長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

第6章 イスラエルのためのよき知らせ(その2)

2016-09-12 18:02:52 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第6章 イスラエルのためのよき知らせ

【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)

本章と次章は、義認論とも関わってくる部分で、それだけに自然、注意深く読み進むことになりました。本章についての検討は、他の章に比べて何倍も長くなってしまいました。いくつかのポイントに整理してコメントしてみます。


1.本章の文脈

本章と次章が義認論との関わりを深く持つとは言え、この本の中でこれらの章だけを抜き出して論じることは当然できないわけで、この本全体の論旨文脈との関わりにも目を配りながら読む必要があります。

まず、本章(6章)は前章(5章)と対になっている章です。「異教徒たちのためのよき知らせ」「イスラエルのためのよき知らせ」というタイトルから、それは明らかです。ただ、前章では、パウロの福音提示がどのように異教徒に対するメッセージとなっているのかというテーマについて、かなり幅広く網羅的に扱っているように見えるのに対して、本章では、「神の義」というフレーズに絞り込んだ内容になっていて、その点はアンバランスを覚えます。但し、これまでの諸章(2‐4章)で、ユダヤ教的文脈の中にパウロの福音理解を位置づけるということは繰り返し書かれてきていますので、パウロの福音理解がどのように「イスラエルのためのよき知らせ」なのか、本章全体を読めば十分把握できるようになっているとは思います。

続く次章(7章)は、「義認と教会」というタイトルで、いよいよパウロの義認論を本格的に扱う章となります。この前に置かれた本章(6章)は、次章に対する序章のような役割を果たしているように思います。すなわち、「義とする」「義」といった言葉から、パウロの「義認」用語理解の問題全般を扱う前に、「神の義」(dikaiosune theou)というフレーズを取り上げ、その意味内容を検討し、従来の受け取り方とは異なる観方を提示します。そして、それは、単に義認論のごく一部の用語上の問題と言うよりは、義認論を検討するための神学的文脈を形作るものとして、このフレーズを取り上げていると見ることができそうです。


2.契約・法廷・終末論

「神の義」というフレーズの意味解釈に深いかかわりを持つ三つの概念として、ライトは、契約、法廷、終末論という三つの概念を提示します。

この内、「契約」は、このフレーズが持つユダヤ教的文脈を最も表わす概念と言えそうですが、文章量からすればかなり簡単な扱いとなっています。ライトにとっては最も基本的な視点を提供する部分なだけに、もう少し詳しい釈義的な解説を望みたいところです。たとえば、イザヤ書40-55章の中では、42:6、21、45:13、そして特に51:5-8あたりが、「契約」との関わりを深く持つとみなされうる箇所ですが、それらの箇所についての具体的言及はありません。また、続いて挙げられているダニエル9章も、神の「義」についての言及は9:7一か所だけのように思えます。(民を「義」とする神のご計画については記されていますが。9:24。)これに対して、神との関わりで「義」が言及される旧約聖書の箇所は、イザヤ書以外にも沢山あるわけですが、それらは、後に出て来る一覧表の中で言えば、A1bだけでなく、A1aの意味で受け取れる箇所も多いように思います。その中で、特に「契約」との関わりが深い用法が、パウロの「神の義」のフレーズの背景にあることを示すには、もう少し説明があってもよいように思いました。

他方、ライトは、「神の義」フレーズの理解のためにもう一つ大切な要素として、「義」が法廷用語であることを示します。文章量としてはこの部分がかなり長くなっています。ライトは、この用法が比喩的な用法であることを示すと共に、ユダヤ人の一般的な裁判のあり方を背景に考えると、裁判官が義であるということと、原告及び被告が義であるということとの間に、質的相違があることを指摘します。この部分で、いわゆる転嫁(Inputaiton)説に対する否定的な言及がなされていることについては、議論の進め方として疑問の余地があると思いました(98頁)。法廷シーンを考えるとき、裁判官が義であるということと、原告や被告が義であるということとの間には、質的な相違があるということは言うまでもないことですが、この議論は、その後で出て来る選択肢でA1を選んだ場合に当てはまる議論だということに留意する必要があると思います。転嫁説の場合、「神の」の属格を起源の属格として捉えるわけですから(B1)、そもそも神ご自身の義について考えているわけではないことになりますので、ここでの義は、最初から原告または被告の「義」についての言及であるはずです。ただ、他の理由でA1を選択した場合には、基本的に転嫁説には行き着かないはずだ、という指摘としては受け入れることができるかと思います。

最後に挙げられる終末論的要素は、上記二つの要素の結合を考えた場合の、論理上自然な帰結として付加されるべきものとして示されています。


3.8つの選択肢

「神の義」フレーズの意味を考える上で、大きく言って4つ、細かく言えば8つの選択肢があるとの指摘は、議論を整理する上で大変貴重なものだと思います。

保守的な理解で主流なのは、B1aですが、神学の歴史の中ではB1bの理解もしばしば現われ、両者間での議論は色々な場面で繰り返されてきたと思います。しかしながら、その議論は、「神の義」に関わる議論のほんの一部にしか過ぎないことが分かります。この選択肢の表は、「これしかない」と考えている人に対して、選択肢の幅に気づかせる役割を果たしていると見ることもできます。ただ、それにとどまらず、多種多様な議論の存在に触れ、選択肢の多さに戸惑っている人に対しては、議論を整理し、理解するためにも大変役立ちます。

たとえば、この表を見れば、そのような多くの選択肢が、いずれも文法的には成立可能なものであるということにも気づかされます。どの選択肢を選ぶかという問題は、各箇所の文脈をどのように考えるかという問題になる、ということが分かります。ライト自身は、「一覧の下半分(B)は長い間ポピュラーであったにもかかわらず、パウロが引用したり、ほのめかしたりする多くの聖書個所を含むユダヤ的証拠の圧倒的比重によって、我々は一覧の上半分(A)に決定的に押し込められる。」(103頁)と言い、文脈からは決定的に(A)が選択されると言います。

以下、ライトが挙げる「神の義」フレーズ、あるいはその関連個所について、文法面と共に、特に文脈の確認を中心にしながら、検討してみます。


4.ピリピ3:9

「重要なことは、ここで鍵となるフレーズは、'dikaiosune theou'(神の義)ではなく、'dikaiosune ek theou'(神からの義)である。」(104頁)という指摘は、議論を混乱させないために、まず踏まえるべき大切な点だと思います。ライトは、この点を踏まえながら、ここでの「神からの義」は確かに「神からの義なる立場」であるが、他の箇所に見られる「神の義」の意味解釈とは独立して考えるべきだと示唆します。

この箇所の前後関係を含めた釈義的検討は、次章の検討の中で扱います。


5.第二コリント5:21

パウロの手紙に8回現われる「神の義」の内、ローマ書以外に記された唯一のものがこの箇所です。この箇所についての議論を理解するために、まず基本的に押さえておくべきことは、ある日本語訳で「神の義を得る」(新共同訳)と訳されているこの箇所は、直訳的には「神の義となる」(口語訳、新改訳)と訳される、という点でしょう。おそらく、新共同訳は、この箇所をB1のように理解した上で、「神の義となる」では分かりにくいという理由で、「神の義を得る」と訳したのではないかと思います。

さて、ライトは、この箇所での「神の義」を理解するために、3章以降の大きな文脈に注目します。すなわち、パウロはこれら一連の箇所で自らの使徒としての働きについて語っていますが、それは、3章で「新しい契約に仕える」務めであると言っています(3:6)。そのような彼の使徒としての務めは、苦しみや艱難に満ちたものですが(4:8、17、5:2)、ライトはそのような使徒としてのパウロの受苦を、「神の契約上の誠実さの受肉」(104-105頁)と表現します。パウロが使徒としての働きの中で数々の苦しみを引き受けることは、神が民と結ばれた契約を誠実に守ろうとして、自らに苦しみを引き受ける姿を、パウロ自身に受肉させた姿だ、ということでしょう。「いつもイエスの死をこの身に負うている」といった表現は、そのような理解も可能であることを思わせます(4:10)。そうした文脈を踏まえつつ、「神の義となる」という表現は、「神の契約上の誠実さを体言する者となる」といった意味合いで了解可能となる、という主張のようです。

このような理解は、言われてみるまでは考えもしない解釈でありながら、言われてみれば、成程と思わせる説得力のある理解で、とりわけライトらしさが現われている部分と言えるかもしれません。ただ、ここでのライトの文脈分析は、大きな文脈の把握という面では確かにその通りだと思うのですが、問題の箇所の直近の文脈を考えてみても、本当にそのように理解するのがよいのか、私としては疑問が残りました。つまり、21節の前半とのつながりをどう考えるのか、という問題です。

21節
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。
それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(口語訳)

「神の義となる」という表現は、単独では何を意味するのか測りかねる表現です。ライトは、上記のような文脈理解を踏まえて、「神の契約上の誠実さを体現する者となる」と理解しました。しかし、その文脈の中で、それでは21節前半をどう理解するのか、その文脈の中にどう位置づけるのかについては言及されていません。

そこで、直近の文脈を確認してみますと、その前の18-19節は、明らかにパウロの使徒としての務めについて語っており、特に「和解の務め」、すなわち、「和解の福音」を語る務めについて書かれています。これを受け、20節では、その「和解の福音」の中身である、神との和解への招きが書かれます。ここでの内容は、パウロの使徒としての務めから、その務めの中心である福音の中身に移っています。これを受けての21節ですから、この節は、福音の中身に関わる事柄として理解することができます。そういった直近の文脈を考えれば、この節が「神の和解」の根拠について記していると考えることは自然と言えます。

そう考えた場合、もう一つ注目すべきは、21節の前半と後半が対になっていることです。「わたしたちが・・・神の義となる」という表現も不思議な表現ですが、「罪を知らないかたを罪とされた」という表現も同様に不思議な表現です。もちろん、これは「神の和解」の根拠となるキリストの贖いのみわざへの言及と見ることができます。そのみわざは、「私たちの罪のために」なされたものであり、その贖いのみわざが意味するところが「罪を知らないかたを罪とする」という衝撃的な表現で言い表されています。この前半の衝撃的表現に呼応する形で、21節後半が記されています。すなわち、キリストの贖いのみわざの目的、結果が、21節前半に記された出来事と対になる形で、「私たちが(彼にあって)神の義となる」という表現で言い表されます。

このように文脈を理解するならば、ここでの「神の義」は、B1aで理解する他ないだろうと思います。すなわち、21節前半では、罪を知らない方、キリストが「罪とされ」ました。これは、十字架の死の出来事の中で、神が「罪なき方」キリストを「罪ある者」とみなしたことを意味するでしょう。その結果、(罪ある)「私たちが」「罪なき者」としての立場を得ることを意味するでしょう。そしてそのことは、神がキリストを「罪とされた」ことに対応するが故に、「私たちが神の義となる」という表現が採られていると考えることができます。

ライトは、「しかし、もしあなたが第二コリント5:21を一覧の下半分―多分、B1a(転嫁された義)―の意味で受け取ろうと主張するなら、あたかもパウロがおまけとしてここに投げ入れただけの小さな漂う物言いであるかのように、その節を章の残りの部分と文脈から切り離すのを見い出すであろう。」(105頁)と言うのですが、私としては、「パウロは自分に与えられた和解の福音を告げる務めについて語りながら、どうしてもその福音の中核にあるキリストの贖いの驚異的内容と、その結果について語らずにはおれなかった」というように読めます。逆に、ライトが言うように「神の義」をA1bまたはA2aで理解した場合、21節の前半と後半とのつながりはどうなるのだろうと思います。この点については、ライトのその他の文献などに当たるしかないことですが、どなたかご存知の方があれば教えて頂ければと思います。


6.ローマ人への手紙

いよいよローマ人への手紙です。この手紙の中には、dikaiosune theou(または明らかに同一と見られるフレーズ)が7回現れます(1:17、3:5、21、22、25、26、10:3(2回))。ライトは、1:17は、導入的であるがゆえにあいまいさがあって、続く内容によって明らかにされる必要があるとして、3章、10章の当該箇所の検討を先にし、最後に1:17を扱います。論旨としては、それぞれの文脈が明らかに契約を神が守られるかどうかを扱うものであり、従って、これらの「神の義」は、いずれも「神の契約的誠実」を意味することを主張します。確かに、ローマ3章あるいは10章での前後関係を見ると、神の契約に関わる文脈を見て取ることは可能であり、その意味では、ライトの主張は相当な説得力を持つものと受け止められます。

なお、これらの箇所についてのライトの議論は、主として大きな文脈を確認する点に主眼が置かれており、細かい釈義的説明はほとんどなされていません。従って、そういった面での細かい議論をしようとすれば、本書以外のライトの著作(ローマ書註解書等)に当たっていく必要があると思います。従って、ここでは、ライト自身の釈義についての検討を仔細に進めていくことはできません。

ただ、ここで扱われている議論は、義認論にも深く関わる部分であり、私自身としても長らく全く違った読み方をしてきた箇所でもあります。ライトのここでの議論を踏まえた上で、これらの「神の義」フレーズを釈義的にどう理解することができるのか、改めて検討を試みたいと思います。

(1)概論

まず、ローマ人への手紙に現れる7か所の「神の義」フレーズ全体について、概論的にいくつかの点を指摘してみたいと思います。

○B1の可能性を示唆する文脈の存在について

特に、3章、10章の該当箇所については、確かにA1b、すなわち「契約」についての文脈の存在を見てとることは可能かと思います。しかし、同時に、B1(特にB1a)についての文脈の存在を見てとることも十分可能なのではないか、と思います。詳細は、各箇所の検討のところで扱いたいと思いますが、1:17、3:21、22、26、10:3において可能だと思います。逆に、文脈から「神の契約的誠実誠実」との意味を議論の余地なく見いだせるのは、3:5くらいではないかと思います。あとの箇所は多かれ少なかれ、B1の意味に受け取る方が妥当だと思わせる前後の文脈を見てとることが可能であり、同時に見てとれる「契約」に関わる文脈の存在を考慮するとしたとしても、少なくとも議論の余地はあるということが言えそうです。

○「神の義」「義」というフレーズ、用語が選ばれた理由について

ライトの主張によれば、ローマ人への手紙に現われる7か所の「神の義」フレーズのすべてが、「神の契約的誠実」という意味に受け取れるということです。しかし、そうだとすれば、どうしてパウロは、aletheiaといった、誤解の余地のない用語を選ばなかったのかという疑問が生じます。上記文脈の問題とも関わることですが、3章にしても10章にしても、「義とする」(dikaio)という動詞が使われており、これは明らかに神が人を義とするということ、すなわち、神が人に与えられる義について語るものです。そういった前後関係の中で、「神の義」というフレーズを使えば、起源の属格としての「神の」と理解されかねない(実際これまで多くの注解者がそう理解してきました)ことを承知の上で、なぜこの言葉を使い続けたのか、という疑問が残ります。

○7か所の「神の義」がそれぞれ少しずつ異なる意味合いで使われながら、有機的な連関を持つフレーズとして使われた可能性について

しかしながら、7か所の「神の義」フレーズの中には、ライトが主張するように、「神の誠実」といった意味で理解する以外にはないように思われる個所もあります(3:5)。従って、「神の義」フレーズの全箇所がB1の意味で受け取れるわけではないことは明らかです。逆に、ライトが主張するように、全箇所が「神の契約的誠実」として受け取ることは、上記b.のような疑問を生じさせます。7か所の「神の義」フレーズすべてを同一の意味合いで受け取る可能性が示唆されたことは、ローマ書理解(第二コリントを含めれば、パウロ解釈)の歴史の中で大きなインパクトを持つことは確かなことですが、私としては、それぞれの箇所において異なった意味合いを持ったり、重層的な意味合いを持ったりという可能性を追求してみたいと思います。但し、そうでありながらそれらの箇所で同じ「神の義」というフレーズが使われたことには、それなりの理由があったはずです。パウロは、ローマ人への手紙以外では、第二コリントで一度使っただけなのですから、彼がこの手紙を書く上で、「神の義」というフレーズに何らかの統一的メッセージを託した可能性は大きいとも思います。

(2)1:17

ライトは、この箇所の導入的性質を考慮し、3章以降の用例の検討を先にし、この箇所の検討を最後に持ってきています。しかし、普通の手紙の読み方としては、最初から順番に読むことが普通である以上、その後の使われ方を考慮しつつも、まずは順番に読んできた場合に自然に受け取れる意味合いを考えていくことは釈義上必要なことではないかと思います。

そうすると、ここで最初に登場する「神の義」フレーズについて、読者は、文法的な面から考えれば、ライトが指摘する8つの理解の可能性のいずれもが可能なフレーズとして読むことになります。従って、直近の文脈が問題になります。「福音」がテーマになっていることは明らかです(1:1、2、15、16、17)。ライトは、この福音を「王なるイエスの、世界の主としての王的宣言」と理解します(109頁)。そして、「パウロにとって『福音』は個人的に、また非歴史的に『人がどのように救われるか』についてのメッセージではない。」(60頁)ということも繰り返し主張しています。しかし、私自身はパウロの福音理解から「人がどのように救われるか」という要素を締め出してしまうことには無理があると感じています。ローマ人への手紙を繰り返し読んでみても、やはりそのことは福音の主要テーマであると思います。ただ、「個人的な側面」「非歴史的側面」に限定することはできないと思いますが、「人がどのように救われるか」についてのメッセージを部分として含んでいるのではないか、というのが、今の私自身の暫定的な見解です(その3参照)。

ローマ1:16では、「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」(口語訳)とあります。ライトは次章でも「ローマ1:16、17は福音の内容ではなく、結果についての要約を与えるものである」と書いています(126頁)。これは、「福音は(中略)救を得させる神の力である」という言葉からの可能な理解ではあっても、不可避な理解というわけではないと思います。むしろ、福音は「信じる者すべてに、救いをもたらす」というメッセージを含んでいると理解することのほうが自然なのではないでしょうか。

続く17節に入ると、いよいよ「神の義」フレーズの登場です。このフレーズのためには、これまでにも注解者が多くの説明を残しています。その中で、C・K・バレットは、ユダヤ人としてのパウロの見方を考慮しているのが注目されます。「ユダヤ人として、旧約聖書に示唆されて、パウロは救いが義を前提とすることを知っている。神の側では、救いは神の義の働きである。神の義は単に神の属性とか、正しいという性質であるだけでなく、正しく行うことにおける、そして(いわば)正義が行なわれるのを見るということにおける神の行為でもある。従って、神の義は神の擁護をもたらす。擁護するのにふさわしい人々への擁護である。この神の義についての見解は、イザヤ書と詩篇における沢山の節で特別な明瞭さで導き出される(例:イザヤ45:21、51:5、詩篇24:5、31:1、98:2、143:11)。そこでは、義はほとんど救いの同義語であるように見える。神はご自身の義をご自身の民を解放することによって表わされる。」(C・K・バレット"The Epistle to the Romans- Revised Edition"1991、Hendrickson Publishers、30頁) バレットが引用するイザヤ書及び詩篇の各箇所では、多くの場合、どちらかと言えば神の義が救いの背景としてあるように思えますが、救いの結果、人に義が与えられるという約束も見い出されます(詩篇24:5)。16節で「救い」について言及されていることを考慮すると、バレットのここでの指摘は大切な点を突いているように思われます。

更にパウロは、「神の義」が「福音の中に」啓示されると言います。「福音」をユダヤ的背景から考えれば、確かに「神の義」は神の契約的誠実を意味すると考えることも可能です。1:2で、福音と旧約聖書の約束との関わりが指摘されていることからしても、そのような理解は十分成り立つものと思います。しかし、1:16で、福音と救いとの強い関連性が示唆されていることを踏まえ、更に、バレットが指摘しているような旧約聖書個所を考慮するなら、ここでの「神の義」と「救い」との関わりを考慮することもまた自然なことです。そして、旧約聖書での用法からは、「神の義」が救いの背景とされると同時に、救いの結果として人に「義」をもたらすとの理解も可能です。そう考えると、ここでの「神の義」を「神からの義」として理解する可能性も退けることはできないと思います。(但し、この段階では「救い」と「義」の内容については、極めてあいまいであるのも事実です。)

「神の義」について、更なる検討を加えるため、文脈確認の意味も込め、続く節の検討を先に進めます。

「神の義は福音の中に啓示される」という一文に続く、「エク・ピステオース・エイス・ピスティン」もまた、注解者によって様々に解釈されます。大きくは、ピスティスを「信仰」と理解するか、「真実(誠実)」と訳すかによって理解が分かれます。また、直訳的に訳せば、「神の義は福音の中に信仰(真実)から信仰(真実)へと啓示される」となり、「信仰」と理解しても、「真実」と理解しても、何らかの説明が必要な表現になっています。「信仰」と理解すれば、口語訳や新改訳のように、「神の義」が「信仰に始まり、信仰に至らせる」(口語訳)と比較的直訳に近い形で訳すか、新共同訳か新改訳別訳のように、「初めから終わりまで信仰を通して」(新共同訳)と意訳的に訳すか、ということになります。これに対して、ライトは次にように言い、「真実」との理解を採用しています。「福音は神ご自身の義、神の契約的誠実を啓示し、表わすとパウロは言う。それはイエス・キリストの真実(faithfulness)を通して働き、そして今度は真実な(faithful)すべての人々のために働く(faithからfaithへ)。」(109頁)

続く、17節後半のハバクク2:4の引用についても、注解者たちによる議論があります。例えば、「エク・ピステオース」が「義人(正しい人)」にかかるのか、「生きる」にかかるのかという点が議論となります。口語訳は前者、新改訳、新共同訳は後者で訳しています。ハバクク書自体での意味としては、「生きる」にかかると理解するのが自然のようですが、そうだとしても、パウロはその言葉を転用して、「義人」にかかるものとして提示しているという見方も不可能ではないと思います。たとえば、クランフィールドは、「義人にかかる」と結論づける一人ですが、そのように理解する根拠をいくつか挙げながら、その一つを次のように指摘しています。「それ(「義人」にかかるという選択肢)はこの手紙の構造に極めて適合している。1:28-4:25は「信仰による義人」の解説と言ってよいし、5:1-8:39は、信仰による義人が「生きる」という約束の解説だと言ってよい。」(Cranfield, "Romans-A Shorter Commentary" Eerdmans,1985,p24)1:1-17の序論的性格を考えると、ハバクク書の引用が本文全体の構成を凝縮した形で用いられているという見方はとても魅力的です。

ここまでの文脈確認からは、「神の義」フレーズの理解において、ライトのような理解も一つの理解として成立可能とは思いますが、従来のような「神からの義」としての受け止め方も妥当と思わせるいくつもの要素のあることが分かります。私としては、パウロが多様な意味合いを含み持つこのフレーズを選んだことには、それなりの理由があるのであるのであって、いずれかの意味に限定して受け取ることは、パウロの意図に背くのではないかと考えます。

ここで、更に見ておきたいのは、1:18との関連です。1:17で手紙の序論的部分が終わりますが、「神の義」フレーズの意味合いを検討するには、本論部分冒頭に当たる1:18にも目を向ける必要があります。と言うのは、この節には、「神の義」フレーズが現われる1:17の内容と極めて関連の深い表現が出て来るからです。1:18では、「人間の不義」に対して「神の怒り」が啓示されていることが指摘されます。1:17の「神の義は、・・・啓示され」と、1:18の「神の怒りは・・・啓示される」とを比較すれば、同じ動詞(アポカリュプトー)が使われていることから、「神の義」と「神の怒り」との関連が自然に想定されます。ルターが「神の義」の福音的理解に至るまで、「神の義」を報復的義として理解し、「神の怒り」との深い関わりで理解していたというのも、理由のないことではないと思います。しかし、既に1:16において、「救い」が備えられていることが示唆され、1:17においてそれは「神からの義」として与えられることも示唆されているとすれば、「神の報復的義」の意味合いで終わらないことが既に示唆された上でのことであると理解できます。

このように、1:17の直近の文脈を確認してみると、かなり漠然とした形ではありますが、「神の義」フレーズが多様な意味合いを持って用いられようとしているとの理解が可能です。大きく言えば、ここでの「神の義」は、「神ご自身の義」について語っており(A)、同時に、「神からの義」についても示唆しているように思えます(B)。更に言えば、「神ご自身の義」の中でも、ライトが言うような「神の契約的誠実」としての意味合いを考えることも可能ですが(A1b)、1:18との比較で言えば、罪を正しく裁く「報復的義」、あるいは、ライトの一覧表で言えば、「配分的義」の要素を考慮する必要もありそうです(A1a)。

最後に、ここまでの検討結果を振り返りながら、1:17の「神の義」フレーズの理解の一つの可能性として、以下にまとめてみます。1:17「神の義は福音の中に啓示されている」という宣言により、まず、「神の義」が「福音」の中で啓示されているものであることが分かります。次に、1:16と1:17との比較の中から、「福音」を介して、「救い」と「神の義」とは深い関わりのあることが分かります。この前提において、まず「神の義」は、「救い」をもたらす背景として理解することが可能です。その場合、「神の義」はライトが主張するように、「神の契約的誠実」として理解することになります。しかし、旧約聖書の中にも、「神の義」が「救い」の背景とされるばかりでなく、「神の救い」の結果「義」が与えられるという記述が見出されることから、ここでの「神の義」フレーズを救いの結果としての「神からの義」として理解することもまた不可能ではないことが分かります。続く1:18以降始まる本論部分の最初の部分のテーマが人間の不義なる現実であり、救いを必要としている人間の現実が、神の前での人間の「不義」として表現されていることに注目すると、「救い」の結果が「神からの義」であるという理解はより説得力を持ちます。更に、1:17の「神の義は・・・啓示されている」という表現と1:18の「神の怒りは・・・啓示される」という表現の類似性からは、「神の義」が「神の怒り」との深い関わりを持つものであることが分かります。従って、「福音」の中に啓示されている「神の義」とは、人間の不義を指摘し、その罪悪に対して怒り、正当な報酬を与えようとする「神の報復的義」として、けれども同時に、そのような窮状にある人間に救いをもたらそうとする「神の契約的誠実」として、その結果として不義なる人間に与えられようとする「神からの義」として、重層的に理解することが可能です。

この手紙の序論部分に現われた1:17の「神の義」フレーズが、既に多様な意味合いで理解可能な形で現われていることを踏まえながら、以降現われる「神の義」フレーズの意味合いについて、慎重に検討していきたいと思います。

(3)3:5(1:18-3:20)

次の「神の義」フレーズは、3:5で現われます。文脈としては1:18-3:20の流れを踏まえる必要があります。ここで取り扱われる問題は人間の「不義」、「罪」の問題です。

1:16、17の検討の中で、「神の義」と「救い」との深い関わりを考えることができ、両者が「福音」の内容の本質的部分をなす可能性を指摘しました。神の契約的誠実としての「神の義」が「救い」をもたらし、その結果として「神からの義」がもたらされる、そのようなメッセージが福音の中に啓示されている、との理解が可能ではないかということでした。しかし、そこで語られている内容は、この序論的段階では極めてあいまいであることも事実です。人間の「救い」のために、どうして「神からの義」が必要であるのか、「救い」や「神からの義」が具体的には何を意味するのかが当然問題となります。本論の一番初めの部分にあたる1:18以降は、この問題に答えるものと見ることができます。すなわち、人間の不義なる現実、すべての人間が神の怒りに直面しているという問題のあること、このことのために、人間から出発した「義」が解決にならず、「神からの義」がどうしても必要であること、それこそが神の私たちに備えられた「救い」の出発点であること等を明らかにするのが、1:18-3:20の役割であると言えます。

まず、既に見たように、1:18の表現と1:17の表現の並行性を考慮すると、1:17の「神の義」フレーズは、「神の怒り」との深い関わりを持ち、「神の報復的義」の意味合いを含んでいると理解することができます。しかし、既に1:16において、「救い」が備えられていることが示唆され、1:17においてそれは「神からの義」として与えられることも示唆されていますので、「神の報復的義」の意味合いで終わらないことが既に示唆された上でのことであると理解できる、ということでした。同時に、これ以降の論述を通して、「神からの義」がどうしても必要な理由を示し、1:16の「救い」が「神の怒り」に直面する人間の窮状に対する神からの解決の備えであるとの示唆をも与える形になっています。

こうして始まる1:18-2:29は、異邦人だけでなく、ユダヤ人も、同様にこの問題に直面していることが論証されます。

続く、3:1-8においては、5つほどの仮想的質問が取り上げられます。この中で、3:5に「神の義」フレーズが現われますが、ここに現われる「神の義」は、文脈から明らかにA1、特にA1bで理解されます。仮想的質問の最初には、「ユダヤ人のすぐれている点は何か」とあり、これらの質問が特にユダヤ人との関わりで取り上げられていることが予想されます。3節では、ユダヤ人の側の不真実と神の真実(ピスティン)が対照されます。ピスティンが「真実」と訳されるべきなのは、4節で「ホ・セオス・アレーセース」と、神の「真実(アレーセース)」について記されていることからも明らかです。そして、続く5節では、3節で取り上げられた仮想的質問と同様の形で、人間の不義と神の義が対照されます。人間の不義と対照されている以上、ここでの「神の義」は、「神ご自身の義」であることが分かります。更に、7節でも「ヘー・アレーセイア・トゥー・セウー」と、やはり神の「真実(アレーセイア)」が言及されています。3:5を取り巻く文脈は、人間、特にユダヤ人の不真実と、それにもかかわらず、ご自身の義、契約的誠実に従って行動しようとされる神の真実との対照が基本テーマとなっています。

ローマ書に現われる7か所の「神の義」の中で、この箇所は唯一、ほぼ議論の余地なく、神のご性質としての義(恐らくは神の契約的誠実さとしての義)を意味すると理解できる箇所です。「神の義」フレーズを一貫してそのような意味で理解しようとするライトが、1:17の「神の義」の検討を後回しにして、3:5の「神の義」から検討を始めたのも無理はないという気がします。

しかし、3:1-8の文脈を更に詳細に確認してみると、この箇所では確かに神の契約的誠実が繰り返し語られ、確認されてはいるのですが、この部分全体の論旨は、続く3:9-20へと続いていることにも留意する必要があります。3:9で「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか」という、もう一つの仮想的質問が取り上げられます。これは、3:1の問い、「では、ユダヤ人のすぐれている点は何か」とほぼ同内容に見えます。これは、3:1-8の論議を振り返りつつ、一つの要約的結論へと導き出そうとしているように見えます。すなわち、パウロは、ユダヤ人が、「神の言がゆだねられている」(2節)という、特別な使命を託された民でありつつも、その歴史は彼らの「不真実」「不義」「偽り」を明らかにしました(3:3、5、7)。もちろん、そのことは、彼らを選び立てた神の「不真実」「不義」を意味するわけではないことをも論じてきました(3:4、5、7)。しかし、この箇所での議論の中から十分示唆されていることは、特別な使命を託されたはずのユダヤ人もまた、神の前に「不真実」であり、「不義」であったということです。但し、3:1-8では、かなり回りくどくそのあたりのことが取り上げられ、論じられつつも、どちらかといえば間接的な言い方で終わっているようにも見えます。しかし、3:9-20の部分で、3:1-8の最初の仮想的質問に立ち返りながら、一つの結論へと接近します(3:1、9)。すなわち、「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」という結論です(3:9)。続いて、「義人はいない、ひとりもいない」以下、詩篇の言葉が引用され、すべての者が罪を犯し、義人と言える者がないことを論証します。従って、3:1-8において、人間の不真実と神の真実、人間の不義と神の義とが対照されていることは事実ですが、続く3:9以降の文脈を見れば、そこでの論述の焦点は両者の内、人間の不真実、不義の方に当てられていっているのが分かります。この文脈を確認することは、3:21以降の「神の義」フレーズの理解のために大切と思います。

また、3:9「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」という結論から、直接3:21に続くわけでないことにも留意する必要があります。「ユダヤ人もギリシヤ人も」という罪の事実の全人類性が指摘された後で、もう一度「律法のもとにある者たち」、すなわちユダヤ人に焦点が当てられます(3:19)。その結論として記されるのは、以下のことです。「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とされないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」これは、続く3:21以降の意味を考える上で大切な内容です。

1:18-3:20全体を振り返ってみると、人間の不義なる状態、罪ある現実が主たるテーマであると言えます。「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」(3:9)という指摘は、「それ(福音)は、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力」(1:16)との指摘に呼応しているように見えます。福音がもたらそうとする救いとは、人間の罪の現実に関わっていること、そもそも「救い」が必要であるのは、人間のこの窮状の故であることが示唆されていると理解できます。このような流れの中で、3:5の「神の義」フレーズは、確かに「神の契約的真実」を意味するものではありますが、その文脈は、そのような神のご真実に反して、人間がいかに不真実であり、不義なる存在であるかを強調しているように思われます。1:17の「神の義」が、「神の契約的真実」「神の報復的義」「神からの義」といった多様な意味合いを含み持つという理解が可能であるとすれば、3:5の「神の義」は、それ自体としては確かに「神の契約的真実」を意味しつつも、その文脈においては、人間の不義なる現状が強調されている故に、「救い」が必要であり、「神からの義」なしには、神の前に義とされ得ない存在であることをも明らかにしているということが言えそうです。

(4)3:21-26(3:21-4:25)

3:21-26には、4回、「神の義」「彼の義(明らかに「神の義」の意)」といった表現が現われます。

21節に最初の「神の義」フレーズが現われます。「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とにあかしされて、現された。」ここでの「神の義」フレーズは、ライトの視点から見れば、3:5の「神の義」と同様、「神の契約的誠実」と理解するのが正しいということになります。これまでの文脈を踏まえると、そう受け取ることは不当なこととは言えないと思います。しかし、直近の文脈を確認する限り、別の意味合いを考えることもまた、妥当なことであるように思われます。留意すべき点の第一として、冒頭、「しかし、今や(ヌニ)」という表現があります。これは、それまでの時代にはなかった、何か新しいものが言及されることが示唆されているように思われます。第二に、「律法とは別に」という表現があります。これによって、前節(20節)との強いつながりが示唆されます。20節は、直訳的に訳せば、「なぜなら、律法の行ないを通しては、すべての人(肉)は神の前に義とされない。律法を通しては、罪の自覚がある。」となります。ここで、20節の「律法の行いを通して」と21節の「律法とは別に」との間に対照があることが分かります。20節は、「律法の行いを通しては、すべての人は神の前に義とされない」と言います。21節は、「神の義が、律法とは・・・別に現された」と言います。従って、ここでの「神の義」とは、「人が神の前で義とされること」、すなわち、「神からの義」を言及するものだと理解できます。

続いて、22節を読み進めると、この箇所で第2の「神の義」フレーズが現われます。この節を直訳的に訳せば「すなわち、神の義は、イエス・キリストの信仰(真実)によるものであり、すべて信じる人に。」となります。22節冒頭「デ(すなわち)」とあり、「神の義は・・・による」とありますので、(21節を上述のように理解するとすれば)21節で「律法とは別に」、「神からの義」が現わされたと言うのに対して、ここではそのような「神からの義」がどのようにして現われるのか、「イエス・キリストの信仰(真実)による」のだということが明らかにされていると考えることができます。口語訳で「イエス・キリストを信じる信仰による」と訳されている部分は、直訳的には、「イエス・キリストの信仰(真実)による」となり、ライトは、「イエス・キリストの真実」と理解します。文法的には両方の理解が可能ですが、直後に「すべて信じる人に与えられる」と続くのですから、「イエス・キリストへの信仰」と訳すことは必ずしも不自然とは言えません。そうすると、「神からの義」が「イエス・キリストへの信仰による」ということになります。

更に続く23、24節では、「なぜなら」(ガル)と、22節の内容に対する理由が示されます。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがない(アポルトローシス)によって義とされるのである。」というのがその理由です。ここで指摘されているのは、「人が自分の正しい行ないの故に義とされる」ということの不可能性ではないでしょうか。そうだとすれば、22節を「イエス・キリストへの信仰による神からの義」の提示として理解することが更に自然となります。同時に、23節では、「イエス・キリストへの信仰による神からの義」が可能となるための根拠として、「キリスト・イエスによるあがない」が提示され、これに基づき、「価なしに、神の恵みにより・・・義とされる」道が開かれたと理解できます。

25節前半は、24節の「キリスト・イエス」を説明する形で、「神はこのお方を立てて、その血による、信仰を通しての、ヒラステーリオン(贖いの供え物)とされた」と続きます。24節のアポルトローシス(あがない)は、「義とされる」ことに結び付けられていましたが、25節のヒラステーリオンは、「信仰」と結び付けられています。「義とされる」ことの根拠が「あがない」であったとしても、それが有効となるのは「信仰」を通してであることが明らかにされています。

ここまでの文脈を通して分かるのは、3:21の「神の義」は、「神ご自身の義」、特に「神の契約的誠実」としての「神の義」としての受け止め方も可能なように思えますが、直近の文脈からはむしろ、イエス・キリストへの信仰による「神からの義」として受け取ることが自然だということでした。ところが、25節後半及び26節では、再び、「神ご自身の義」として受け取ることのほうが自然かとも思われる「神の義」フレーズが登場します。しかも、それは、25節前半を補足する文章の中に現われています。

25節後半~26節には、「その(神の)義を示すため」という表現が2回現われます。25節後半の冒頭、「エイス・エンデイクシン・テース・ディカイオスネース・アウトゥース」と、26節、「プロス・エンデイクシン・テース・ディカイオスネース・アウトゥース」で、直訳的に訳せば、いずれも「その義の提示[証明]のために」、すなわち、「神の義を示すため」ということになります。従って、ここで言われているのは、「神がこの方(キリスト・イエス)を立てて・・・贖いの供え物とされた」ことの目的は、「神の義を示すためであった」ということです。これまで辿ってきた文脈からは、ここでの「神の義」も「神からの義」を示すように予想されますが、それらの句に付記されている内容からは、逆に「神ご自身の義」との意味合いが示唆されます。まず、25節後半の「その(神の)義を示すため」に加えられているのは、前置詞「ディア」+「神の忍耐をもって、今まで犯された罪を見逃すこと」という表現です。他方、26節の(今の時に)「その(神の)義を示すため」に加えられているのは、「エイス」+二つの不定詞句です。不定詞句を直訳的に訳せば、「彼(神)が義となること」「イエスへの信仰による者を義とすること」となります。2回の「神の義を示すため」に付加されている内容を比較すると、「今まで犯された」という語と、「今の時に」という句が時代の対照を示唆していることに気づきます。これは、3:21の「しかし、今や」という表現を思い起こさせます。また、アテネの人々に対するパウロの言葉をも思い起こさせます。「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。」(使徒17:30)「ディア」と「エイス」の訳し方によって、色々訳せそうですが、たとえば、以前のこととして、「神が忍耐をもって今まで犯された罪を見逃してきたこと」、そのために「神の義が示された」のであり、今の時代のこととして「神が義が示され」、その結果、「神が義となること」、「イエスを信じる者を義とすること」が可能となった、これらのすべてのことのために、キリストが贖いの供え物として立てられた、という文脈になります。25節の「その(神の)義」は、「神からの義」とも理解できそうですが、多くの注解者は、「神ご自身の義」ととらえ、「神が今まで犯された罪を見逃してきたことは、決して神ご自身の義に背くことではないことを示すため」と理解しているようです(ブルース、クランフィールド、バレット)。26節の「その(神の)義」は、その示された結果として、「神が義となること」と、「イエスを信じる者を義とすること」の両方が可能となると理解されますから、ここでの「神の義」フレーズは、神ご自身の義と神からの義との両方の意味合いを合わせ持つと理解できます。なお、ここで言われる「神ご自身の義」とは、どちらかというと、罪を正しく裁くという意味での「報復的義」「配分的義」が考えられているように思われます。

3:27-31は、再び、ユダヤ人を意識した論述になります。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(3:28)と、3:21-22で語られた「神からの義」が、「律法の行い」によるのでなく、「信仰」によることが再確認され、それによって、ユダヤ人が「律法」を持っていることの故に民族的誇りを持つことの不可能を示します。

4:1-25は、アブラハムの場合を取り上げながら、「働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められる」ことを論証します(4:5)。

このような流れの中で、3:21-26の4回の「神の義」フレーズをどのように理解することができるでしょうか。私としては、3:21、22の2回の「神の義」フレーズにおいては、「神からの義」としての意味合いが強く、3:25の「その(神の義)義」フレーズにおいては、「神ご自身の義」としての意味合いが強く、最後に3:26の「その(神の)義」フレーズにおいては、「神ご自身の義」と「神からの義」の意味合いを合わせ持つと理解できると考えます。しかし、これらがばらばらな、相互につながりのない表現として用いられているのではなく、それらの意味合いが相互に深く関わっていることを前提として、同じ「神の義」フレーズが用いられているのではないかと思います。また、「神ご自身の義」としての意味合いの中では、これまでどちらかと言えば、「報復的義」「配分的義」の意味合いが考えられてきたように思われますが、3:5においては、「神の契約的誠実」としての「神ご自身の義」が言及されていますし、7回の「神の義」フレーズの多くにおいて、程度の差はあれ、契約的文脈を確認することは可能だと思います。

1:18~4:25全体の流れを振り返りながら、「神の義」フレーズの総合的理解を試みるとすれば、以下のようなことになるのではないでしょうか。人の不義なる現実は、神の前に義とされ得ない人間の窮状をもたらします。そのような人間に対しては、「神の怒り」が啓示されています。それ故、本来的には報復的義としての「神の義」が示されるはずですが、神はイスラエルの民を中心として、人間との間に契約を結んできたお方です。人間の不義、不真実に対して、なお真実をもって臨もうとされます。そのような中で、神はキリスト・イエスをお立てになりました。それによって、「報復的義」としての「神の義」を示しつつ、同時に、自ら神の前に義とされ得ない人間のために、キリストの贖いのみわざに基づき、信仰による「神からの義」を神は備えられました。それによって、「神の契約的誠実」としての「神の義」もまた新しく示された・・・そのように理解することができるのではないでしょうか。

(5)10:3(9:1-11:36)

第6、第7の「神の義」フレーズは、神の救済のご計画の中でのユダヤ人の位置を問う、9-11章の文脈の中で現われます。ライトが指摘するように、
ここでは、そして特に9:6-39の中では、「神が事実義であって、契約の約束を守られたかどうか」について議論されています(108頁)。しかし、10:3における「神の義」の正確な理解のためには、直近の文脈も確認する必要があります。10:1でパウロは、「わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らが救われることである」と書いています。ここでは、ユダヤ人の多くが救われていないことが前提とされており、かつ救われるべきことが明らかにされています。そのような問いかけに続いて、「彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかった」と記します。「救い」と「義」との深い関わりが前提とされていることに気づけば、1:17前後の文脈を思い起こすことができます。そこでは、人間の不義なる現実、それにもかかわらず、人間を救おうとする「神の契約的誠実」としての「神の義」理解が可能でした。しかし、同時に、その結果として与えられる「救い」は、「神からの義」をもたらすとの理解も可能である、ということでした。10:1で提示されたユダヤ人の救いという主題に対しては、両方の理解が成立可能のようです。しかし、「自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかった」という表現からは、「神からの義」としての理解に分があるように思えます。

(6)所感

ローマ人への手紙に現われる7回の「神の義」フレーズを検討してきました。ライトの斬新な見解に触れなければ、このフレーズをこれほど子細に調べることもなかっただろうと思います。そして、改めて自分なりに調べた結果、私自身としては従来の「神からの義」としての理解を捨て去ることはできないと感じました。但し、7回のフレーズすべてが「神からの義」として統一的に理解すべきわけでないことは確認できました。3:5の「神の義」フレーズは、「神の契約的誠実」として理解する以外には理解困難であることは、多くの注解者も認める所だということも、今回確認したことの一つです。また、その他の「神の義」フレーズも、すべて「神からの義」として理解されてきたわけでなく、たとえば、ブルースは、1:17の「神の義」フレーズについて、「神ご自身の義」、「神からの義」の二重の意味で受け取れることを示唆しているように思われます(F.F.ブルース"Tyndale New TestamentCommentaries,Romans"IVP、1985年、74頁)。また、3:25、26に現われる「その(神の)義」フレーズについては、「神ご自身の義」として理解する注解者が多いようです(ブルース、クランフィールド)。結局、7回の「神の義」フレーズのいくつかを「神からの義」として理解するとしても、他のフレーズについては、異なった意味合いで考えざるを得ませんので、その点をさしてライトは、「もしあなたがdikaiosune theouという節のどこかの箇所で、(多くの翻訳がしているように)A1bやA2aの組み合わせ以外の意味を与えるなら、全体が混乱するであろう。もしあなたがそれを明らかに一貫してこれらの意味(神の契約的誠実としての意味)を示すものとして認めるなら、すべてがクリアになる。」と言っているのでしょう(107頁)。しかし、私としては、「神の契約的誠実」としてのみ、このフレーズを受け取ることは、逆にこのフレーズが持つ意味合いの豊かさを損なうことになるのではないかと思います。

たまたま手元に持っていた注解書の中で、このような点で参考になったのは、C.K.バレットのものでした。彼は、1:17の注解部分で、「神の義」フレーズについての諸議論に対するクランフィールドの分析を支持しながら、3種類の理解のあることを指摘します(バレット前掲書31頁)。それらは、多少の表現の違いはありますが、ライトの一覧表に当てはめれば(1)A2b、(2)B1a、(3)A1bにほぼ重なるように思われます。クランフィールド自身は、これらの議論を踏まえながらも、(2)、すなわち、「神からの義」としての理解を中心に置きます(クランフィールド前掲書23ページ)。しかし、バレットは、こう書いています。「区分や細区分は我々のものであって、パウロのものではない。彼にとっては多くの思想がディカイオスネーという用語のもとに理解されている。読者はどの節を考慮する際にも、それらの意味の内いずれを退ける前にも、注意深くしなければならない。」(バレット前掲書31頁)。そのような方向性のもと、バレットは、終始、「神の義」フレーズを重層的に理解しようとしているように見えます。

バレットの注解書が書かれた際には、第2版のための序文に記すように、既に、E.P.サンダースの著作も出され、パウロの思想を理解するために役立ったと言います。更に、第2版への改訂に反映させることには間に合わなかったと言いますが、J.ダンのローマ書注解も出版されていたようです。そのような中で、「神の義」フレーズを重層的意味合いを持つものとして理解しようとするバレットの注解が書かれたことは、注目すべきことと思いました。

 

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