只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

ニュースがいろいろと賑やかにさせます、瞬間の出来事で流れていきます。

2016-10-26 09:46:42 | 日記
今朝ほど一部収穫した長ネギです。
私は玉ネギと思って栽培していました。笑




【雀は稲刈りした田んぼに餌を求めてやってきます。
 遠くで畑仕事されている人も、この雀と同じく只に見えるのです。
 それが思考も意味も無く只、眺めている“真の自分”です。】


考え思う自我と自分を一体化しないでくださいね。
“真の自分”は純粋意識です。瞬間、瞬間を
“只、思考無く観ている”だけです。

繰り返しですが、知ろうとし分かろうとするのが、
心の動く癖であり自我であるのです。

“本来の自分”は、すべてが純粋意識であるのですから、
言葉を変えて言うと“只、ひとつ”です。
ですから知りたいとか、分かりたいなどとする必要はまったくありません。

“真の自分”はどこだ?どこにいる?と探し回るのは、
思考自我で探す必要はまったくありません。
どこを探してもそんな人いないのです。笑

例えば宇宙いっぱい探しても、初めから宇宙そのものですから
わからないのです。
“真の自分”は、姿や形は無く存在ある“純粋意識”であるのです。

自分というものがどこかに存在しているのでしょうか。
また、心というものがどこにあるのかと言われると返答に困りますね。

この世を体験している“仮の姿”と言えばよろしいでしょうね。
執着心、嫉妬心、心配、大らかな心、暖かい心、無心
分別心、帰心、喜心など、姿・形の無いものがあります。

しかしお分かりの通り、別に自分や心というものが
あるわけではありません。
「でも自分には身体があります…が?」と言われるのは、
思考が認識している姿です。

無思考であれば“真実”で“純粋意識”で“真の自分”
という“ひとつ”ということです。

残念ながら目に見えず“無い”と分からない為に、
別に有ると思って探し求めるのですね。

“無い”ものを常に探すことが問題となるのです。・
この染み付いた思考癖を取り外すことは簡単ではありません。
目に見えない思考癖が“真実”を覆いかぶしているから厄介ですね。

でもそれを“只、打ち破る”のが“只なる実践”です。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


  『無自性空ですから、だから何時でも戦争は起こるけれども、
    実体がないので何時でも瞬時に止められるのです。
  要するに心得次第と言うことであり、修養の必要性は此処にあるのです。
 人間の生活上、国民として社会生活するとなると、責任も義務も発生します。
     けれども個人的権利や人権も同時に発動します
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
前回にご説明したとおりですね。
善悪等は心得次第で消し去ることが出来るのです。

頭脳によって心が動かなければ
善いとか悪いはありません。

この人間が社会生活するためには、
自己中心的な生き方では様々な問題が起こるため、
排他的な自己中心を越える精神修養の必要性があるのです。

それが“只なる実践”という 精神修養ですので、
本来に目覚めるため頑張ってください。