長田家の明石便り

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マクナイト『福音の再発見』(その9:第8章後半)

2013-08-20 18:02:10 | マクナイト『福音の再発見』

ナルホドその8 福音は、人々を応答へと招く


使徒行伝に記された使徒たちによる福音説教を調べながら、著者は、そこにイエスの物語が語られ、イエスについての宣言がなされていることを指摘してきました。その後、著者は、「使徒たちは人々が応答することを求めた」と指摘します。すなわち、「人々をイエスの物語に導くにあたり彼らが求めたのは、信じて、悔い改め、洗礼を受けることだった」と言います(178頁)。「信じる」という言葉については、「『自分のすべてと救いとを(イエス・キリストに)信頼する』ことを意味する」と説明します(178‐179頁)。

「信じるとは、頭の中で何らかの真理に同意する以上のものである」との指摘は、同感です。信仰を真理への知的同意にとどまらせず、キリストへの人格的信頼として捉えていることについて、私も同意したいです。


どうかな?その7 信仰と悔い改めと洗礼との関係


福音の説教が人々に求める応答について、著者は、「信じて、悔い改め、洗礼を受けることだった」と言います(178頁)。ここで、三つの要素、「信じる」「悔い改める」「洗礼を受ける」ということが挙げられていますが、それらの相互関係について、著者は、慎重な言い方をしつつも、「信仰とは、その現れとしての悔い改めと洗礼を包含するものである」という見方を提案します(181頁)。

洗礼を悔い改めと信仰の表現として位置付けることには同感できますが、悔い改めを信仰の現れと位置付けること、信仰の現れとしての悔い改めと洗礼を包含するものとして信仰を位置付けることについては、「どうかな?」というところです。

悔い改めと信仰の両要素が見られる個所として、マルコ1:15がありますが、「悔い改めて福音を信じなさい」という順序です。「福音を信じ、(その現れとして)悔い改めよ」という順序ではありません。もう一個所、使徒行伝の中で、パウロがエペソでの自分自身の宣教活動を振り返りながら、「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張した」と言っている個所があります。ここでも、悔い改めが先で信仰が後になっています。

確かに悔い改めと信仰を切り離すことはできません。福音への応答として、信仰だけが言及されている個所もあれば、悔い改めだけが言及されている個所もあります。この事実は、悔い改めの中に信仰の要素があり、信仰の中に悔い改めの要素があることを示唆していると考えられます。しかし、両者について同時に言及されている個所では、「悔い改め」-「信仰」と言う順序になっていることからすれば、「悔い改め」に「信仰」への準備、備えとしての要素があるからではないかと考えられます。

著者同様、この点について私も慎重でありたいとは思います。私の考えは、「そうじゃないかな」と思う程度であって、他の整理の仕方があってもよいと思います。この点についての私の考え方には、おそらく、ウェスレー神学の影響があるのだろうと思います。


ナルホドその9 福音に正しく応答する者は救われる


私としては意外に思うほどですが、著者は、使徒行伝の検討の最後に、こう付け加えます。「福音を聞き、信仰と悔い改めと洗礼をもって応答する者は救われる」と(182-183頁)。ですから、福音がこれに正しく応答する者に救いをもたらすこと自体を著者が否定するのでないことは明らかです。

救いの内容としては、使徒行伝の検討の中から、「罪の赦し」、「聖霊に満たされ」ること、「継続的な回復」、「義認(解放)」、「平安」を指摘します(183頁)。特に、平安の意味として、神との間の平和というより、「異邦人とユダヤ人がひとつになることによる平和を指す」と指摘します(183頁)。

救いの内容の豊かさを捉えている点は、私としてもとても賛同できます。


どうかな?その8 福音の中で、「イエスについての宣言」「応答への招き」「救いの約束」をどう位置付けるのか


さて、ここまで著者の主張を追いかけながら、一つの課題が浮かび上がって来るように思えました。すなわち、福音説教の中で、「イエスについての宣言」、「応答への招き」、「(福音への応答の結果としての)救いの約束」をどう位置付けるかという課題です。

これに対する著者の回答は、このようなものと思われます。「福音の中核となるのは、メシヤであり王であるイエスについての宣言である。福音はこの宣言に対して応答するよう招き、この招きに応えた者に救いを与えるが、それはあくまでも結果であって、それは福音が正しく語られたことの結果に過ぎない」。

たとえば、第8章の終りで、著者は「福音を宣言するとは、イエスについての物語を語ることなのである。救いはその物語から流れ出る。しかし、その物語そのものは、『救いの計画』よりも大きく、そこに主眼があるのでもない」と言います(184頁)。

また、続けて、「福音の文化は、救いをないがしろにはしない。そうではなく、始まり(創造とイスラエルとの契約)、中間(ダビデ)、そして完結(イエスと最終的な贖い)を持つ、『福音の物語』という文脈の中に救いを捉え直すのである」と言います(184‐185頁)。

おそらく、著者の主張を分かりやすく言えば、福音の中に、「応答への招き」、「救いの約束」という要素を認めつつも、その重心を明確に「イエスについての宣言」へと移すべきだ、ということになるのでしょうか。

ただ、使徒行伝に見られる福音説教を調べる限り、「応答への招き」、「救いの約束」が明確に語られていることは確かであり、それは少し見方を変えれば、人々を救おうとする神様のご計画が語られているのであり、この救いに招く神様の招きに応えるよう訴えられているのであり、ある意味でそれは「説得」でもあると言えるのではないでしょうか。

重心がどこに置かれているのか、「イエスについての宣言」であるのか、「応答への招き」や「救いの約束」であるのかといった二者択一は正しくないのかもしれません。福音とはその全体であると捉えるのが自然でしょう。その中で、「救いの計画」や「説得の方法」も、要素として含まれていると考えることもまた、むしろ自然なことではないでしょうか。

「イエスのついての宣言」という要素の重要性を忘れてはならない、という主張としては、「ナットク」もできそうです。ただ、逆に「救い」が軽く扱われがちであることに対しては、私としては、「どうかな?」という思いがするのが率直なところです。あまりに「救い」にだけ重点が置かれて来た事に対する反動としては理解できますが・・・。これらの諸要素は、分裂させ、対立させるべきものではなく、その一つひとつを正しいバランスの中に置いた上で、全体として一つの福音であると受け止めるべきではないか・・・そんな風に思います。

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