「出来た!」というのは、私(思考)のすべて「後付け」
だからです。
ですから、思い考えは姿かたち無く「幻想」です。
この「幻想」が、事実の“今”をわからなくして、
面白くも悲しくも悩ましくも様々にしているのですね。
とにかく、私(自我)と遠く離れば離れるほど“お気楽”になってきます。
“只、やる!”ことで、真実の“今”が実現します。
のちのち苦悩になってくることが厄介ですね。
空から浮かんで来る今の心に、「なんだろう」と
即飛び付くから問題になってくるのです。
浮かんだものを観ないということは出来ませんので、
“見て見ない”という“只、見る!”ことを、行ずるのが
“只なる実践”の持続です。
つまり観たものを“脳に繋がない!”ということです。
「そんなこと出来る訳がない」と私(思考)は即言いますが、
その通りでやってもいないのに出来る訳がありません。(笑)
ですから“只、やる!”持続が目覚めを呼び起こすのです。
でも、私(思考)は同じ事を“只、やる!”のを一番
嫌がるのです。
そして早くやってスッキリ解決したがるのですが、
それは土台無理ということですね。
私(思考)が何も出来ないということを知らないからです。
事実、鉛筆1本も動かすことも出来ません。
「出来た!」というのは、私(思考)のすべて「後付け」
だからです。
ですから、思い考えは姿かたち無く「幻想」です。
この「幻想」が、事実の“今”をわからなくして、
面白くも悲しくも悩ましくも様々にしているのですね。
とにかく、私(自我)と遠く離れば離れるほど“お気楽”になってきます。
“只、やる!”ことで、真実の“今”が実現します。