今朝の中日新聞6面に、村上春樹氏「非現実的な夢想家として」と題した、カタルーニャ賞受賞スピーチの全文が掲載されてありました。
私もこのスピーチの全文に深く賛同するものです。
いまから16年前、ちょうど戦後50年目の節目の年に、現在のひとり語りの活動を始めた折、私は戦争で犠牲になった人々に恥ずかしくない生き方をしてきたかを顧み、個人的な反省を胸に抱いてスタートをしたのでしたが、日々の流れの中でその思いもお座なりになっていはしないかと再び反省の思いをあらたにしています。
それというのもこの3・11の東日本大震災。そして福島の原発事故において。
殊に原発事故において、私たちはしっかりとした姿勢で原子力の問題について向き合ってこなかったわけです。
村上氏がスピーチの中で使われている、被害者でもあり加害者でもあるという言葉。
私は今回の事態を受けて、終戦(あるいは敗戦)直後の感触を体感したような、あるいははじめて理解したような思いにとらわれました。それは、昨年末から年明け早々に堀田善衛著「記念碑」を読んでいたということもあったかもわかりませんが、なかなかに一言や二言ではいいあらわせない複雑な感情が、リアルタイムを生きている人間にはあることを思い知らされたのです。
さて、私はこれまで原子力の平和利用ということにおいては、なかば他人事ともいっていいような態度で、その危険性や核廃棄物の処理問題等について聞き及びながらも、どこか楽観論的な思いで、そのうちに画期的な発明がなされ、すべてがよい方向に向かうのではないかと、かなり安易に考えていました。
しかし、楽観論的に構えることがポジティブな思考だとしていることは、間違いであるということに気がつきました。
自分たちの時代に解決され得ない問題を残して次世代に先送りし、その上に立って快適な生活を送ることの罪深さは、計り知れないものだと痛感したからです。
もちろん将来的に画期的な発明がなされ、革新的技術の進歩によって核廃棄物が安全に処理され、安全神話ではなく本当の安全が確立されることを望むことに変わりはないのですが、しかし積み残された問題を抱えたまま、出来るからやってしまうというということにはやはりNOというべきなのです。
それは医学においても、どの分野においても同じで、モラルというものを問い質すべきなのです。
私もこのスピーチの全文に深く賛同するものです。
いまから16年前、ちょうど戦後50年目の節目の年に、現在のひとり語りの活動を始めた折、私は戦争で犠牲になった人々に恥ずかしくない生き方をしてきたかを顧み、個人的な反省を胸に抱いてスタートをしたのでしたが、日々の流れの中でその思いもお座なりになっていはしないかと再び反省の思いをあらたにしています。
それというのもこの3・11の東日本大震災。そして福島の原発事故において。
殊に原発事故において、私たちはしっかりとした姿勢で原子力の問題について向き合ってこなかったわけです。
村上氏がスピーチの中で使われている、被害者でもあり加害者でもあるという言葉。
私は今回の事態を受けて、終戦(あるいは敗戦)直後の感触を体感したような、あるいははじめて理解したような思いにとらわれました。それは、昨年末から年明け早々に堀田善衛著「記念碑」を読んでいたということもあったかもわかりませんが、なかなかに一言や二言ではいいあらわせない複雑な感情が、リアルタイムを生きている人間にはあることを思い知らされたのです。
さて、私はこれまで原子力の平和利用ということにおいては、なかば他人事ともいっていいような態度で、その危険性や核廃棄物の処理問題等について聞き及びながらも、どこか楽観論的な思いで、そのうちに画期的な発明がなされ、すべてがよい方向に向かうのではないかと、かなり安易に考えていました。
しかし、楽観論的に構えることがポジティブな思考だとしていることは、間違いであるということに気がつきました。
自分たちの時代に解決され得ない問題を残して次世代に先送りし、その上に立って快適な生活を送ることの罪深さは、計り知れないものだと痛感したからです。
もちろん将来的に画期的な発明がなされ、革新的技術の進歩によって核廃棄物が安全に処理され、安全神話ではなく本当の安全が確立されることを望むことに変わりはないのですが、しかし積み残された問題を抱えたまま、出来るからやってしまうというということにはやはりNOというべきなのです。
それは医学においても、どの分野においても同じで、モラルというものを問い質すべきなのです。